第77話 大遅刻の雪の中で

 急に身体がぞくっと震えて目が覚めると、朝にしては天井が薄暗かった。

 ……雪だ。

 こういう時は、玄関にも積もっているし、深ければ道で足を取られるし、バス停に行くのもひと苦労である。

 部屋の窓から様子を見てみようと起き上がったときに、枕元の目覚まし時計が視界の隅をよぎった。

 8時10分。

 ……バス完全に遅刻だ!

 俺は異世界とつながっているスマホをろくに確かめもしないでカバンに突っ込み、慌てて着替えた。

 起こしてくれなかった母親にモッタイナクも悪態ついて、朝食もそこそこに家を出た。

 目の前が真っ白になるくらいに降りしきる雪の中をもたもたと歩いてバス停に立つと、ヘッドライトがゆっくりと近づいてくる。

 イライラしながら待ったのは、こんな時間のバスには乗ったことがないからだ。

 慌てて駆け込むと、バスの運転手が言った。

「申し訳ありません、1時間の延着です」

 それならまだ学校で遅刻の言い訳も立つ。しかも、そのくらいの大雪なら運転も遅い。俺は異世界のシャント…山藤の様子を確認しようと思ってスマホを見た。

 電源を入れると、アプリと共に現れたのは沙羅のメッセージだった。

〔遅い! 何してんの!〕

 朝の6時くらいに来ていた。沙羅はもしかするともう、学校にいるころかもしれないが、スマホの電源なんか切っているわけがない。俺は言い訳のメッセージを送った。

〔バスが遅れたんだよ〕

 だが、沙羅の非難はそっちではなかった。

〔山藤君つかまったよ〕

 あの山藤が何で警察に、と思ったが、こいつは異世界でシャント・コウをやってるはずだ。

 ……相当寝ぼけてんな、俺も。

 捕まったとすれば、村人か村長にだろう。だが、夕べはテヒブの武器を抱えて寝たはずだ。あまり時間が遅かったのでスマホの電源を切って寝てしまったが、朝までに何があったのか。 

 窓の外を横薙ぎに飛び過ぎていく雪の向こうには、ぼんやりと白く霞む灰色の山肌がのろのろと横滑りする。このペースで行くと、バスターミナルでの乗り換え込みで、あと1時間はかかるだろう。

 おかげで俺は悠々と、シャント…山藤が捕まっている様子を確かめることができた。

 仰向けに転がされている床の傷やシミには、何となく見覚えがあった。

 馬小屋で手枷足枷をはめられていたシャント…山藤は、そこで同じように監禁されていたリューナを襲った吸血鬼ヴォクス男爵を、ニンニクの臭いで撃退したのだ。

 扱いは一夜にして変わり、不審者は一転して村の英雄になったわけだが、それは一日だけのことだった。

 こいつは何の役にも立たないムダ飯食らいだということが、日暮れまでに分かったからだ。

 テヒブの残した魔法の武器グェイブを手にしている間は一目置かれたといえば置かれたが、別にシャント…山藤が見直されたわけではない。シャントでないものがグェイブに触れれば閃光と共に弾き飛ばされるというだけのことだ。

 だから、いかに一念発起してリューナの部屋の前で寝ずの番をしようと、恐れられているのはあくまでもグェイブである。触らなければどうということはないのだ。

 そんなわけで、夜中に何が起ったのかは見当がついた。熟睡しているところを、グェイブに触れないように細心の注意を払った村人たちに抱き起されて、元の部屋の中に閉じ込められたのだろう。

 ……気づけよ。

 一夜のうちにいろんなことが起ったのだから、深い眠りに落ちるのも仕方がない。テヒブが消え、村長の家に連れ戻され、手枷をはめられそうになるリューナを守って戦ったのだ。

 だが、こうなっては元の木阿弥というヤツだ。

 やがて、シャント…山藤は目を覚ましたが、床を左右にゴロゴロ転がることしかできない。何で立てないのかよく見ると、後ろ手に手枷をはめられていた。

 足が自由になっているのは、トイレぐらいには行かせてやろうということだろう。その気持ちは分かる。俺もこいつの下の始末なんか、目の前に1億円積まれたっていやだ。

 立てないなら、這うしかない。壁かドアまでたどりつけば、そこを頼りに立ち上がれるだろう。

 だが、シャントは動かなかった。

 ……気づけよ、山藤。

 何とか手掛かりを与えてやらなくてはならないので、俺は視点を動かして部屋を見渡した。

 窓から差し込む朝日。

 それに明るく照らされた床、壁、天井。

 格子の影。

 ……まず、ここからだな。

 山藤にヒントを与えるには、誰かモブを捕まえる必要がある。俺は窓の外をスマホ画面に映して、人影を探してみた。

 ……いるじゃん。

 村はずれの壁の方から男たちがせわしなくやってくるたびに、別の男たちがそっちへ行くのは、夕べと同じだ。僭王の使いとやらは、まだ壁の向こうに陣取っているんだろう。

 道端を拡大して男を1人、モブとして捕まえる。これで、俺の視点はモブが基準となった。眩しいくらいに晴れ上がった空の下では、村長の家の周りで女たちがせっせと収穫物を運んだり、倉庫らしい建物から農具を持ち出したりしている。

 俺の動かすモブはその間をかいくぐって、村長の家の中に入った。夕べ、シャント…山藤が上がった階段に足をかける。

 たぶん、シャントのいる部屋のドアにはカギがかかっている。だが、ここ叩いてやれば、少なくとも這って行く方向の見当はつくはずだ。

 だが、その時、背後にドヤドヤとやってきた連中がいる。視点を動かすと、壁の方から戻ってきたらしい男たちだった。

 ……こいつらに紛れ込むか。

 下手に目立って、止められてもまずい。俺は男たちの動く速さに合わせて、モブを操作した。

 階段を上って、思った通り錠前の下りたドアをノックする。

 シャント…山藤の声が応えた。

《外せ! これ外せよ!》

 自分で立ち上がってなんとかしようという気はないらしい。しかも、日本語だ。

 ……やる気あんのか!

 俺は男たちと共にリューナの部屋へと向かった。ここまですれば、いくら山藤でも自分で立ち上がるだろう。

 ……立て、シャント・コウ!

 カギのかかっていないドアを、俺は男たちを押しとどめるような姿勢でノックした。

 夏の朝。

 しかも女の子だ。

 どんな格好で寝ているか分かったもんじゃない。

 男が絶対に踏みこんではいけない空間だ。

 ドアには錠前が下ろされていない。リューナが起きていれば、自分で開けられるはずだ。何があろうと、男どもは俺が食い止めなくてはならない。

 モブはドアの真ん前に立たせておいた。こうすれば、他の男が開けようとしても、しばらく時間が稼げる。

 思った通り、後ろの男がモブを押しのけにかかった。俺はドアに向かってモブを前進させる。進んだり退いたり、ドアの前のモブはせわしないステップを何度も踏まなくてはならなくなった。

 ……慌てなくていいからな、リューナ。

 だが、そんなパワーゲームにも限界というものがある。男たちの邪魔になってしるモブは2人がかり3人がかりで、ドアの前から引き剥がされた。

 男たちがドアを開けて部屋に踏みこむ。

 ……まずい!

 だが、そのときにはもう、朝日を背にしたリューナが、金色の髪をかき上げながら、男たちの目の前に立っていた。

 まだ寝ぼけ眼で、髪が乱れている。鏡なんかないだろうから気が回らなかったのだろう、夕べ来ていたままの服の胸元が少しはだけていた。男たちが一瞬立ち止まったのは分かる気がする。俺も思わず豊かな谷間に目を奪われた。

 ……CG画面だろが!

 山藤と違って、そっち関係の趣味はない。目を逸らして眺めた窓の外は、そこそこ明るくなってはいた。だが、バスターミナルへはまだ遠い。

《リューナ》

 男の太い声が聞こえて、スマホ画面に目を戻した。リューナも目が覚めたのか、慌てて襟元を正すと窓際へ逃げた。声をかけた男よりも先に、俺は捕まえているモブを部屋の中へと動かした。本当ならシャント…山藤に何とかさせなければならないピンチだが、部屋から出られないんでは仕方がない。

 男たちがリューナに狼藉を働くようなら、モブを動かして盾にするくらいしかできないが、それでも女の子ひとり部屋から脱出させるくらいの手助けはするつもりだった。

 その時、隣の部屋でシャント…山藤の叫ぶ声がした。

《開けろ!》

 テヒブからこの程度の言葉は習っているはずだが、聞こえてくるのは日本語だった。切羽詰まると、そうそう外国語など使えるものではないらしい。

 ドアを叩く音がした。何かをかなり乱暴に打ち付けているようだったが、あの根性なしが血が出るまで拳をぶつけられるわけがない。使っているのは手枷だろうと思ったが、よく考えると両手は後ろに回っている。

 ……体当たりか?

 山藤にしては無茶をする。これで男たちがカッとなってシャントを殴りに行けば、その努力はかえって報われる。なんとか俺もモブを動かしてフォローできるからだ。

 だが、男たちは冷静だった。窓際で胸を抱えて身じろぎひとつしないリューナと距離を取ったまま、口々に静かな声で説得を始めたのである。

 もちろん、何を言っているかは吹き出しのウィンドウを見ないと分からない。《追手がまだ壁の向こうにいるんだよ》

 夕べの騒動の原因になった、僭王の使いのことだ。テヒブは前の国王(つまり綾見沙羅の本当の父親)の衛士だったために、お尋ね者になっているらしい。

《別にかくまったんじゃないぞ、俺たちは》

 その事情は察しが付く。この村の連中に、そんな度量があるわけがない。

《追い出そうにも追い出せなかったんだ》

 それはそうだろう、と思う。弱い者には強いが強い者には弱いというのが、村長以下、この村の人々の基本的な生き方だ。とはいっても、同性に寛容な分、女たちのほうが男どもよりもまだまともだといえる。

 その男どものひとりの声は切羽詰まっていた。

《でも、使いの連中は信じちゃくれない》

 信じてもらえないとどうなるかは、別の悲痛な声が教えてくれた。

《差し出さなかったら、俺たち皆殺しにされちまう》

 リューナの声は聞こえない。テヒブの家で一度は話せるようになったが、ヴォクスに襲われたショックで再び口が利けなくなったままなのか。

 いや、この娘は賢い。わざと黙っているのかもしれない。いったん喋れるようになったのを、村人は知らないのだ。それをいいことに口を閉ざすことはできる。

 だが、村の男たちもバカばかりではなかった。

 頭を切り替えて折衷案を出す。

《リューナ、テヒブが死んだってことにしちゃあくんねえか》

 その声は、シャント…山藤にも聞こえたらしい。

《やめろ!》

スマホ画面の中で、シャントが叫んだ。

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