017
ジャンゴは空にゆらゆら煙が昇っていくのを見た。あの方角は間違いない。〈いと甘き水の地〉だ。
「クソッタレ、コルブッチめ。もう鮭を焼いてやがるな」
「あきらめるのはまだ早いわ。まだ間に合うかもしれない」
サクラがアクセルをベタ踏みすると、とたんに〈聖なるデロリアン〉は急加速し、ジャンゴは自身のカラダが見えない力によってシートへ押しつけられるのを感じた。
また、それはジャンゴにとって未知の恐怖でもあった。速さというものが、これほどまでにおそろしいものだったとは。速さだけではない。とにかく揺れる。揺れる。馬車の揺れとは比較にならない。速度が控えめのときはそうでもなかったが、今はケタ違いだ。車輪が大きめの小石を踏みつけた拍子に、車体がふわりと浮き上がる、その浮遊感。心臓が置き去りにされるような頼りなさ。生きた心地がしない。
それでも徐々に慣れてきたが、入れ替わるように今度は猛烈な不快感に襲われた。「キ、キモチワルイ――吐きそうだっ」
サクラは半狂乱になって叫んだ。「待って! お願いもう少しガマンして! あとチョットで着くから!」
いったん車を停めて降ろせばよいハナシだが、冷静さを失ったサクラはさらにアクセルを踏み込んだ。
こんなに苦しいのは前世でオークに犯されて以来だ。いっそ殺してほしいとジャンゴは思った。
「――到着っ! とぉおちゃぁぁああく!」
デロリアンが停まったとたん、ジャンゴは這うように外へ飛び出した。すぐさま地面に胃の中身を吐き出す。吐しゃ物がいきおいあまって鼻にも入り込み、息苦しくて咳き込んだ。
「ダイジョーブ?」サクラに背中をさすられて、いくぶん気分が落ち着いてきた。
「……もうヘーキだ。面倒かけたな」
「心配したんだよ。もしあたしの大事な愛車をゲロで汚してたら、あんたのケツの穴から指突っ込んで、奥歯ガタガタ言わせてるトコだったわ」
「そ、そうか……」
サクラは冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。
ジャンゴは川の水で口をすすいで気を取り直した。〈いと甘き水の地〉の名に恥じぬ名水だ。
空を見ると、煙はまだ出ている。急ぎたいびはやまやまだが、焦ってこちらの存在に気づかれたら元も子もない。エンジン音で気づかれかねないので、ここからは慎重に徒歩で近づく。
しかし、煙のほうへ近づくにつれて、冷静ではいられなくなった。
「この、臭いは――」
ジャンゴは血相を変えて駆け出した。置いて行かれそうになったサクラが、あわててあとからついてくる。
ようやくたき火の前までたどり着くと、そこにはひどい光景が広がっていた。嫌な予感が的中した。
「チョット、ねえ、いきなりどうし――」それを見たサクラは、絶句して腰を抜かし、その場に尻餅をつく。
ジャンゴの鼻が嗅ぎ取ったのは、脂ののった鮭が焼ける香ばしい匂いではない――血の臭いだった。むろん魚の生臭さでもなく。
「クソッタレ――いったい何がどうなってやがるッ」
たき火のそばに、首と胴体が分かれた、コルブッチの死体が横たわっていた。
周囲にコルブッチを殺した敵が潜んでいないか確認してみたが、どうやらすでにこの場を去ったらしい。
ひとまず安全が確保できたので、あらためて死体を検分する。首の断面はかなり粗い。刃物を使ったのではなく、力ずくでねじ切られたか、あるいは噛みちぎられたか。少なくとも人間業ではないだろう。明らかにケダモノの所業だ。
しかし、だとしてもこの死体の状態はいささか奇妙だ。狼や熊など肉食の獣によるしわざなら、ハラワタを食い破らず放っておくはずがない。魔物にしても同様だ。オークやゴブリンの腕力なら、素手で首をねじ切ることも可能ではあるだろうが、わざわざそんな手間のかかる真似をする理由がない。
あと気になるのは、コルブッチの死に顔だ。自分が死んだコトに気づいていないような、呆けた表情――。不意討ちでワケがわからぬ間に殺されたと見られる。だが、あんなふうに乱暴な扱いをされて、普通は苦しむ余裕もなく死ねるハズがない。鋭利な刃物によって刎ねられたワケではないのだ。首と胴体が分かれるまで、多少なりとも時間がかかっていなければおかしい。
「……おかしい? おかしいだって? おれはバカか」
「ジャンゴ?」サクラがいぶかしげに問うが、ジャンゴは答えない。
ジャンゴはおのれに言い聞かせるように、「何もおかしいコトなんてねえ。なァ勇者サマよ、てめえはこの光景に、見覚えがあるはずだぜ。何度も何度も、見飽きるほど見てきたじゃアねえか」
こういう殺しができるヤツについて、ジャンゴにはひとつだけ心当たりがあった。獲物が気づく間もなく、一瞬にして首を噛みちぎる能力のある存在に。
もしも本当にジャンゴのカンが当たっているのなら、こんなところでグズグズしているワケにはいかない。
「――行くぞサクラ。車をまわせ」
「い、行くってどこへ? この死体は放置したままでいいの?」
「あいにくだが、呑気に穴掘って埋めてやる時間はねえ。コトは一刻を争うからな」
「……わかった。けど、チョット手を貸してくれない? 腰が抜けて立ち上がれない……」
事実、サクラはコルブッチの死体を目撃した瞬間から、ずっと座り込んだままだった。
「なんだ。おれはてっきり、ビビッてションベンもらしたのを隠してたのかと」
「……こんなコトあんたに言っても、何のハナシかワケがわからないだろうけど……宇宙飛行士は船外活動のときとか、長時間トイレに行けないのよ」
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