第1話 - 中村さん

 朝。出社しても弊社内(目算八畳程度)には誰もいないのが通常である。取締役には労働基準法――というか定時という概念が適用されないので、九時から十八時で働いているのは俺ひとり。取締役は午後から来たり、来なかったり、夕方に来て明け方に帰っていったりするので、社内にはひとりでいるのがデフォルトだ。まあ、みんな出社してきたら狭いから別にいいんだけど。

 パーテーションの向こうに「おはようございまーす」と声を掛けると二三人から返答がある。弊社が間借りしているフロアの、つまり別の会社の人々だ。彼らは善良だ。全然別の会社なのにときどき旅行のお土産をくれたりする。まあ、ちょっと前にもらったチョコレートコーヒーとかいう物体はものすごく不味かったんだけど。コーヒーの香りをチョコの香りがかき消し、口の中に残るのは泥水の如き苦さだけ。コーヒーは香りが命だろうになぜあんな理不尽を行うのか、理解に苦しむ。

 閑話休題。しかし今日は様子が違った。出社したら人がいる。びっくりした。それも、サシで話したことなど無いに等しい中村さんだ。

「おはようございます」

「ん、おはよー。早いね」

「いえ。中村さんこそ珍しいですね、今日は仙台なんですか?」

「いや、午後からまた東京」

 弊社は東京に幾つか取引先を持っており、出向出張を含め東京仙台間の行き来が多い。特に中村さんは営業を兼ねているので日々どころか午前と午後で往復していることもままあるようだった。忙しい人だ。

「今日は代田くんに仕事をお願いしに来たの」

「俺ですか」

「代田くんPHP(注:プログラミング言語。主にWebシステム開発に用いられる。言語としての難易度は低く、計算や判断もゆるい。擬人化するならばゆるふわ天然系女子)できるんだよね?」

「ええ、はい、まあ」

「じゃあこれ。代田くんには今月からこのプロジェクトに入ってもらいます」

 中村さんがA3の書類を俺に差し出しながら言う。俺はそれを受け取り、そこに書かれた業務フローを三度見る。感触としては、おそらく古い販売管理システムを刷新しようというものだろう。注文が二箇所あるから、多分卸業だ。

「それが業務フロー設計書。画面設計書はサーバーにあるので開いてください」

 指示されたファイルは某表計算ソフトで作られている。開く。頷く。なるほど今回の親受けはSIerさん(注:システムコンサル。顧客とシステム会社をつなぐいわば仲介企業。今回のように設計を行うこともあるが俺はこれを設計とは認めない)か。かさばるばっかりで要点を得ない設計書は、現場作業員のためではなく自社の実績のためにある。作るだけ作って誰も見ないんだろう。

 悲しいかな見慣れているせいでどこにどういう機能がつくのかは想像がつくが、これを書くような人と仕事をしなくてはならないという事実は胸に重い。端的に言って「嫌い」。四角の中に「品番」とか書かれているがこれがラベルなのかテキストボックスなのかプルダウンリストなのかは問い合わせななくてはならない。つまり設計書としての最低限を達成していない。このきれいなチラ裏みたいな画面仕様書から全てを起こす気なのか。会議の録音をMP3で渡された方がまだマシだ。角材で顧客の頭をかち割り蟹スプーンで脳をほじくり出せば何かわかるのだろうか。

「私はPHPはさっぱりわからないので、顧客折衝と設計とフロント側(注:フロントエンド。画面作成。対義語はバックエンドで、データベース操作などを行う)やりますね!」

 わあおちょっと不穏な言葉が聞こえたぞ中村さん。プログラムのわからない人が設計書いてどうする気なんですか中村さん?

 いやそんな事態は実際のところ、往々にして、ある。プログラムを書かない人間が設計を行うことで実装不可能な設計書が降りてきたり、どう組むべきかと質問しても何の回答も得られなかったりする。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。代田さんにばっかりお仕事させちゃうの申し訳ないですし!」

 中村さんははきはきと続ける。俺の言った「大丈夫か」はまったくそういう意味ではないし嫌な予感しかしないのでぜひとも遠慮申し上げたいところなのだが、かといって一人で納期に間に合わせられるとも思えない。お客様とのやり取りを一手に引き受けてくれるのはもちろん助かるのだし、丁重にお礼を言って覚悟だけ決めておこう。少なくとも、ひとりでやりますと言うよりは責任が少なくて済む。

 中村さんの得意なJavaScript(注:プログラミング言語)フレームワーク(注:プログラミング言語のテンプレートのようなもの。便利な機能が予め組み込まれたプログラムの骨組み)は聞いているので、それを前提に脳内でプログラムの設計をする。システムと画面は完全に分け、必要なパラメータの受け渡しさえ行えば分業ができる仕組み。

「サーバーはLinux(注:有名OS。トイレではない)ですか」

「未定です」

 未定。まあ、PHPが動くなら概ね大丈夫だろう。多分。サーバー設定からやれと言われているわけではないし。

「フレームワークは何か決まっていますか」

「それはこっちで決めちゃっていいそうです」

 ふむ。

「PHPのバージョン(注:間違うと動かない)は」

「最新だと思います」

 適当言ってない? 最新って7だけど大丈夫? たぶん5系じゃない?(注:PHP5から7で言語仕様が大きく変わっている。尚6は無い)

「確認をお願いします。問題なければCakePHP(注:PHPフレームワーク)の2系(注:バージョン2.x系を指す)で書きます。データベースは」

「それも未定なので取り敢えずMySQL(注:無料で使えるデータベース。おそらく一番有名で一番手軽、初学者含め広く使われている)でお願いします」

「取り敢えず」俺は繰り返す。「取り敢えず」中村さんも繰り返す。引きつった笑いがこぼれる。

 まあ、インターフェースがあるから大丈夫だろう。PDO(注:データベースが変わってもプログラムを変えずに済む便利機能)を信じよう。わからないことを考えていても仕方ない。自分の中で結論づけて俺は頷く。

「了解しました」

「よろしくお願いします」

 俺は曖昧に微笑む。中村さんが満足げに笑う。


 ここが地獄の一丁目。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る