第30話 誤解と罠と守護天使
バスの中で響いた山藤……シャント・コウの絶叫に、俺は慌ててスマホを押さえた。だが、幸いなことに乗客は俺ひとりだった。周りを見ても、窓の外に見えるのはすっぽりと雪に覆われた家や田畑や山々ばかりだった。
曇り空の下ならぞっとくるほど冷たく重苦しく見えただろうが、よく晴れていると白い雪がバスの中までしっとりと甘く薫ってくるような気がする。
だが、ひとりバスに揺られて街へ向かう俺の手の中では、スマホの画面が夏の豪雨にさらされた修羅場を映し出していた。
大声で助けを呼んだ山藤……シャント・コウだったが、コトはそう簡単には済まなかった。
雨の中でリューナに襲い掛かった男たちが、その叫び声に気付かないはずがない。どいつもこいつもハッと我に返ったような顔で辺りを見渡していたが、やがて、すぐ後ろで荒い息をついているシャントが目に留まったようだった。
ひとり、またひとりとシャントに詰め寄る。騒ぐシャントを先に潰そうと考えたようだった。その場に放り出されたリューナは、むき出しになった半裸の身体を白い腕で隠してへたり込んでいる。
シャントは、山藤の声で喚いた。恐怖のせいか口がはっきり開かず、舌ももつれているので何を言っているのかさっぱりわからない。もちろん、異世界の連中にはどっちみち通じはしないのだが、アプリのフキダシは律儀に日本語訳を表示してくれた。
「やめろお前ら! 卑怯だぞ、ヘンタイども!」
男たちは顔を見合わせていたが、やがて1人がシャントの胸倉を掴んだ。
《何か知らんが、うるさいんだよ》
《オレたちが何したってんだ》
言葉が分からなくても、何やら非難されていることは理解できたらしい。それにしても、恥を知らない連中だった。
高校にもこういうのがいないでもないが、俺はなるべく関わらないように、いや、視界にも入れないようにしている。平凡に、平穏に生きようと思ったら、意識の中から抹殺するのがいちばんいい。
だが、そんな俺でもこいつらの物言いには、普段は寝かしつけてある正義というこっ恥ずかしいアレが目を覚ます。
……人間のクズどもが!
シャントも、同じ思いだったらしい。よせばいいのに、喉元で服を掴んだ男の太い腕を、片手では間に合わなくて両手で掴んだ。
やめとけ、というどっちみち届きはしない冷めた分別の言葉を、俺は口にもしなければ思い浮かべもしなかった。シャント・コウ……山藤は俺がやろうとしてもできないことを代わりにやってくれたのだ。
だが、異世界のシャント・コウに転生しても所詮、山藤は山藤だった。ネトゲ廃人が正義のヒーローになれるわけがない。あっという間に道のぬかるみに転がされ、馬乗りになった男の拳を浴びせられる羽目になった。黙って見ていた他の男たちも、抵抗できない少年の身体を思いのままに蹴飛ばし、踏みにじった。
やがて、その場にいないはずの女たちの声が聞こえてきたのは、雨が降ったおかげで遠くの音でも聞こえやすくなっているからだろう。
《何だい、お前たち!》
《やめな、大の男が子供ひとりによってたかって!》
そんな罵倒の中から駆けつけてきた女のひとりが、見るも無残な姿で肌を晒した少女に駆け寄った。
《リューナ、あんた!》
別の女は男たちに詰め寄って、ひとり、またひとりと泥だらけで横たわるシャントから引き剥がした。
《まさか、このケダモノども!》
さっきまでシャントを袋叩きにしていた男たちはされるがままに、水浸しの地面の上で尻餅をついた。この女がそれほどまでに強いのか、はたまた男たちがフヌケなのか。もしかするとリューナは襲っても、押しの強いオバサンには最初っから腰砕けになってしまうのかもしれない。いずれにせよ本当のクズだ、こいつらは。
自由の身になったシャント・コウ……山藤は身体を起こしたが、目の辺りを両手で覆って身動きひとつしない。よほどショックが大きかったのだろう。
リューナは、まだ震えていた。彼女をかばう女はというと、口の利けない相手だからだろう、頬をすり寄せんばかりに顔を近づけて、ひたすら気遣いの言葉をかけている。
《大丈夫かい、リューナ!》
そこへ後から追いすがってきたらしい女たちが、腰砕けになって呆然としている男たちを頭から罵り倒した。
《何てことすんだい、口がきけないのをいいことに!》
《ヴォクスの女なんだよ、リューナは!》
《怒らせたら、あたしらもどんな目に遭わされるか……》
最初の一言だけ聞けば、女たちには女たちなりの正義があるってことで話が落ちるんだろうが、どうやらわが身かわいさで動いている女もいるようだった。
いずれにせよ、呆然と座り込む男たちに言い訳の余地はなかった。ある者は恥ずかしそうに目を伏せ、またある者は怯えたように視線を泳がせている。
だが、その中のひとりが開き直ったように立ち上がった。まだ動けないシャントを見下ろして、吐き捨てるように言った。
《そうじゃねえ、こいつだ!》
何言ってんだコイツと呆れる間もなく、他の男たちも異口同音に騒ぎ出した。
《俺たちじゃねえ!》
《こいつがやったんだ!》
《俺たちはリューナを助けてやったんだよ!》
《何てやつだい、ちょっと甘い顔すりゃ……》
女たちは顔を見合わせた。シャント・コウ……山藤はというと、恐る恐るではあるが、周りの様子をうかがう余裕は取り戻したようだった。
だが、状況は最悪だった。おろおろと見つめるリューナを除いては、ここに誰ひとりとして味方はいなかった。
彼女をかばっていた女が、真っ先にシャントを非難した。
《やっぱり、最初からこの子を狙ってたんだよ!》
より強く抱きしめられたリューナが、違うとでも言うかのような苦悶の表情でもがいた。だが、得体の知れない他所者への怒りにとらわれた女には気付く余裕などなかっただろう。
男たちを引き転がした女は、片手でシャントの頬骨辺りを掴んで罵った。
《ヴォクスから助けてやったからって、恩着せがましく……》
そこへ、女の抱擁を払いのけたリューナが駆け寄ってきた。何やらわけの分からない泣き声をたててシャントにしがみつくと、アイアンクローをかけていた女が手を離した。
リューナのすすり泣きを除いては何一つ聞こえない雨上がりの田舎道で、男たちと女たちはただ、呆然としているしかないようだった。もちろん、リューナの腕の中にいるシャント・コウにも、何が起こっているのかはさっぱり分からなかっただろう。
この沈黙を破ったのは、さっきのうるさい女どもだった。
《なんてこったい、やっぱりできてやがんだよ、こいつら!》
《こんな昼間から乳繰り合ってからに!》
《やっぱり閉じ込めとこう、あたしらも何されるか……》
それに乗じて男たちの誰かが言った。
《
俺は腸が煮えくり返るのを感じたが、もし、この異世界の言葉をシャント・コウ……山藤が知っていたなら、この誰ひとり味方がいない状況で、再びあの見苦しい抵抗を始めていただろう。
それでも、自分たちが責められていることは分かっているようだった。身体にしがみついたままのリューナを抱き寄せるとまでは行かなくても、口を真一文字に引き結んで耐えている。
だが、その目は前を見ていなかった。うつむいた顔を、一筋の涙が滑って落ちる。
俺は直感した。
シャント・コウ……山藤は、完全に自信を喪失している。固く結んだ唇がその証拠だ。あれは、意志が強いからではない。そうしていないと折れてしまうほど、心が追い詰められているのだ。
何とかしてやりたいが、俺はこっちの世界の人間だ。直接にはどうすることもできない。そこで女のひとりをタップして動かそうとしてみたが、モブを表す頭の上の逆三角柱は現れなかった。どうやら、このシーンではひとり残らずシャントとリューナの敵になってしまって、その他大勢としてのモブは誰もいないようだった。
ステータスを確かめてみる。
生命力…2
精神力…3
身体…2
賢さ…2
頑丈さ…3
身軽さ…2
格好よさ…1
辛抱強さ…1
階級…ケダモノ
なけなしの気力を振り絞って、何とか倒れないでいる、といったところか。逆に言えば、あと一発でも食らったら生きていられないかもしれない。
万策尽きたと思った、その時だった。
《その2人、オイが預かる》
男たちも女たちも、シャントもリューナも、一斉に同じ方向を見た。そこには、どこかで見たような恰幅のいい、初老の小男が肩ぐらいの高さまである杖を手に佇んでいる。
女たちのひとりがつぶやいた。
《テヒブさん……》
それは今朝、豆を収穫する畑に現れた、地主にしては腰の低い男だった。
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