第六章 西へ

その1 マンコ=カパック

 甲高いホイッスルが吹き鳴らされる。『ローションレスリング』開始の合図だ!


 灰色のまっすぐな石壁に囲まれた大理石の床面に、二人の巨漢が向き合っている。

 おのおの手にした桶には無色の液体――潤滑液ローションが充たされており、男たちは同時に桶の中身を頭から引っ被った。

 褌一丁の巨裸体がぬらぬらと光り、闘いの準備を完了!


「うむぅ!?」


 活きよく踏み込もうとした巨漢力士タメエモンが戸惑いの声をあげる。既に床面にも撒かれているローションが思った以上に滑るのだ。

 持ち前のバランス感覚で転倒を免れた力士だが、先手を得たのは緑の巨亜人、ローションまみれのゲバである。


 全身と足元に満遍なく行き渡ったローションの特性に順応したオーク戦士は、床をひと蹴りしてから腰を落とし“滑走”の体勢をとった!


 色白の肉肌と緑の肌が、ばちゅんと音を立ててぶつかり合う。

 タメエモンがゲバの胸板を張り手で打てば、触れた腹と腹がローションの糸をひいて離れ。


 再びばちゅん、離れてばちゅん。


 慣性を利用して床を滑る二つの巨体がぶつかるたび、空気を含んだローションが泡の珠を噛みこんでいった。


「よしよし、勝手がつかめてきたぞ!」

「……しゃらくせえ!」


 壁を蹴って勢いをつけたゲバがまっすぐに滑走突進。対するタメエモンは、弧を描くような軌道をとる!足元のローションが飛沫をあげ切り裂かれてゆく!

 ゲバの滑走ラリアートがタメエモンの首を捉えようとしたその時!


「何だと!?」


 力士の全身が勢いよく回転を始めた!まるで演舞フィギュアスケートのような見事なスピンである!

 ラリアートに伸ばしたオークの腕を力士の回転が捉えると、蜘蛛の糸まとわりつくが如く一瞬にしてタメエモンの肉体はゲバに絡みついた。


 後方から密着したタメエモン、虚をついた勢いでゲバを仰向けに引きずり倒し、自身もその上へ倒れ込み――見事な上四方固めの形をめた。


「……ぐッ! ぅぐっ!」


 覆い被さられたゲバは渾身の力でローションまみれの肉から逃れようとするが、ずちゅ、ずちゅ、とローションと肉同士の揉み合う音が上がるのみ。

 質量おもみ筋力ちからだけではなく、力士の磨き抜かれた術理わざが戒めを磐石と為しているのだ。


 男二人の荒い息遣いがおよそ10秒続いた頃、ホイッスルは再び吹き鳴らされた。


「そこまで。二人とも、ご苦労様。とても参考になったわ」


 寝技を解くや脱力して床に体を投げ出すタメエモンと仰向けで放心状態のゲバに、涼しげな女の声が投げかけられる。


 ホイッスルから唇を離した女は、フレームレスの眼鏡にかかる長い白金髪プラチナブロンドをかき上げた。

 気品と知性を兼ね備えた美貌である。身を包む青白いタイトスカートの軍服も相まって、氷か月光のような鋭く冷たい気配オーラをまとっている。


「……ミネル女史、これ本当に参考になりましたか?」


 隣に控えたタエルが、分厚いノートにペンを走らせる女に素直な疑問を口にした。


「勿論よ。これだけ大質量なサンプル同士のデータは滅多に手に入らないから」

「まあ、滅多に見られないのは分かりますけど。トラウマものの珍しさ、ってところですかね」


――学者の考えることは、どうもわからない――タエルはそんなことを思いつつ、首をかしげる。


 凄まじい筆速でもって紙面を不可解な文字記号で埋めてゆく女――ペラギクス帝国最高学府だいがくの長『ミネル=カパック』は、どうやら本気でいまのローションレスリングを興味の対象としているようであった。



 ペラギクス帝都オウルで最も高級な宿を宛がわれ、体験したことのない贅沢な一夜を過ごした三人は、翌朝ミネルの研究室に呼び出された。


 石や砂を凝固させた資材を用いる建築が特徴的なペラギクスの街並みは、全体的に灰色を基調としている。

 工業や軍事に長ける質実剛健な風土に似合った建築様式。その極致とも言えるのが、現代の高層ビルに匹敵する全高70メートルの『帝都大学塔』だ。


 22に及ぶ階層では、各国から集まった智慧者が日々学識を研鑽しており、名実とも彼らの頂点に座すのがミネル=カパックその人である。


「昨日はありがとう。お陰で研究が捗ったわ」


 先日とは違うアンダーリムのメガネをかけヘアピンで顔にかかる髪を留めたミネルが、金属板で設えられたデスクの上にそびえる書物の山から三人に着席を促す。

 なめし革のソファに腰を下ろした男達の前に、女博士は厚みのある紙束を持ってきた。


「約束通り、あなた達が持ってきた天資シングの解析結果を教えましょう」

「まさか、もう調べ終えたのですか!?」

「一晩も時間を貰ったのだから、当然でしょ?」


 奴隷島クルールの海底迷宮ダンジョンから持ち帰った用途不明の天資シングの解析を、ミネルは自身の研究を手伝う条件付きで引き受けた。

 その結果がわずか一晩で書き上げたとは思えぬ報告書レポートの量であり、すべてのページにぎっしりと詰め込まれている学術文字にタエルは舌を巻く。


「タエル君は、学術文字は読める?」

「恥ずかしながら通常の読み書き程度しか」

「ワシとゲバも読めんぞ」

「うん、それは何となく判ってたから。それじゃ、かいつまんで説明するわね」


 年の頃は二十歳に満たぬミネルだが、大人びた知性が彼女の言動を裏打ちしている。

 眼鏡のブリッジに手をやって位置を正してから、女博士ミネルは透き通った声で報告書を読み上げ始めた。


「あの“カプセル”に格納されていたのは『胎蔵制御曼荼羅盤エクストラ・ゼネラル・オペレーション・ユニット』――輝機神ルマイナシングのサブ制御ユニットよ」

「……せいぎょ」

「ゆにっと」


 固まった表情でオウム返しするタメエモンとゲバの様子を見て、才女は少し言葉を選ぶことに。


「人間で言う脳のような――あ、これでもピンと来てないみたいね。ええと、輝機神ルマイナシング智慧かしこさを増すものだと思っておいて」

「智慧を増す。それは素晴らしいものですね!」


 智慧、という言葉につられて賞賛するタエルだが、実質を理解しているかどうかは怪しい。


「ええ、素晴らしいわ。処理速度と容量が段違いに向上するもの。サイズの関係で機機神ルマイナシングクラスでないと搭載できないけれど」

「そこまで判るものですか」

「愚問よ。こと天資シングに関して、私より見識のある者はこの地には居ないわ」


 再び眼鏡に手をやったミネル=カパックが次いで注げた言葉は、一同を緊張に凍りつかせるものであった。


「――それで、どう? タエル君。あなたの“移動神殿”にあのユニットを積んでみない?」

「ルア様の神殿に……更なる智慧を……」


 突然の思いがけない提案。考え込むタエルの掘りの深い眼窩に影が落ちる。


「言っておくけど、チャンスは一度きりよ。そして、この選択があなた達の運命を大きく左右するものと心得なさい」


 彼女の冷淡な響きを持った言葉に、筋肉質なタエルの全身がこわばり剃髪した頭に冷や汗が流れる。

 『運命』なる言葉が如何なるものを含蓄しているのかは計り知れぬ。

 だが、学府の長たるミネルが深淵なる智恵見識のもと『運命』と発したことだけは解り、男の思考は否応無く苦悩の渦へと引きずり込まれた。


 普段いつもであればこの辺りで沈黙を打開するタメエモンの一声でも飛んできそうなものであるが、力士は腕組みして黙し。同じくオークも、じっとタエルの“決断”を待っている。


 研究室にシンと沈黙充ちて、時が止まったかと思えるほどに、暫く。


――数分を経て搾り出された答えに、一同は幾日振りに人の声を耳にしたかのような心持ちがした。


「よろしくお願いします、ミネル女史。私は知りたい。信ずるルア様の更なる智慧を。より強い美光ひかりを――!」

「求める存在ものをより深く知ろうとする。まるで恋をしているみたいね」

「こ、恋!? 私は純粋な信仰心から希求しておりますので……」

「そういうことにしておくわ」


「なあミネル殿。あなたはどうして、そこまで天資シングに詳しいのだ?」


 タエルへの問いが落着するのを待っていたタメエモンが、先だってから浮かんでいた疑問を口にした。


 問われたミネルの口元に微笑が浮かぶ。

 これまでつとめて冷淡に事実を述べていた彼女が、初めて喜んだ瞬間であった。


「それは私が天資シングだからよ」

「どういうことだ?」

「そこに興味を持つ。やっぱりあなたは『爲右エ門タメエモン』ということなのね」


 ひとり得心して頷くミネルに、タメエモンは珍しく苛立ちを覚えながら問い詰める。


「いかにも、ワシはタメエモンだ。それがどうした? あんたは一体、何を知っているんだ」

「――『転生者エクスポーテッド』――」

「なに……?」

「それが私たちの分類なまえよ」

「……私? アンタの他にも、その転生者エクスポーテッドとやらは居るってのか」

「いい質問ねゲバ君」


 向かい合って座っていたソファから腰を上げ、ミネル=カパックは眼鏡越しの視線をタメエモンに向けた。


「私の姉さん――現ペラギクス女帝も転生者エクスポーテッドよ。詳しくは明日。姉さんとの謁見の場で話してあげるわ、タメエモン君」



「マンコである」


 鏡のように磨きあげられた石床、壁と高い天井には見事な幾何学模様が余すところなく彫刻されている。

 純白のペラギクス大宮殿、その中央に位置する謁見の間にて、女帝は座すままに名乗った。

 若さ瑞々しさと妖艶さを具有した美女であるが、近付くことまかりならぬ強烈なカリスマとプレッシャーを感じさせる。


「いま一度言おう。余がペラギクス帝国の新生初代皇帝マンコ=サパ=インティ=グリプ=カパック。マンコ・カパックと覚えよ」


 闇色にゆらめく炎の模様を織り込んだ絹のドレスは胸元と肩口が大きく開き、スカートにも深いスリットが入り。

 豊満な肉体を露わに強調する出で立ちゆえ、ともすれば娼婦のごとき淫靡さを醸し出しかねない。しかし見る者に劣情を抱かせる暇を与えず圧倒し続ける女帝の“風格”ゆえに、華麗さが一層際立っていた。


「七日間の外遊お疲れ様でした、姉さん」

「ありがとう、ミネル。お前に会えぬ日々は寂しかったぞ……」


 姉の言葉に意を察した妹は徐に傍に寄り――ごく自然な流れで唇を重ね合った。

 姉妹の接吻は十数秒続き、その間互いの両腕は腰に回り、繋がる口唇の隙間からは舌の絡み合う音まで聴こえてくる。


(ゲバ、あれがこの国の挨拶なのか?)

(……ンなわけ無ェだろ。今朝、宿や街に居た連中はあんなことしてなかったし)

(しかも姉妹、と仰っていましたね。やはり王族貴人の方々の感覚は理解が難しい……)


 男三人、謁見の間にてしばし置き去り状態。できることなら物理的にもこの場を後にしたいと思い始めた頃、女帝と女博士の近親接吻は終わった。


「しばし諸君らを放置せしこと許せよ。転生者エクスポーテッドとてヒトなるが故だ」


「マンコ=カパック陛下、いまひとつの事を我々に教えていただきたいのですが」

「苦しゅうない。マンコと呼ぶが良い」

「それでは、おうマンコ。『転生者エクスポーテッド』とは一体、何だ?」


転生者エクスポーテッドとは余。そして最愛の妹ミネル。そして――爲右エ門タメエモン、そなたのことである」


 マンコの言葉に、タエルとゲバがタメエモンを見る。出自が明るみつつある巨漢力士は、まっすぐに女帝の眼を見据えていた。

 姉に肩を肩を抱き寄せられたまま、ミネルが言葉を継ぐ。


「この地――クァズーレの人びとが天資シングと呼ぶものは、衛星軌道上に待機する『殖種帰化船団サクセッサー』が投下したものなの。多くは道具として扱いやすい『天資きかい』を降ろすのだけど、時々私達のような“転生者にんげん”を送り込む」

「……待ってくれ。惑星だか衛星だとか、わかんねぇことだらけでついていけねえ」

「惑星とは世界のことだと理解しておいて。天資シング転生者エクスポーテッドも、空よりも高い所に居る者達が送り込んでいる、ということよ。夜、空を見上げると七色の星が見えるでしょう?あれらはすべて殖種帰化船団サクセッサーなの」


「すると、あなた方も――タメエモンも、天の御使いという事ですか……!?」

「そんな神秘的なものじゃないわ。ただ、帰る惑星せかいを喪って彷徨う者達が、運よく辿り着いた新天地に根を下ろそうとしているだけ」

殖種帰化船団サクセッサーの目的は、新たなる『母星せかい』への入植だ。天資シング転生者エクスポーテッドを少しずつ送り込むことで、我々の文明そんざいをこの地になじませようとしているのだ」

「ちなみに。輝機神ルマイナシングに人間型が多いのも、入植先の惑星が人間の活動し得る環境かどうかを検証する為よ」


「ワシの正体ほんとうは、この世界に体よく押し入る準備をする為の素破すっぱだった、と。そういう事か?」

「……否定はしないわ。ただ、殖種帰化船団サクセッサーに侵略の意図は無い。あくまで平和的に、この惑星クァズーレに身を寄せようとしていることだけは理解しておいて」

「時が来ればこの星の者達に問おう。我ら異界の民を同胞として受け入れてはくれまいか、と」


 突きつけられたこの世の真実に面食らった男達だが、徐々に各々が事の次第を飲み込んで。

 いずれも神妙な面持ちになっているが、彼らが胸中に抱く思いは決して一様ではあるまい。


「もう一つ。タメエモン、あなたに殖種帰化船団サクセッサーの記憶が無いのは、決して不具合トラブルではないと思うわ。あなたが記憶を“持たされていない”のは必ず何らかの意図があるはず」

「意図、だと?」

転生者エクスポーテッドは、今は無き『本星』に繁栄していた人類の膨大な記録データベースから、特定の役割に適した能力を組み合わせてされた存在よ。姉さんは『統治者』、私は『学者』、といったようにね」

「タメエモンも何かの使命を負わされているということですね。だが、それが何かは分からない、と」

「左様。転生者エクスポーテッドは役割に関する最低限の知識と意識を持たされるのみ。他の者の情報は持ちあわさぬ」


 タメエモンはしばし瞑目し、思案に唸る。だがそれは苦悩葛藤の唸りではない。

 彼は、彼自身でも以外に思うほど悩みを抱かなかった。ただ、並べられた事実を頭の中で整理し終えれば自ずと結論こたえが出た。


「ワシに使命やくわりがあると言うのなら――――それは、横綱になることだな!」


 “力士”の口をついて出たのは、塵が集うようにしてこの地に降り立った時から持ち続けている純粋な思いである。

 想像を超えた出自を聞かされても、実体定まらぬ使命を示唆されても、なお揺るぎない初心である。


 両脇で彼の言葉を聞いたゲバとタエルは驚き呆れ、困惑の微妙顔で隣の“相撲馬鹿”を眺めた。

 が、転生者エクスポーテッドたるマンコとミネルは「成る程」と満足気に頷いている。


「それ良い。我々は使命を負っているとはいえ自由意志によって行動するのだ。あくまでこの地の人間と変わりなくだ」

「タメエモン君自身が横綱を目指すというのであれば、それが役目なのでしょう。何しろ、かつて母星で最強の力士と讃えられた『雷電らいでん爲右エ門ためえもん』の名を戴くのだから」


「……別惑星せかいからの移民だとか天資シングの正体だとか大仰な話から、結局相撲に戻って来ちまったな」

「私は未だに天資シングの諸々については受け入れきれない思いですが……まあ、うん、タメエモンが変わらないのは何となく救われた気分になります」


「さて、ここまでがよ。君たちに見せたいはまだあるの」

「……げ」

「嫌そうな顔をするでない、亜人オークよ。これは余の“はからい”である」


 王マンコの厚い唇が微笑をつくったのを合図に、ミネルは自分たちの後方に設けられた扉へ声をかけた。


「入ってきなさい」


 部屋の隅に控えた侍女が扉が静かに開き、一人の少女が謁見の間に通される。


 男達にとって“初対面の少女”は、男達が“よく知る少女”であった。

 その姿を見るや、タメエモンは今度こそ呆気にとられ、ゲバも驚きに目を見開き。


――――そして、タエルは。


「ルア、さま――――!?」


 瞬間、僧侶タエルの体の芯から生じた衝撃がたちまち伝播し鳥肌となり。


 やや遅れて、彼は自分が涙を流していることに気がついた。

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