あなたの執事でありたいのです。
焙煎
第1話 天を仰ぐしかできない
その年の桜は早咲きでした。
三月の終わりになれば既にもう満開で、東風が容赦なく花弁を散らしました。
遠くに飛ばされたのでしょうか、澄んだ青空に吹き上げられたまま、幾千の花びらが消えていきました。
私は美しいとも何とも思いませんでした。
ただ横たわって、花びらの中に埋もれて死んでしまいたかった。
主を失った従者は供に命を散らすのが、道理でしょうが、それは主を思う気持ちが強すぎるあまりに、決して許されることではありませんでした。
私はひとりもがれるよな痛みと生きることを余儀なくされました。
「…ここにいたでござるか、若葉」
膝をつき、私の視界に才蔵が入ってきました。
まるで腫れ物に触れるように、ゆっくりてのひらを伸ばし、髪を撫でました。
「今日の眼は、青と緑でござるか」
傍ら放り出されたコンタクトケースを拾い、私の手に握らませました。
ケースの中の溶液に、一対の黒いコンタクトが浮いています。
「そろそろ、希咲さまの遺言が発表される頃でござるよ。若葉も赴かなければ」
「娼婦の娘である私に関係することなんて、一つもありませんよ」
それでも、と駄々をこねる私をなだめるように何度も才蔵は言葉を尽くしました。
才蔵も同じ主に仕えた人間です。悲しくないはずはありません。
なのに、私は才蔵が己のことより、私のことを優先してくれます優しさについつい甘えてしまいます。
逆に、私はいとも簡単に縋りつく弱さをみせてしまう愚かしい人間です。
「…才蔵、希咲さまは酷いんです。行く前に、私にあんまりな約束をさせました。断れないのを知ってるから…」
遠くで雲雀の甲高い声がします。
乾いた空気には、よく響き、あちら側まで届きそうでした。
才蔵は何も口にしないまま、私が言葉を継ぐのを待っていました。
でも零れ落ちましたのは、後悔にも似た涙の粒と嗚咽ばかりでした。
今日、私、香椎若葉は初めて仕えた主である各務希咲さまを亡くしました。
卒業してこの家に戻ってきて、言葉を交わすことないままの入れ違いでした。
希咲さまは美しく、気高く、大変思慮深い方で、私の血筋に関係なくひどく愛してくださいました。
父が各務家に代々仕える人間でありましたが、私の母が娼婦であるということは格式高い主家では恥じるべきことであり、当然、私という存在も忌むべき対象でありました。
にもかかわらず、当主である希咲さまにお仕え出来たのも、彼女のご配慮の賜物でした。
母から譲り受けた自慢の飴色の髪と、左右異なる目の色を隠して生きていなければなりませんでしたが、息を潜め続け、窒息死するような環境で暮らすことはありませんでした。
自由に生きたいと思えば、少々、手詰まりで窮屈でした。
ですが、希咲さまの傍らにいること、それこそが何よりの幸せでした。
日々が移ろうように、季節が廻り、年を経れば、悠久なもの等ないと思い知るものです。
兼ねてから患っていらっしゃった希咲さまの病状は、悪化の一歩を辿るばかりでした。
後ろ盾を失った私がもしもの時、ひとりでも生きていけるように、と希咲さまは私を全寮制の執事養成学校に入れることをお決めになりました。
離れたくはありませんでした。
朝露のように儚く、今にも消えていきそうなこの方から離れれば、もう二度お会いできることがなくなるのは、一目瞭然でしたので。
しかし、従者である私が希咲さまのお心を無碍にするわけにもいきません。
私は一日でも早く帰ってこれるように頑張ろうと、各務家を去りました。
出発の前日、希咲さまは私にある約束をさせました。
そして希咲さまを思うからこそ、その願いを叶える為、私が多くのひとを傷つけていかなくてはならない、と知るのはもう少し後の話です。
*
「服、汚してしまいましたね」
気恥ずかしくなり、俯くと、才蔵は気にすることはないでござるよ、頭を撫でました。
「お主、そろそろコンタクトを入れなければならぬのでは」
人目につく場所に近づいてきたのに気づき、才蔵は進言してくれました。
「あ、ありがとう」
すばやく目に入れると、風景は薄墨の霧を流したように、色を失くました。
母が死に、各務家に仕える香椎家の戸籍に入って以来、私の世界はくすむことを強要されます。
「ねぇ、才蔵」
「どうしてござるか?」
「何故でしょう、希咲さまがいたときは世界がコンタクト越しでも輝かしく見えたのに、今は色褪せたままですね」
才蔵は返す言葉が見つからないらしく、軽く口を噛み、ゆるく笑いました。
「では、某はここまでしか許されぬ身故に失礼するでござるよ」
丁寧なお辞儀をして、才蔵は桜が舞い散る庭へと姿を消していきました。
私は、帯を締めなおして、各務家一同をはじめ、各務家の従者たちが集まる大広間へと足を進めました。
なぜ、才蔵が私と一緒にいけないかと言うと、才蔵は一般的には姿を現すことはできないからです。
才蔵は各務家の御庭番のひとりなので、当主とその付き人以外は姿を見せてはならないと言う規則に従わなければなりません。
私はひとり、気の遠くなるような長い廊下を歩きました。
満開の桜は、絨毯のように薄紅に廊下を飾り立てました。
希咲様はこの風景がとても好きでいらっしゃった。
また、目頭が熱くなるのを咽喉の奥に押し留めて、私は大広間の障子に手を伸ばしました。
中には既にひとが集まっていており、井戸端会議は次の当主の執事になる予定の弟、若木の噂話で一杯でした。
ひとびとは若木の生母である母上の器量と、若木の溌剌さを口々に褒め、各務家は安泰だと安堵していました。
私が部屋に入ってくると、一瞬息を呑み、そしてあら捜しをするようにじろじろ見つめました。
それが終わると、聞こえるように大きな声で蔑みます。
「ほら、香椎家に引き取られた売女の娘でしょ。ああ、いやらしい。まったく司森様も変な女に騙されて、子供をダシにされるなんて」
口を噛むことも、つっかかることも、母と私の品位を辱めるだけです。
私は内心、腸が煮え返りそうになりながらも、平然として、従者たちを束ねる香椎家に割り振られた最前列の席を目指し、歩を進めました。
父が選んだ最初で最後の、そして最愛の女性、それが母でありました。
たまたま生まれが娼婦なだけであって、あなたたちの何百倍と言っても過言ではないほど素晴らしい人間でした。
少なくとも出自で人を貶めるような人ではありませんでした。
声が嗄れるまで主張したいのを懸命に堪え、私は日常のようにやり過ごました。
後ろ指を差されたり、陰口は今に始まったことではないのですが、いつもにも増して多いのは希咲様という後ろ盾を無くしたことも影響しているのでしょう。
「希咲様の珍しい物好きには困ったものですわね」
暗にかつての主を侮辱しているのに気づかないほど愚かなひとびとを相手にしていても埒があきません。
私は希咲様と母の名に恥じないよう、背筋を伸ばし、胸を張って、臆したところがないよう振舞いました。
香椎家の席には、上座から兄上、若木、母上の順に座っていました。
私は母上の後ろ、一番下座に席をつけようとしましたが、兄上は、
「若葉、お前は私の後ろに座りなさい。若木、少し場を空けなさい」
と若木を一席分下座に寄らせるように指示し、若木は、あねうえどうぞ、と舌足らずな声で素直にそれに応じました。
「し、しかし兄上、私ごときがそこに座るのは恐れ多いことで…」
この家では卑しいとされている私の存在は虐げられなければ示しがつかないのです。
うろたえながら、拒絶しても、私は兄上の優しさに胸が震えました。
「先代当主に仕えていたお前が一番下座につくのは先代に失礼だろう。ほら、早く座りなさい」
兄上は受け付けるつもりはなく、私を隣に腰を下ろさせました。
母上は悔しそうな素振りはひとつも見せませんでしたが、温度のない目で私をちらっと見ると、すぐに背けてしまいました。
母上も、私を汚い物としか認識してくれません。
私たちのやり取りを見ていた他の従者たちは、口々に兄上の公正明大さを賞賛し、私と亡き母のことを辱めるばかりでした。各務家は、元は公家の流れを組む武家の名家であり、江戸時代には秘密裏に莫大な権力を持っていました。
政に何かと関与していたようで、病死や変死した将軍や家臣の中には各務家に逆らったから、暗殺されたと記録されている者も少なくありません。
平成の世になっても、その隆盛は衰えず、リゾート開発からIT産業まで幅広く傘下におさめている大企業のグループとなり、相変わらずですが、政界のほうにも大きな影響力を持っています。
首相になりたければ、各務家に尻尾を振れと言われるくらいだそうです。
その各務家に仕える何千、何万という従者の中で、代々誉れ高いことに我が香椎家は各務家の右腕であり、従者たちを束ねるもの、云わば執事として位置づけられています。
そんな香椎家、というより私の家族構成を説明するのはおそろしく厄介です。
今は亡き父、香椎司森の前妻との間に出来た子が兄上です。
兄上の母は由緒正しき旧家の令嬢で、元々は各務家の嫁の候補でしたが、結局は違う方がなったので代わりに父の元に嫁いだ方です。
前から言っておりますが、兄上の母が亡くなった後に、囲った娼婦が私の母にあたります。
そしてここにいる母上は、父の後妻として親戚筋から嫁に入った方で、若木はその子となります。
ですので、私たち兄弟は血が半分しか繋がっていないのです。
兄上や若木は私の出身にもかかわらず平等に扱ってくれるのですが、いかんせん、母上は私を目の上のたんこぶと思っています。
というのも、またしばらくややこしい話が続くのです。
ざわついていたひとびとは、急に、吐息さえ聞こえないかのように静かになりました。
私は背中がぢりぢり痛むような威圧感を感じたことによって、後ろを振り返るまでもなく、訪れたひとびとが誰であるかはわかりました。
一同には床に平伏し、主の訪れに尊敬と畏敬の念を表明しました。
衣擦れの音がしばらく続きました。
「表を上げよ」
いつものお調子者の様子を微塵にも感じさせない、希咲さまの後を継いだ今年御歳十八になられる御子息であり、現当主の冬彦さま。
病弱なため室内にいることが多い冬彦さまは、大変色が白く、まるで霞の中に消えていきそうでした雰囲気を醸し出されています。
黒い瞳は大きく、長い睫毛が綺麗に配置されたことで、儚さに一段と美しさを加えています。
「此度は、各務家の当主でもあり我が母の為に仕えてくれた皆に感謝の意を表す」
頭を軽く下げたとき、紋付袴の礼服は細い体にあってないらしく、少し肌蹴ました。
冬彦さまの執事である兄上は主に対して軽く眉間に皺を寄せました。
「本日、集まってもらったのは、前当主の遺言の披露と、香椎家の各執事の配置についての決定を発表したいからだ」
朗々とした声が、頭上に響く。
若桜、と冬彦さまが兄上を呼び寄せると、兄上は懐から遺言を差し出しました。
各務家のものは、特殊な状況を除き、執事を生涯にひとりしか与えられていません。
言い換えれば、香椎家のものは生涯にたったひとりの主にしか仕えることを許されません。
兄上は既に冬彦さまの執事ですが、行儀見習いとして希咲様に仕えた私はまだ権利を残しており、幼い若木はまだ誰にも仕えていません。
私は希咲さまの願いを反芻しながら、胸がずっしり重くなりました。
冬彦さまの隣にいらっしゃるのは、弟君である永日さま。
冬彦さまを幼くしたような容姿ですが、目は少々切れ長で、事象を映しながらも、何も感じてないような冷たいもののが印象的でした。
ちらっと目が合うと私はすぐに目をそらしてしまいました。
希咲さまの願いを叶えるためにはまず永日さまの執事になることからはじめないといけません。
しかし、原則として異性である執事は認められません。
ですので、冬彦さまを挟んで永日さまの反対に座っていらっしゃる妹君の立夏さまにつくのが順当です。
立夏さまは艶やかな黒髪が大変美しく、日本人形のような面差しをしていました。
年頃にならずとも、多くの男性に言い寄られるような美貌をお持ちで、利発そうな瞳が輝かしい将来を感じさせました。
遺言を開く手つきに、広間中の視線が集まります。
母上は万一のことを心配し、固唾を呑んで見守っていました。
折りたたまれた最後の部分を開け終わり、冬彦様は大きな声で読み上げました。
「第三十九代各務家当主、各務希咲の名において、次期当主・各務永日の執事は香椎若木を任命する」
母上は安堵の溜息を漏らし、胸を押さえましたが、次の一言に顔を引きつらせました。
「ただし」
同様に、人々は言葉を失い、繰り返すように一字一句思い出しながら、嘘であってくれと願いました。
「香椎若木が成人するまで、姉である香椎若葉に執事の任を預からせることとする」
虫が這うようなざわつきが部屋を満たし、不平と嫉妬が空気を汚しました。
異論を申し上げます、と最初に立ち上がったのは、やはり母上で、一瞬でひとびとは静かになりました。
私を鋭い眼差しで非難しながら、発言に対して冬彦さまに許しを請いました。
予想通りだったかのように冬彦様はお許しになりました。
「何故、永日さまに執事をふたりもお付けになるのでしょうか。同性の若葉が立夏さまにお仕え申しあげるのが、道理でございましょう」
それは暗に原則を無視しているのではないかと示唆するものであり、先代の無知さとそれを承認した冬彦様の軽率さを責めていました。
あくまで私の存在を認めたくないらしいのでしょう。
声音には気迫がこもっており、当主と言えど追随を許さない口調でした。
そんなものはものともせず、むしろ母の発言をせせら笑うような口調で冬彦様は言われました。
「どこに問題がある。若木は今年でまだ七歳。それに比べ、若葉は十一歳と言えど、ウェステルン執事養成学校を卒業した身だ。しかも十二年年あるカリキュラムを二年で修めた才のどこに文句がつけれようか。先代のおつもりとしては、若木にはこれから十一年間永日にふさわしい執事になるよう精進する時間を与えたつもりだ」
「し、しかしそれでは立夏様は…」
あくまでもなお食い下がろうとする母上は、圧倒的な格の差に脂汗をうっすら額に浮かべる。
柔和な笑顔を浮かべながらも、従者を見つめる瞳はひどく冴えており、心の奥さえ見抜いて、抉り出しそうでした。
全身の筋繊維は微動だにすることを許されず、横隔膜は動きを止めました。
押しつぶされるように息苦しく、当主が強制的に異論を唱える部屋全体の空気を変えてしまう威厳を肌身に感じました。
ひとびとは顔を青くし、もう残された術は、絶対者の決定に首を振ることだけでした。
「立夏はいずれ嫁に行く身だ。持参金の上に、各務家の片腕をつけなくても良かろう」
そこまで言われ、母上は返す言葉を失いました。
以上だ、と冬彦様は不満を残しながらも反抗の牙を失った従者たちを後にしました。
*
夜風にまだ、桜が舞っています。
星のない満月の夜は手元に明かりがなくても、足元を良く照らしてくれました。
私は登りやすい桜木の上から、贋ものの黒髪が広がるのを押さえながら、ぼんやり世界を眺めました。
各務家の屋敷には多くの灯りが燈されており、障子にひとびとの様子がまるで影絵のように映っていました。
食事の支度をするものもいれば、寝具の準備に勤しむものもおり、何だか私とは遠い世界のように思えました。
元々私は六歳になるまで母とふたり、娼館に与えられた小さな部屋で暮らしていました。
会ったことのない父を心待ちにしながら、母と過ごす穏やかで静かな日々。
見果てぬ兄弟を思い浮かべながら、失うまで当たり前だと甘え、ぬくぬくと母の庇護の下にいました。
ですが、母の死とともに生活は一変しました。
私は香椎家の一員として生きなければならなくなりました。
ですが、血の半分が娼婦のものと知られているために、ここは気疲れするばかりです。
希咲さまがいたときは幾分かはましでしたが、それでもやはり格式としきたりがすべてを支配するここは、私は目を背けたいものなのです。
もちろん、母上も例外ではありません。
母上は良くも悪くもここで価値観が組み立てられた人間です。
「弱りました…」
結局、あの後、母上ははひどく不機嫌で、口も聞いてくれませんでした。
無理もありません。
諦める一方で、私のせいで若木に軋轢が行き、押しつぶされることは避けたい気持ちが強くありました。
ですが、心配をしても無意味なのです。
母上の私に対する憎しみは変わらないかぎり、きっと永遠に解決されることはありません。
私という存在を嫌悪しながらも、ここから去ることが出来ないことに苛立ちが募りました。
風が強まり、髪はいよいよ乱されていきました。
視界を開け髪を耳にかけようと俯くと、眼下に小さな黒い頭がありました。
じっと見つめると、頭はゆっくり傾き、永日さまの冷めた瞳が逆に私を見つめ返しました。
「おまえが、わかばか…?」
永日さまが木の下から大きくも小さくもない良く通る声で呼びかけました。
一応私の主である永日さまに頭上から挨拶するのは大変失礼ですので、枝から飛び降りようとしますと。
永日さまは断られ、細い足を太い幹にかけました。
木登りは初めてなのでしょうか。
一歩登ると、重力に流されるまま、ずるずると落ちていくだけで少しも私との距離は縮みませんでした。
しかし、降りることも、また永日さまが手伝えと言われない限り私は行動することは出来ず、ハラハラしながらその様を見守ることしか出来ませんでした。
三十分ほどした頃でしょうか、コツを見出したらしい永日さまは、ゆっくりとですが、それでも確実に頂上を目指しました。
大変集中しているので、声をかけることも出来ず、胸の前で手が白くなるまで握り締めました。
ですが、最後の一歩のところで、足が滑ったのでしょうか、再び後退し出したのを見かねて、つい手を出してしまいました。
身を乗り出した私を、永日さまは目を丸くして、じっと見つめました。
「永日さまっ!」
これ以上、距離が広がれば手助けが出来ないので、早くと促すと、永日さまはおずおずながらも手を握りかえしてくれました。
触れたてのひらは、冷えた瞳から想像していたものより熱く、ちゃんと脈打っていました。
むしろ私のが冷たく、永日さまは少し眉を顰めました。
力一杯引き上げると、永日さまが私の膝の上に乗り、抱き合う形になって、気恥ずしくありました。
永日さまはなんと言うこともなく、肩越しに空を見上げてました。
触れた髪の毛の先は柔らかく、くすぐったかったです。
私は小さなぬくもりを腕の中で感じながら、あらかじめ聞かされていた永日さまの孤独を思いました。
何故、希咲様が私を選んだかはわかりません。
張り裂けそうな痛みと供に、私は記憶にある希咲様との最期の日を思い出しました。
あの日も桜が満開でした。
希咲様さまは、わざと掃除させなかった縁側に散らばる花びらを背中に寝転びました。
残された時間を惜しんで私は希咲さまの隣にいました。
「ねぇ、若葉。お願いがあるの」
何でしょうか、と顔を上げることも出来ず尋ねました。
肉の落ちた指で私の髪を梳きながら、小さく抱き寄せました。
冷たい。
体温を維持する機能が落ちるほど、きっと希咲さまは弱っていたんでしょう。
私は失うのが怖くなって、袖を握る指に自然と力がこもりました。
「きっと若葉にしかできないものよ」
希咲さまの願いは、各務家の当主としてものではありませんでした。
ひとりの母として、自分の死後、行く末のわからない子ども達に対するあまりにも優しすぎる願い。
冬彦さまに対してのものは兄上が、立夏さまには冬彦さまが引き受けたと聞いています。
「若葉に、永日のことを任せたいの」
「…永日さまを、ですか?永日さまには若木がつくのではないですか?」
不思議がる私に対して返答することなく、希咲さまは言葉を続けられました。
「永日は、冬彦や立夏と違って、一人ぼっちの色のない世界で生きとるの。
本人はそれをつらいとか、苦しいとか、思っておらん。
そやけどね、やっぱり生きとることって、悲しいこととか、楽しいこととかの半分こでしょ?
あたしはあの子にちゃんと生きてほしいの」
見上げた顔は逆光でうまく表情を読めませんでした。
ただ優しげな瞳から何か温かいものが溢れ、ぽとぽと私の頬を濡らしていきました。
初めて見た涙に私は手を伸ばして拭くこともできずにいました。
抱きしめる手は震え、次の言葉を継ごうとする声は次第に弱っていく。
それでも希咲さまは確かに祈りを囁き、記憶から剥がれ落ちぬように一字一句、私の耳に刻み付けました。
響いた声音は、途方にもないように聞こえるのに、どうしてこんなちっぽけな願いなのでしょう。
あの子が大切な人を手に抱く日が来るまで、彼方があの子を守って、傍らにいてあげて…こ…………くしい……て…………………………。
希咲さまの願いはいつしか私の願いそのものへと様変わりし、やがて芽を出し、幹をなし、枝をつけ、葉を繁らせ。
私の人生を支えるような大木へ成長しました。
永日さまと月日を重ねるたびに、失われたものをひとつひとつ見つけ出し、笑顔を向けるようになればなるほど。
無価値だった私が意味を持ちはじめました。
希咲さまと別れ、永日さまにお仕えして、あれから、幾度の春が私の手からすり抜けたでしょう。
深い記憶の海に沈んでいた私を意識の底か起こすから引き離しました。
体の中に真綿でも詰めたのか、酷く重く、指先一本動かすのでさえ随分な気力を必要としました。
右腕には太い針が刺さっており、繋がれた線を目で追うと、点滴がぽとぽと一定の間隔で落ちていました。
焦点の定まらない景色は何だか全体的に白っぽく、もやがかかったようです。
晴れていく視界のなか、最後に映ったのは、あの日と同じような桜でした。
味気のないアルミの窓格子には雪のように桜が降り注ぎ、光の粒がそれを優しく照らしました。
ひらひら、舞う。
次第に正常になる私の頭は何故自分が屋敷にいないのだろうとしばらくぼんやり思いました。
きいっと古い蝶番が軋む音がするとひとり分の足音が静かに近づいてきました。
目覚めた私に気づいた冬彦さまは、安心したらしく、目を潤ませながら微笑みました。
三日目かと小さく呟く冬彦さまの声は悲しそうな、やるせなそうなものを含んでいるようでした。
「おはよう、若葉。君が過労で倒れてからもう三日にもなるんだよ」
倒れてから三日。
いつ倒れたのでしょうかと、わからず思考を飛ばす私の頭を、冬彦さまは撫でました。
「…もういいよ、もう頑張らなくていいよ。……ごめんね、若葉」
何がもういいんですか、冬彦さま。
私はまだ何もしていません。
何を謝る必要があるのですか。
嫌な予感ばかりが脳裏をかすめ、私は思わず目をつぶってしまいました。
「……自由をあげる」
あれから五年。
私の存在が、各務家を歪めさせたことにどこかしら気づき始めました。
私が希咲さまの願いを叶えたいという我侭を思えば、思うほど、多くのひとが傷つき、涙をこぼしてきました。
そして、あの日。
縋りつくような激情ととめどない悲しみを垣間見たとき、私は盲目のままでいる力を失いました。
眼が開いた今の私には、刃向かう勇気も覆す気力もなく、下される命令を受けずに入られませんでした。
「………はい、わかりました」
私の非力さと無神経さに、心底疲れました。
与えられた自由を前に、あまりもの広大さに目が眩み、あまりもの選択肢の多さにたじろきました。
窓の外ではまだ桜がはらはらと舞っている。
まるで、春の祝福を人々に分け与えるかのように。
私は新たな鍵を手にしたまま、再び瞳を閉じることにしました。
今度、目を覚ますときはどんなことがあっても盲目のままでいられるよう、傷つくのは私だけでいいように。
呪いにも似た小さな誓いを立てながら。
そして、再び、この物語が幕を開けるのは、三年後の話になります。
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