第87話 遅刻と雪と姫君の涙
授業に遅れないように、というより吹き付ける雪を避けるために、俺は校舎の中へ駆け込んだ。途端にチャイムが鳴って、2時間目の終わりを告げる。ぞろぞろと階段を下りてくる、解放感を満面に表した生徒たちの波をかいくぐって教室へ向かった。
そこへ一歩足を踏み入れると、眼の前には予想通りの光景が広がっている。ハッキリ言ってしまうと、魂の抜けた品行方正な級友たちの中で、ただ一人浮いている転校生の逆ハーレムだ。
名前なんぞいちいち覚えていない田舎者どもに囲まれて愛想を振りまいているのは、さっきまで俺がスマホの中で眺めていた異世界のお姫様だ。
「あ、八十島君!」
綾見沙羅が窓際の自分の席から立ち上がって手を振ると、男どもの嫉妬の視線が一斉に突き刺さって痛かった。
……俺は全然悪くないのに。
その上、廊下から誰かに背中をどやしつけられて、思いっきりつんのめる。誰だよと思って教室から出てみると、慌てて自分のいたらしい群れに戻っていく女子生徒の後ろ姿があった。
おおかた、他クラスの「反・綾見沙羅連合」の一人だろう。文句があるなら沙羅に直接言え、更に。
休み時間がもったいないので自分の席に着こうとすると、今度は沙羅に占領されていた。取り巻きの男どもは、そろそろ授業が始まるのと、沙羅の関心が俺に逸れたのとで、面白くもなさそうに、教室の反対側にある開け放しの引き戸からぞろぞろ出ていく。
……ざまみろ。
何となくスカッとしたのは、別に沙羅が独占できたからではない。ただ単に、事情も知らない有象無象の吠え面が見られたからだ。
そいつらを尻目に、俺は椅子にちょこんと座って見上げている沙羅の笑顔に言い放った。
「どけよ、そこ」
もちろん、沙羅が聞くはずもない。というか、最初から俺の話など聞いてはいない。
「どうだった?」
もちろん、シャント・コウ…山藤耕哉がどうなったかという話だとは見当がついたが、俺はわざとトボけてみせた。
「すごい大雪でさ。歩いたほうが早いくらいの大渋滞だったよ」
沙羅は、ついとそっぽを向く。
「じゃあ、歩いてくればよかったのに」
言うことがいちいち憎たらしい。授業がそろそろ始まるというのに、人の席を塞いでいるのを何とも思っていないのか、それともその自覚すらないのか。
抗議するのも面倒臭くなって、俺はさっさと結論を告げた。
「手枷は外れた」
「ありがとうは?」
こういう女だ。自分の言い分を通すためなら、手段を選ばない。もしかすると、スマホの中の異世界で僭王が反乱を起こしたのは、結果的には正しかったんじゃないか。
それはともかく、手枷のカギを拾って届けに来た女はやっぱり、沙羅の差し金だったらしい。いつものことながら、いらぬお節介だ。
俺は教室の時計を見ながら毒づいた。
「さっきのやっぱりお前か」
「さっきの?」
沙羅が眉根を寄せて、お姫様らしからぬしかめっ面をする。どうやら、心当たりはないらしい。すると、あのカギは偶然拾われたといういうことになる。
何だか納得いかなかったが、とりあえず断言はしておいた。
「お前のおかげじゃあないからな」
「無理しちゃって」
優雅に立ち上がって俺の額を突っついたりするこの女のお気楽さが、ときどき羨ましくなる。俺は椅子取りゲームでもするかのように、すかさず席に着いて言ってやった。
「リューナのおかげだよ」
ふん、と沙羅はそっぽを向いた。隙を突かれたのが面白くないのか、それとも自分の言い分が完全否定されて機嫌を損ねているのか。
たぶん、その両方なんだろうが、見下ろす視点で冷ややかな一言が頭上から降ってきた。
「八十島君もそっち?」
「そっちって何だよ」
できれば無視しようかと思ったが、周りの視線が気になってつい、言い返してしまった。よく考えてみれば、シャント・コウこと山藤耕哉を始めとしたクラス全員は残らず転生して、ここにいるのは魂の抜け殻ばかりだ。毎日のルーチンワークをこなすばかりで、俺たちの話なんか聞いてはいないのだ。
沙羅は沙羅で、それがよく分かっているからか、わざとらしく大騒ぎする。
「あ~ショック、私の八十島君が」
教室内は聞かれても心配ない。そろそろ3時間目が始まるから、廊下を行き交う生徒などほとんどいない。
だから気にすることもないのだが、もしかしたら今のが偶然聞かれて、下駄箱にカミソリ入りの封筒ぐらい入れられるかもしれないという気もして、俺は慌てた。
「お前のじゃないし俺が何だって」
調子に乗って、沙羅はさらに嘆いてみせる。
「生身の私よりあんな2次元のCG女のほうがいいのね」
「んなわけないだろ」
そうは言ったが、腹の中では悪態をつく。
……ある意味それは当たっているが。
ワガママで人を人とも思わない沙羅と比べたら、ほとんど自己犠牲といってもいい行動を取るリューナの方に、どれだけ心を動かされるか分からない。
しかも、沙羅の暴挙はそれだけでは収まらなかった。
「もういいわ、私だけで行く」
「……どこへ?」
俺が聞くか聞かないうちに、沙羅は教室を駆け出して行った。その中の誰もが整然と自分の席で、授業の開始を待っている。誰ひとりとして目を留めることすらなかった沙羅を、俺は慌てて追いかけた。
廊下にはもう誰もいない。他教室の開いた戸の向こうには、沙羅の後を走る俺を見とがめる眼差しがいくつも感じられた。
……カミソリは確定かな。
そんなことを頭の隅で考えているうちに、沙羅は階段を駆け下りて、上履きのまま玄関から吹雪の中に飛び出した。
校門も見えないほど真っ白な光景の中で、何かのモニュメントが雪に埋もれていた。辺りで立ち止まった沙羅を、俺は呼び止めた。
「どこ行くんだよ」
「クリスマスパーティ」
何のことか一瞬、分からなかったが、さっきの男子どもに誘われていたのだろうと察しがついた。
……こんなクソ田舎でかよ。
俺はそういうイベントが、ほとんど本能的に嫌いだ。田舎者は田舎者らしく、年末は雪に埋もれて先祖の霊と共に年を越せばいいのだ。
それでも気になったことを、一応は聞いてみた。
「男子の? 女子の?」
横薙ぎの雪の中で振り向いた沙羅は、艶然と微笑んだ。
「気になる?」
「別に」
実を言うと、図星だった。
……勝手にしろ。
男子とパーティしようが女子会やろうが、俺の知ったことではない。静かな年末と爽やかな年始を過ごさせて欲しかった。
ところが、そこで沙羅の笑みは悪戯っぽいものに変わった。
「八十島君と約束したからって言ってある」
「何で俺を巻き込む!」
暗い吹雪の中で、スマホの中の燃えるような日差しの国から来た異世界の姫君は片目を閉じてみせた。
「女の子の自己防衛」
どうやら、女子会ではないらしい。ちょっと心配にはなったが、勝手な嘘をつかれて余計な恨みを買うのはごめんだ。
「こっちの都合も考えろ!」
俺の家は門限が厳しいのだ。休日は午後6時である。今どきの高校生にはあり得ないが、こんな田舎でやることは、午前4時くらいから午後5時台までしかない。
その辺を知ってか知らずか、沙羅はあっさり縛りを外してくれた。
「無理しなくていいわ。単なる言い訳だから」
「じゃあ行かない」
脅かさないでほしい。だが、沙羅がタダで許してくれるわけがなかった。
「言い訳考えといてね」
無茶振りもいいところだった。取り巻きの男子連中からの恨みを買って、自己防衛を迫られているのはこっちのほうだ。
さすがに俺は抗議した。
「そこは相談しろよ」
「いや」
一切の理屈抜きに、一言で却下された。確かに高貴なお方ではあるが、人を危険に晒しておいて、それはない。俺には事情を知る権利がある。
「何で」
全ての怒りを込めた追及の一言だったが、思わぬ返事で腰砕けにされた。
「冬休みに入ったら、私、ひとりになっちゃう」
目を伏せたつぶやきに、俺はつい言葉を失った。それでも何か言わずにはいられなかったのは、ただ意地を張りたかったからに過ぎない。
「何人暮らしだよ」
あまりに芸のないツッコミに、沙羅もちょっとイラついたようだった。
「そういう意味じゃなくて」
口にできない事情を抱えた女の子に対する態度だけを問題にするなら、俺は完全に悪者になっていた。
「すまん」
つい、詫びの言葉が口を突いて出た。沙羅は俺に背を向けたが、その言葉は素直だった。
「いいの……ありがとう」
なんだか、沙羅らしくない。この女はもう少しこう、何か偉そうで、意地っ張りでなければこっちも張り合いがない。
「対戦相手だぞ、俺は」
敢えて冷たくあしらってみせたが、何だか自分でも白々しい気がした。
ますます激しく吹雪いてくる中で、始業のチャイムが鳴った。俺は慌てて、沙羅を急かした。
「おい、こんなんでサボったなんて言われたくないからな」
沙羅は、モニュメントに積もった雪を両手ですくうなり、自分の顔にこすりつけた。振り向いた顔は溶けた雪に濡れて、泣き笑いをしているように見えた。
ものも言わずに俺の傍をすり抜けた沙羅を追って、俺も走りだした。運のいいことに、チャイムは教室に着くまで鳴り続けていてくれた。
それでも、ぎりぎりで教室に入った沙羅は、教科担当の前で無言で着席したクラスの生徒の後ろで俺に囁いた。
「間に合わなかったけど……」
「いや、セーフだろ」
教室に駆け込んできた俺たちをじっと見つめている教科担当に愛想よく目礼した沙羅は、席に戻りながら、一言だけを残した。
「生きてるよね、テヒブは」
「……ああ」
曖昧な返事をしながら席に着いた俺は、転生を選んだ委員長の号令のままに起立と礼をした。だが、着席する間にも、沙羅の問いから生まれた2つの疑問が頭から離れることはなかった。
……テヒブはどうして、ポール・ウェポンを持っていけなかった?
……それがなぜ、シャントの手に渡った? 山藤の手に。
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