1-5
いつもは一人、と役者のドールしか乗車しない馬車の中に、今日はもう一人。大切なお客さんが乗っている。
ハンメル劇場から出ておよそ二十数分。彼女と会話が途切れることはなかった。
しきりに鞄の中をまた見たがっていたが、「今日の操演で疲れただろうから、今は寝かせてやってくれ」と言うと、彼女は口元を緩めて頷いた。
これほど他人と会話をするのはいつ振りだろうか――――。
そうこうしている内に、中央広場へ着いた。
「家はどっちの方向だい?」
「あ、南です。わたしの家、花屋なんですよ」
「花屋? あ~、そう言えば途中に花屋があるね。もしかしてそこかい?」
「知ってるんですか?」
「ああ。ラフェドレーヴってお店だろう?」
「そうです! なんだか感激です。クリストファーさんがわたしのお店を知ってくれているなんて」
彼女は嬉しそうに声を弾ませた。さすがに大袈裟だとは思ったが、喜んでくれることに悪い気はしないな。
「はは、そんなオーバーな……。私は南の森に住んでいるからね、いつも中央へ行く時は必ず通るんだよ。それにしても、わたしの店って言うのは?」
「あ……。両親が亡くなったので、わたしが跡を継いでいるんです」
そう言って淋しそうに俯き、彼女は少し目を伏せた。
「そうか……それはすまなかった」
少し気配りが足りなかったようだ。紳士としてなっていないな。
どうやら彼女は、いろいろと苦労しているようだ。今日はたまたま店が休みで、その貴重な休みを利用し私の操演を見に来てくれたのだろう。
そう思うと、なんだか胸が痛い。なにか彼女にしてあげられることはないだろうか。そんなことをあれこれ考えていると、やがて花屋の看板が見えてきた。
先ほどから彼女は俯いたまま、何も言葉を発しない。傷つけてしまったかな……。私は少し後悔した。
そうして、とうとう彼女の家である花屋、ラフェドレーヴへ到着した。のだが、彼女はまだ俯いたままだった。御者席を降りた私は、馬車のドアを開けると小さく息を吐いた。相当落ち込んでしまっているようだ。申し訳ない気持ちで一杯になりながらも、私は彼女に言葉をかけた。
「さっきはすまなかった、申し訳ない。でも、君に沈んだ顔は似合わないよ。だから、笑って欲しい」
……だが彼女はまだ俯いたままだ。とその時――――。
「ふふ、お人形がいっぱい……むにゃむにゃ」
なにやら寝言らしきことを呟き、直後――体が倒れる。
「おっと! 危ない」
寸でのところで、彼女の体を抱きとめた。この馬車は、結構頑丈に作ってあるため、扉に頭をぶつけでもしたら大変だ。
それにしても、この幸せそうな寝顔。相当楽しい夢を見ているみたいだな。
起こすことが憚られしばらくその寝顔を見ていると、身体を抱く腕の感触に気付いたのか。彼女はゆっくりと目を開ける。
「う、う~ん。あれ……王子様?」
「えっ」
いや、人形の夢を見ていたんじゃないのか? 王子様って……。
彼女は眠たそうに目を擦りながらこちらを見返す。やがて覚醒したのかびっくりして目を瞠ると、少しの上目遣いで小さく謝る。
「あっ、ごめんなさい。なんだか寝ぼけてたみたいで」
「いや。楽しい夢を見ていたようだね。寝顔が笑っていたよ」
笑いながらそう言うと、彼女は恥ずかしげに身を縮ませる。
「そうだ、もう着いたよ。君の家に」
馬車の中からキョロキョロと周囲を見渡し確認する彼女。
「あ、ホントですね」
私は手を差し出して、彼女をゆっくりと馬車から降ろした。降車した彼女は少し伸びをし、クルっとこちらに向き直る。淡い花の香りとともに、ワンピースのドレープがふわりと広がる。長く美しい髪は月光を浴びて煌き、金糸で夜空に幾重もの線を引いた。
舞う妖精のように美しい光景に、私は数瞬の刻を忘れ見惚れた。
「今日はありがとうございました! とっても楽しかったです」
「あ、ああ……。私の方こそありがとう。こんな気持ちになったのは、初めてだよ」
「こんな気持ち?」
思わず口走ったことを後悔した。彼女は不思議そうな顔をし小首を傾げて私を見ている。
「えっ!? あーいや、別に大したことではないんだ……。あーそれはそうと、屋敷へはいつ来れるかな?」
急にばつが悪くなり話題を変えた。しかし、これも重要な話だからな。
「えっと、来週の火曜日なら大丈夫ですよ」
「来週の火曜だな。よし、分かった! じゃあ来週の火曜に迎えに来るよ」
懐に常時入っているメモ帳に、来週の予定をササッと書き込むと、彼女ににやけ笑顔でそう言った。
「あ、でも……わざわざ迎えに来ていただくのも悪いですから。南の森なら何度か行ったことがありますし、わたし、自分で行きます」
「なに言ってるんだ。客人を迎えに行くのは基本だろう?」
「でも……ご迷惑じゃないですか?」
「君はそんなことを気にしなくてもいいんだよ? 私が君を屋敷に招待したいんだ。ぜひ、迎えに行かせてほしい」
少しの間考え込んでいたが、ややあって、彼女は決心したように頷いた。
「よし! では来週の火曜に会おう。……おやすみ」
「おやすみなさい」
私は馬車に乗り込むと、彼女に手を上げて挨拶をし、ゆっくりと馬車を走らせる。彼女は馬車が見えなくなるまで手を振り、家の前から見送ってくれていた。
長いようで短かった今日一日。なんだかあっという間だった気がする。それだけ今日という日が、充実していたということだろうか。それとも、彼女と出会えたからかな?
あんなに綺麗な瞳をした女性を、私は知らない。純真無垢な子供のような瞳。悲しそうな顔は見たくないと、そう思った。彼女に両親の話をする時は、配慮しないとな。
空を見上げると、新円に近い月が綺麗に夜空を切り取っていた。
「もうすぐ満月か」
今日の出来事を思い返しながら、月明かりに照らされた道路を進む。
馬車のガラス窓を下ろし、風と虫の鳴き声に耳を傾け、静かな夜に響く蹄鉄の小気味好い音を聞きながら森を目指した。
長い直線道路を進むとやがて森へと入る。
薄暗いが電灯に照らされた並木通りにさしかかると、不意にミミズクたちの声が聞こえてきた。門扉の前まで馬車を走らせてきたが、このまま帰るのは少し惜しい。
聞き慣れてはいるが、今夜は少し……ほんの少しだけ、この声に耳を傾けていたい気分だった。
森の静けさの中に流れるミミズクたちの歌声に、しばらくの間、私は瞳を閉じて聞き入った。
門の鍵を開けて敷地に入ると、馬車との連結を解き、まず厩舎にクラウスを入れる。クラウスの夕食は劇場関係者の方がいつもあげてくれているので、私は屋敷へと戻りドールたちを鞄から出す。
そして、それぞれをもと居た場所へ戻すと、私は書斎で作業に入る。
公演のある日もない日も、私は常日頃からここでの作業を怠らない。
この書斎は、書斎であって書斎ではないのだ。ここは私の子供たち……つまりは、ドールたちの製作場所でもある。新しいアイデアが浮かんだならば、ここへ来てスケッチを残しておく。忘れてしまわないように記録しておく。新しい物語、それとドールのイメージを箇条書きし、スケッチブックにデザインを書き込む。次回作は、老執事がお嬢様に世話を焼き過ぎるコメディにしようと思う。
今夜はもう遅いためこのくらいにして、さっさと風呂にでも入って寝るとしよう。
スケッチブックをドール関係専用の棚にしまい、一日の疲れを癒すべく風呂場へと向かった。
風呂は気持ちがいいものだ。だが、明日は街へ買い物に行かなくてはならない。長く浸かっていたいものだが、そうもいかないので早めに風呂を上がる。
濡れた髪を乾かした後、私は寝室へと入った。
窓からは月の光が射し込み、部屋の中をやわらかく照らしている。
「今日も一日、とても良い日だった。ありがとう」
誰にともなくそう呟くと、私は一人、月光に照らされた寝室で安らかな眠りに就いた。
◇◇◇
――――しばらくの間、胸の高鳴りは治まらなかった。
触れられた手が温かい。顔は夏の日差しでも浴びてるのかと思うほどに火照っている。
今までは雑誌でしか見たことのなかった彼。人形師『クリストファー・ドールズ』
会って、話して……。本当に人形への愛で溢れていることを、肌で感じた。
わたしは膝に乗せた雑誌に視線を落とす。
それはそうだよね。でなきゃ、人形を抱いてこんなに優しい笑みを称えて、写真に写れるわけがないし。
わたしのことを、「そんなに輝いた瞳で人形を見てくれた人はいない」と言っていたけれど、それはわたしも同じ。あんなに純粋な目をした男性を、わたしは知らない。
でもどこか、闇い印象も受けさえする瞳。光の内に影を隠しているような、一見平静そうに見えても、それは無
理をしてるんじゃないかと疑ってしまうような微笑。
なにかを抱えているのかもしれない。辛いのかもしれない。
両親を失ってから、わたしは他人のそういった奥まった感情を、なんとなくだけど感じることが出来るようになった。
……たぶん気のせいかもしれないけど。
クリストファーさんは“元貴族だ”と言った。それとなにか関係があるのかな。
火曜日になればお話が聞けるし、深読みしても仕方がないけれど。何故だか気になる。
胸に当てた手を跳ね返す心臓の鼓動。これは、やっぱり……恋、なのかな?――――
「ゴホッ! ゴホッ!」
沸き起こる咳により、思考は中断を余儀なくされた。
「風邪かな?」
少し体がだるい気もする。今夜はもう寝た方がいいみたい。
窓の外を見上げると、幾筋もの月の雫がやわらかく地上を照らしていた――――。
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