第7話 ブレス ――吹き往く風のジストリア

 『歌と水の街』は、大陸の端にある、享楽と腐敗で膨れ上がった一大芸能都市である。

 下層民区画の共同墓地で、二十歳のライヴァッツは携帯ピアノを手に、ベンチに座っていた。

 毎週末そうしている彼を、仲間の革命兵達も奇人扱いしている。

 葬奏なら奏者を手配しようかと言っても、彼は「間に合ってる」と答える。


 ――ジストリア。非生産的な金持ちどもの時代が、もうすぐ終わる。


 風が墓石と芝を撫でて、消えて行った。



 田舎町の孤児だった僕は、野良仕事を手伝う農家に軒下を借り、特に値打もない人生を浪費していた。

 丘の屋敷で日がな一日ピアノを弾いている奇人の噂を、知らない者はその町にいなかった。若く綺麗な、領主の妾。

 毎日、本当に朝から晩まで演奏している美しき奇人の噂は、十三歳の僕の好奇心を強く刺激した。ある日の昼間、僕は屋敷の庭に忍び込み、女のいる部屋の壁に外から耳を添えた。

 初めて間近で味わうピアノの響きは心地良く、しばらくぼうっと演奏を聴いていた。

 ふと音が途切れ、目の前の窓が開いた。

「泥棒さん?」

 そうして、僕とジストリアは邂逅した。

「もう少し聴いて行ってくれる? 次は、ちょっと難しい『嵐の王』って曲なの」

 その瞳の色は、奇人どころか、聡明そのものだった。


 彼女は、はたして籠の鳥だった。窓を開ける許可は得ていたが、そこから外出などしたらどんな目に遭うか分からない。

「領主様はおっかないのよ。『歌と水の街』でも相当悪さしてるみたい」

 暴虐の徒として有名な彼に身請けされるまで、ジストリアは『街』の歌劇団でピアノを弾いていたと言う。

「歌劇団って、エリートじゃないか」

 彼女は、困ったように笑っただけだった。


 それから、僕はジストリアの下へ通うようになった。

 彼女の笑顔の寂しさに、我慢が出来なかった。そして領主が彼女をかき抱く様子を想像すると、胸がちぎれそうになった。

 数週間したある夜、僕達は夜中に屋敷を抜け出し、『街』へと駆け落ちした。

 領主に見つかったらただでは済まない、が。

「自分の身柄への執着って、あの歌劇団に入ると、大抵薄れて行くの。憧れのために、全てを振り絞るせいかな。死ぬほど本気でピアノを弾いていられた場所に、もう一度帰りたいの、どうしても」


 朝方に『街』に着いたが、彼女にはもう歌劇団にろくなつてもなく、浮浪児と妾では持ち合わせなどいくらもないので、たちまち困窮した。

 それでも、彼女は楽しそうだった。

 ジストリアは、何度も深呼吸をした。まるで、今までずっと息を止めて暮らして来たようだった。

 二日目の昼に僕達は安宿でロッカーを借り、わずかな荷物をそこに詰めた。

「私ね――この何年も、嫌いな人に、死んでもされたくないことを、散々されて生きて来たの」

 いつも朗らかな彼女の真剣な表情を、僕はその時、初めて見た。

「なのに、翌朝まだ生きてる。鍵盤を叩いている時だけは、その屈辱を忘れられた」

 ジストリアが、髪をまとめて束ねた。

「そこのランチスクエアで、弾いて来るわ。聴いていて」

 そして、流しの音楽家が小銭を稼ぐための安ピアノで彼女が弾き始めたのは、『嵐の王』だった。

 響いて来たのは、僕がこれまでに聴いたことのない、圧倒的な音の厚み。

 その出来栄えに、ランチスクエアの人々のスプーンが止まり、フォークが置かれる。

 聴衆の目は、彼女一点に注がれた。

 叩きつけるような音の波が風を起こし、地を走り空へ駆けて行く。

 もがれた翼を取り戻し、己の音を迸らせる、まるで別人の、――これが本当の、ジストリア。

 演奏が終わると、大量の硬貨が、歓声と共に彼女の前の桶に次々に投げ入れられて行った。

 鳴りやまない賞賛に応える彼女の笑顔を、今でもよく覚えている。

 これから素晴らしい日々が彼女の指から生まれるのだと予感した、あの胸の高まりも。


 翌日、僕が仕事を探している間に、ジストリアは領主の馬車で連れ去られて行った。

 目立てばすぐに追手に見つかると、彼女は分かっていたのだろうか。それでも、弾かずにはいられなかったのかもしれない。

 再び閉じ込められる前に、彼女は疾走する馬車から落ちて、頭を打って死んだ。事故かどうかは、今でも不明。

 僕は抜け殻のようになりながら、この街での数少ない思い出を手繰り、二人で借りたロッカーを開けた。

 そこには昨日得た硬貨が、大きな革袋一杯に詰め込まれていた。

 添えられたカードには一言、「あなたの糧に」と書かれていた。


 あれから、七年。

 僕らが『街』で起こす革命では、多くの血が流れるだろう。

 君はそんなことで、喜んだりもしないのに。


 携帯ピアノのキーを押してみる。

 か細く汚い音は、君が呼吸していたあの日のそれとは、まるで似ても似つかない。


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