第91話 雪の中のネコバス

 学校の玄関から吹雪の中へと駆けだした俺は、すぐにスマホを取り出して事態を確認した。

 ……最悪じゃねえか!

 山の斜面から、シャント…山藤が蹴り落とされている。

 ……何やってんだよ。

 シャント・コウの身体は、鬱蒼と生い茂る木々の下草の上で二度、三度とバウンドしながら、縦に横に転がるかと思えば凄まじい勢いで滑り落ちていく。

 さらにまずいのは、手からグェイブが離れてしまったことだ。

 あの山藤に、斜面を転落しながらでもしっかり持っていろというほうが無理なのだ。木の幹に腕をぶつけた弾みに、グェイブだけその場に引っかかって残っている。

 ……そこで木の根元にしがみつくんだよ!

 後からツッコんでも遅い。できるのは、なんとかグェイブだけでもシャント…山藤の後を追って落としてやることだ。

 ……さあ、どうやってくれてやる?

 うまくいけば、グェイブを再び掴んで斜面に突き刺し、転落を止められる。

 ……いや、そうしないと危ない!

 だが、グェイブが木の根元に引っかかったままだ。誰かが取ってやらない限り、あるいは触らない限り、動くことはない。

 横から沙羅が口を挟んだ。

「ニュートンの第一法則ね」

「うるさいな」

 俺が横目で睨むと、沙羅はそっぽを向く。

「あ~あ、助けてあげられるのにな、山藤クン」

「甘やかすんじゃねえよ」

 そうなのだ。異世界転生して何もかもトントン拍子に進めるわけにはいかない。ヒーロー扱いされて、いい気になって、リューナといちゃいちゃして、現実に戻る気をなくした日には……。

「男のやっかみはみっともないってば」

 なんか図星を突かれた気がして、言葉に詰まった。

 もともと、そういうつもりじゃなかったのに。

 魂の抜けた品行方正な連中が授業の度に立ったり座ったりするだけの毎日を、3月の頭まで過ごすのは嫌だった。それは、俺の望んだ「平穏と平凡」ではない。

 沙羅は俺の隙を突くように、スマホを取り出した。

「さあ、では守護天使の綾見沙羅サマが手を差し伸べてあげましょうか」

 俺はスマホの視界を拡大した。

 ……動かすモブがあるってことか?

 モブとは、「その他大勢」のことだ。逆に言えば、起こっている事件の当事者は動かせない。

 今、シャント…山藤は蹴り落とされて、山の斜面を転落している。

 だから、当事者といってもコイツだけだ。

 蹴り落とした男は、呆然と斜面の下を眺めている。

 ……こいつだ!

 俺は、この男の姿をタップし叩いた。頭の上に逆三角錐のマーカーが回る。片足をドラッグしてやると、バランスを崩して尻餅をつく。そのまま斜面に沿って滑り落ちる先には、グェイブの長い柄の先があった。

「あ~あ、先にやられちゃったか」

 声のする方を見ると、言ったこととは裏腹に、沙羅は俺を楽しそうに見つめている。狙いは同じだったらしく、スマホの中からほとばしる閃光を、俺は横っ面に浴びることとなった。

 眩しい光が治まったところで、俺はグェイブの落ちていく先を確かめる。

 沙羅が再び、横から口を挟んだ。

「甘やかさないんじゃなかった?」

 俺はスマホの画面を眺めたまま、ぶっきらぼうに答えた。

「死なれちゃ意味がない」

 普段からシャント…山藤に冷たいことを言っておいて、いきなり善人ぶるのは格好悪かった。

 本来、こいつのフォローは沙羅のやることだ。そもそも、なぜクラスを異世界転生させたのかはよく分からない。自分の国を僭王に乗っ取られたという立場を考えれば、思い通りになるチェスの駒が欲しいのかもしれない。

 もっとも、山藤がいかほどの役に立つか分かったものではないが。

 腹の中でそんな悪態をついていると、沙羅は俺の耳元で囁いた。

「八十島君のそういうとこ……」

 俺はドキッとして、沙羅の顔を見た。その頬では、吹き付ける雪の一粒一粒が、細かく砕け散っている。

 ……俺の、こういうとこが、何だって?

 だが、沙羅がその続きを口にすることはなかった。

 スマホの中では、グェイブの閃光と衝撃で吹き飛ばされたシャント…山藤が、崖下へと転落するところだった。

「さっすが」

 沙羅は皮肉っぽく手を叩いた。

「いや、別に」 

 結果的にハードミッションを与える羽目になったわけだが、思いもよらなかったことに俺はうろたえた。

 沙羅はうんうんと頷く。

「獅子は千尋せんじんの谷に我が子を突き落とすっていうしね……」

 グェイブは自らの発した衝撃でくるくる回りながら、シャント…山藤を追うように飛んでいく。加速がついているのか、落ちていく身体にまではなんとか届いた。

「掴め!」

 俺は叫んだが、スマホの中にまで聞こえるわけがない。シャント…山藤に、すぐそこにあるグェイブを手に取れるような甲斐性があるわけがなかった。

 ……ダメか。

 だが、奇跡は起こった。

 横回転するグェイブの切っ先が一瞬、崖に突き刺さったのだ。それに引っかかったシャントの身体に、ブレーキがかかる。ほんのわずかの間ではあったが、落下の急加速は止まった。

 グェイブの刃は崖の側面から抜け、シャント…山藤は谷底に落ちた。だが、一度落下が阻まれた分、衝撃は割と少ないようだった。

「ああ、よかった!」

 沙羅は嫌みったらしく安堵の声を上げた。俺が睨みつけると、降りしきる雪に向かって両手を広げる。

「鬼コーチのパワハラから生き残れて」

 沙羅はそう言ったが、俺は内心、心配していた。なにぶん、シャントはあの山藤なのだ。

 ……大丈夫だよな。

 スマホをじっと眺めていると、画面の中では、谷川のほとりの岩場に落ちた小柄な影が身体を起こすところだった。

 ……よかった。

 ようやく安心できたところで、背後の沙羅が俺をせきたてた。

「もうそろそろじゃない? バス」

「だからもう急いで帰れよ」

 吹雪の中で言い捨てて駆けだした俺を、沙羅は雪の中にもかかわらず、軽やかに追ってくる。バス停の前に立つと、沙羅の言った通り、迎えの臨時バスはすぐ目の前まで来ていた。

 吹雪は俺たちの前に、壁となって立ちはだかっている。その向こうに見えるものは、人も雪も、ぼんやりとした影でしかない。遠くの山々に至っては、何となく気配はあるが、もう見えはしない。

 その彼方から来るはずのバスが来られないので、近所からそれらしいものを回してもらったらしいのだが、雪の壁の向こうに見えるのは、どう見てもバスには見えなかった。

 どちらかというと、巨大な猫だ。

 どっかのアニメみたいな。

 さしもの沙羅も、呆然とつぶやいた。

「何あれ?」

「いや、俺にも……」

 縦に横に斜めに、荒れ狂う風に任せて吹き付ける雪の中、猫はそろそろと歩みよってくる。

 やがて、すぐ目の前に現れたことで、その姿は知れた。

 マイクロバスの先端に、大きな猫の顔が付いている。もちろん、ヘッドライトは目に模してあるので、ちょっと平たく潰れたタレ目感があった。

 早い話が、猫型のバスである。少なくとも、日常生活でいい大人が乗るものではない。

 それは、沙羅も感じているようだった。

「これ、もしかして……」

 俺も同じことを考えたが、言いたくなかった。どっちみち、俺を前にして扉がスライドすれば分かることだった。

 その向こうから物珍しそうに俺を見ているのは、黄色い帽子に園児の制服を着た子供たちである。

 大雪で路線バスが動けなくなった代替措置として回されてきたのは、近所の幼稚園の送迎バスだったのだ。

 ……カッコ悪っ!

 そうは思っても、これに乗らないと帰れない。背を屈めながらバスの低いステップに足をかけた俺はちらりと後ろを振り向いた。

 沙羅はうつむいていたが、編んだ髪と肩は小刻みに震えている。俺は腹をくくって目をそらすと、座高と背もたれのやたら低いシートに身体を屈めて座り込んだ。

 ドアがスライドして閉まる瞬間、沙羅が腹を抱えてゲラゲラ笑いこけるのが分かった。だが、その声は雪に吸い込まれて、俺に聞こえることはなかった。

 狭いバスのなかにぎっちり詰まった幼稚園児に囲まれて、俺は茫然とスマホを見つめるしかなかった。

 そんな俺に声をかけてきたのは、エプロン姿の若い先生だった。

 ……保母さんと言うほうが通りはいいのだろうけど、敢えて正確を期するなら、それは保育園の先生だ。管轄は厚生労働省。幼稚園は文部科学省の縄張りだ。

 そんなことを考えなければやっていられないほど、園児に囲まれて惨めな気持ちだった俺に、先生は優しく微笑んだ。

「ごめんなさいね、こんなバスで」

「あ、いえ、すみません、わざわざこんな」

 つい、しどろもどろになってしまった。女子大生くらいの年のお姉さんに本気で済まなそうに言われると、どうも調子が狂っていけない。ここんところ、綾見沙羅なんぞという顔とスタイルだけが取り柄の、裏表の激しい腹黒ワガママ女を相手にしているせいだろうか。

 だが、そんな甘い時間はそう長くは続かなかった。俺の手にあるツールに、幼子たちが興味を示しはじめたのだ。 

「ねー、それ何?」

「スマホ」

 俺は一言で答えた。子供はうるさくて苦手だ。

 だが、園児たちはそんなことなど知ったことではない。

 別のちびっ子が画面を覗き込んだ。

「あ、知ってるー、ゲームするヤツ」

 俺はそれとなく、シャント…山藤の様子を眺めた。

 墜落した場所から何とか立ち上がって、グェイブを杖代わりに川沿いを歩き始めている。ひとまずは安心だ。

「ゲームだけじゃないけどね」

 そう言いながら、俺は画面を手で隠した。実際、俺がやっているのはゲームであってゲームではない。人間ひとりの運命がかかっている。

 もっとも、人の話を聞かないのが子供の子供たる所以だ。

「それ、何のゲーム?」

「大きくなったら分かるよ」

 俺は顔面の表情筋を極限まで駆使して、精一杯の笑顔で答えた。男の子が、さも納得したように大声を上げる。

「あー、それパパにも言われたー!」 

 まあ、大人の常套句といったところだ。だが、隣にいた小さな女の子もはしゃぎだした。

「うちのママもえろげはだめってパパに」

 どうも、教育的配慮に無頓着な家のようだが、そうでなくても子供は恐ろしい。大人の言うことをどこで聞いているか分からない。

 先生はすっかり恐縮してしまった。

「すみません……みなさん、バスの中では、お口を閉じてくださいね」

 騒ぎ声は治まることがない。

 気持ちが落ち付かなくなって、俺は苦し紛れにたしなめた。

「子供がそういうこと言っちゃいけないよ」

 幼子たちは口々に叫ぶ。

「えー、なんでー」

「えろげってなにー」

 あまりの騒がしさに、運転手が咳払いをした。俺は小さくなって、スマホの中の異世界に注目した。

 ……まずい。

 川べりを、シャントつまり山藤が頭を抱えて逃げ回っていた。何か黒い虫が周りを飛び回っている。

 スマホの中は夏だから、たぶん、虻か何かだろう。だが、モブがいないからどうすることもできない。

 弱り果てているところに、子供たちの声が追い打ちをかけてきた。

「ねー、なにー」

「教えてー」

 運転手の咳払いで、俺は我に返った。

 小さな子供たちがじっと見つめている。俺は思いっきり息を吸い込んで、一言一言ゆっくりと話した。

「教えてあげるから、こっちをちゃんと見てね」

 慌てた先生は、おどおどとこっちを見ている。純真な子供に何を言いだすのかと思ったのだろう。だが、山藤ならともかく、その手のことにはとんと疎い俺に何が言えるわけでもない。

 できることはただ一つだった。

 一瞬だけ真顔になって、一言だけ告げる。

「君たちが知らなくてもいいことだ」

 その場が静まり返った。目的を達して、再びスマホを確認しようとした俺だったが、そうは問屋が卸さなかった。

 俺のプレッシャーが利きすぎたのか、何人かの子供がベソをかきはじめたのである。再び、車内は騒然となった。

「あー、泣かしたー」

「いーけないんだー」

 お姉さん先生は、隣に座った泣く寸前の子供をなだめながら子供たちに言った。

「みなさーん、お兄さんは怒ったんじゃありませーん、ちょっと静かにしてほしかったんだよー!」

 そう言いながら俺を見つめる眼差しには、明らかに非難の色があった。いたたまれなくて目をそらすと、窓の外は凄まじい勢いで雪が降って薄暗かった。

 なんとかその場を取り繕おうというのだろう、先生は無駄に高いテンションで幼児たちによびかけた。

「じゃあ、みんなでお歌を歌いましょう。何がいいかな?」

 はいはいはーいと子供たちが手を挙げると、車内ではやがて大合唱が始まった。俺は小さな椅子にうずくまって耳を押さえながら、異世界でシャント…山藤の苦難を為す術もなく見守るしかなかった。

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