第107話 守護天使、責任をなすり合う
子どもたちはおそらく、テヒブの名前は知っている。大人たちが恐怖と共に口にするグェイブもだ。だが、シャント・コウの名前を知っているのは、そのテヒブがいない今、リューナしかいない。
どう呼んでいいか分からないから、とりあえず、手にした武器の名前を付けたのだろう。
……無理だな、あの山藤じゃ。
そんな察しがつくわけがない。この少年の危機にも、動こうとしないのだから。
子どもたちは、橋の縁を掴む手を引っ張り上げようとしている。だが、何人いようと如何せん、握力が足りない。掴まれた少年の腕は、今にも滑り落ちそうだ。
……何やってんだよ!
今度は、山藤にではない。俺自身に対して、そう思った。何とかしてやりたいが、モブの手や指を操るだけでは、しかもそれが幼子では、少年を掴み上げるほどの力を出すことができない。
川の流れの音が激しさを増す。気のせいかとも思ったが、俺は昼間に見たものを思い出してもいた。
……確か、ケルピーと言ったか。
闇の中を処理したCG画面の中で、高々と水しぶきが上がるのが見えた。そこから現れたものもまた、青白い魚のような形を取っている。
いや、上半身は馬だ。子どもたちが叫ぶ。
「グェイブ!」
俺も叫んだ。
「来いよ山藤!」
階下からオフクロが呼んだ。
「誰か来たの? こんな雪なのに?」
部屋のドアを開けて答えた。
「いや、何でもない! 来ない来ない、誰も!」
返事がなかった。たぶん、また韓流ドラマを見ているのだ。
代わりに、オヤジが答えた。
「ちゃんと勉強してんのか?」
いつの間にか帰っていたらしい。遅い夕食を取っているのだろう。
「あ、ああ」
俺は返事だけして、ドアを閉めた。
……ケルピー!
慌てて画面を見ると、橋の上にはグェイブを手にしたシャント・コウが立ち尽くしている。少年は、子どもたちの手で橋の上へと引き上げられていた。
……やったのか? 山藤が?
「グェイブ!」
子どもたちが歓声を挙げて抱き着いたのを見ると、たぶん、ケルピーを追い払ったのだろう。俺が目を離しているうちに駆け出したのは褒めてやってもいいが、ああいうのを瞬殺するような真似が山藤にできるわけはない。
当面の危機が去ったところで、俺は本来の問題を片付けることにした。山藤に、リューナを救出させなければならない。
少年を助け出すのに何の役にも立たなかった幼子を、村外れの壁に向かって歩かせる。女の子が、それを指差して山藤を呼んだ。
「グェイブ!」
山藤がグェイブを握ったまま、腕で慌てて抱え上げる。少年が何かに気付いたように、それを追い越して、子どもたちに声をかけた。
《妖精が、グェイブのところに連れてきてくれたんだよ!》
《そうよね、きっとそうよね!》
はしゃぐ女の子に男の子たちは顔を見合わせたが、特に反論する者もない。リーダー格の少年は告げた。
《グェイブが父さんたちを助けてくれる。一緒に来てもらおう!》
一同は足取りも軽く、壁の方へ向かってぞろぞろ歩き出す。いきなり子連れにされた山藤は、よたよたとついていくしかなかった。
そこへ、沙羅からのメッセージが入った。
〔何よ子ども使うなんてサイテー〕
黙って見ていたくせに、言いたい放題だ。山藤を連れて来いと散々、俺を急かしたくせに、手段はきっちり選ばせようとする。しかも、選択肢は示さない。最低最悪の外道はどっちだという気がする。
〔じゃあ止めろよ〕
その気になれば、僭王の使いが連れてきた兵士の誰かをモブとして動かすこともできたのだ。子どもたちは、あのまま木の陰から動くこともなかっただろう。俺も、幼子をマーカーから解放せざるを得なかったはずだ。
〔だから動かせるのいないし〕
ああ言えばこういう。それならそれで、この女には「ありがとう」の一言はないんだろうか。だいたい、言い訳もいいところだ。早い話、ボケっとしてる奴をマーカーで捕まえれば済むことなのだ。そんなのは今、松明を持ったまま、あっちこっちに突っ立っている。
〔もうケンカ収まったろ〕
村人を鎮圧している時の方が難しかったはずだ。だが、まだ沙羅は屁理屈をこね続ける。
〔兵隊動かしたら子ども逃げちゃうじゃない、だから〕
確かに、ふらふら歩き出した幼子と、自分たちを捕まえにきた兵士を天秤にかけたら、大人でも自分を優先するだろう。ましてや、この村人たちの子どもなら、なおさら責められないことではある。
だが、その理屈は結局、ここに行きつく。
〔結局、俺に使わせる気だったんじゃねえか〕
語るに落ちたのか、それとも最初からそう言うつもりだったのかは分からない。どっちにせよ、この女、何事もなかったかのようにスッキリとまとめた。
〔頼りにしてるからね、八十島君〕
人にやらせたことにケチつけておいて、この態度は何なんだろうか。さすがに怒る気も失せて、俺は一言でツッコんだ。
〔お前は?〕
無責任、かつ、その責任を完全に丸投げするがごとき回答が簡潔この上ない形で返ってきた。
〔山藤くん着いてから考える〕
その山藤耕哉…シャント・コウが村外れの壁に到着して隠れたのは、さっき子どもたちが隠れていた木の陰だった。
兵士たちが掲げる松明の下で手を後ろに回されて、また2人で背中合わせにされて縛られた村人たちは、ぐったりとして眠りこけたり、あるいは虚ろな眼で暗い夜空を仰いだりしている。
その中には、子どもたちの両親も兄弟もいるはずだ。少年が声を上げてしまったのも、無理のないことだった。
《グェイブが助けに来たよ》
そこはさすがの山藤でもまずいと思ったのか、口を塞いで黙らせた。子どもたちもとっさに、地面へ平たく押しつぶす。その緊迫した雰囲気は、幼子でも分かったらしい。シャントに抱き上げられたときにマーカーは外れていたが、泣いたり騒いだりすることはなかった。
それでも、少年の叫びが聞こえなかったはずはない。縛り上げられた村人たちの間を巡回していた兵士のひとりが振り向いた。
《……子ども?》
腰の剣に手をかけ、子どもたちとシャント…山藤が潜む木の陰に向かって歩き出す。
シャントが子どもたちに囁いた。
《伏せろ》
日本語など通じるはずもないが、どのみち、ここで口にすることはそれしかない。誰もがそこで伏せた。ただひとり、察しのつかなかった幼子だけは女の子が抱えて横になった。
兵士はすぐ近くまでやってきた。松明をかざして、あちこち見渡している。やがて、木の裏側まで覗き込もうとした。山藤たちが隠れても見えなかった闇夜だが、こうなるともう、どうしようもない。
これまでかと諦めたとき、他の兵士がもう1人、近づいてきた。
……2人かよ。
複数の目で探されたら、いくら何でもすぐ見つかる。しかも、女の子に抱えられた幼子が、苦し気にじたばたもがき始めた。これ以上動けば、すぐに分かってしまう。
女の子は微かに首を横に振って「ダメ」のサインを送ったが、むずかる幼子にわかるわけもない。リーダー格の少年を始めとして、その顔には不安の色が浮かび始めた。
シャント…山藤が身体の下に手をやったのは、光るグェイブを隠しているからだ。いざとなったら、これで戦うしかないということだろう。いかにネトゲ廃人とはいえ、窮地に立ったらこういう覚悟を決めないわけにもいかないはずだ。
声を殺して隠れているのを見ているうちに、俺も何だか息苦しくなってきた。
……見つかったら、何もかもおしまいだ。
子どもたちがどんな目に遭うかも分からない。シャントは殺されるだろう。山藤だけは、また別の誰かに転生するのだろうが、現実世界への復帰ミッションは一からやり直しだ。
だが、松明を持った兵士は後から来た兵士に振り向いた。危ういところで発見は免れたが、それでも敢えて探されれば同じことだ。ここでできることは、声を立てずに待つ事しかない。
それがこの場をやり過ごすことか、それともゲームオーバーであるかは、松明を持った兵士の判断に委ねられていた。
……こんなザコキャラに!
そう思うと面白くなかったが、俺には手が出せない。黙ってジャッジを仰ぐしかなかった。
ほとんど八つ当たりではあったが、俺は沙羅を恨んだ。
……山藤着いたら手え貸すんじゃねえのかよ!
だが、よく考えてみると、沙羅が言ったのは「山藤くん着いてから考える」だけだ。さらに、言ってもいないのは「何をするつもりか」ということである。丸投げとはいえ、全責任は俺にあった。
……打つ手なし。
名もない兵士を、黙って見ているしかない。やりきれない思いでいると、その兵士はとうとう口を開いた。
《空耳だったようだ、異常なし。すぐ戻る》
意外に簡単にケリがついて、全身の力がどっと抜けた。
……何を心配してたんだ、俺は。
まだ布団を敷いていない部屋の、畳の上に寝転がる。天井からぶら下がった四角い傘の下の円い蛍光灯が眩しくて、俺は手元のスマホに再び目を遣った。
こんなふうに一度、何かから視点を逸らしてみると、新しいことに案外、気付くものだ。
……まさか、沙羅?
メッセージを送ってみる。
〔今の、お前か?〕
〔な~んのことでしょ~か?〕
白々しい答えが返ってきた。
〔誰が助けてくれって頼んだよ〕
本当は危機一髪だったのだ。しかし、また黙って見ていたのかと思うと腹が立った。本心ではすまないと思っていたのだが、そこはしっかり見抜かれていたようだった。
〔ありがとうございます、は?〕
感謝を要求するメッセージにもムカついたので、こう返してやった。
〔『、は?』を除いて以下同文〕
沙羅のリアクションは冷ややかだった。
〔そんなこと言ってていいの?〕
その分、怒っているのか笑っているのか、その気持ちを知りたくなった。だが、確かめようにも、実際に会うことも顔を見ることも叶わない。言われた通り、画面に目を戻すしかなかった。
松明の炎の下では、持ち場を離れたらしいさっきの兵士が、その場を取り繕おうとしてか、村人たちを拳で小突いて回っているところだった。
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