第2話
類と私は、すぐ近くにあったチェーンのコーヒーショップに入った。二人ともドリップコーヒーを頼む。
店は時間と立地のせいか空いていて、私達以外には客は二人しかいない。その二人とも、そして店員も、類を見ている。好奇心からというよりも、意志とは関係なく視線が行ってしまうようだった。相変わらずだ。類はどこにいても、その場所の中心になってしまうのだ。
会計を済ませた類が、トレイを席に運んでくれる。私はその後ろをついていく。後ろに立つと、154センチの私は180センチ代半ばの類の背中しか見えない。
「ここでいい?」
外の見えるカウンターの席。どこでもよかったので、私は頷く。上着を脱ごうとすると、脱がしてくれようとするので、軽く身を引いた。
「いいよ」
「そう」
類は微笑んでいるけれど、明らかにその小さな拒絶に傷ついていた。小さな生傷が心臓に出来たような痛み。こんなに綺麗で高級そうな男が平凡か、平凡にも達していない私のような女に精神的優位に立てないというのは、奇妙なことだった。奇妙で、居心地の悪いこと。
私は類から目を逸らし、上着を脱いで席に座る。カウンターにあるスツールはどの店でもだいたい私には高すぎるので、座るというより上るという格好になってしまう。自分ひとりでは混んでいるときでもないとこういう席には座らない。
「お金払うよ」
席についた類に言う。類は無言で首を振る。300円。カウントしてしまう。別にたいしたことではないけれど、私は受け取ってほしいのに、類にはそういう考えはないようだ。
「類、仕事はいいの?」
「うん。打ち合わせが終わったところだったからね」
「何の仕事してるの?」
「親父の会社の手伝い。こっちにもオフィスが出来たから」
なんとなくそうだろうと思っていた答えが返ってきた。類の父親は、家具や雑貨の輸入の会社をしていた、と記憶している。いつも忙しくしていて、ほんの時折顔を見かけるだけだった。物静かで、上品な人、というおぼろげな印象しかない。類の母親はフランスで出会ったという、金髪に緑の瞳のとても綺麗な人だ。マリーさん、と私は呼んでいた。マリーさんは広い家の離れをアトリエにして、いつも絵を描いていた。
「そうなんだ。ご両親と流禰は元気?」
流禰は類の妹で、五歳離れている。類と私が出会ったのは四歳なので、生まれたときから知っている。すごい美少女で、気が強いけれど優しい子だ。
「みんな元気だよ。流禰は今年成人式」
そんなに大きくなったのか。きっと目の覚めるような美女になっているだろう。過ぎた時間の長さを思い知る。
「私も歳取ったなあ」
「里香は変わらないよ」
類は私の輪郭一つ一つをなぞるように、撫でるように、見つめている。里香は変わらないよ。その言葉に何か表面上の意味以上のものが込められている気がする。
「そんなことはないけど」
実際そうでもないはずだった。大学の頃より少し痩せたし、なんとなくいつも疲れたような顔の女になったと自分では思っている。
「変わらないよ」
でも類は繰り返す。彼の優しいまなざしを避けるように、私は俯いてコーヒーを飲む。それでも類の視線は外れない。この感じに、類だ、と思う。いつでも私の挙動に注意を払っている。
子供のころから類はとても優しく、私にいつでも好意的だった。私は類ほど優しい、というか、優しく振舞える男性に会ったことがない。好意を示すことに、何の照れもないのだ。色々男女間の屈託がある小学生の頃でも、類は誰の視線を気にするでもなく、小さな紳士として私に接していた。ただ問題は、私はごく普通の小学生女子であり、小さな淑女ではなかったことだ。
「里香は今、仕事は?」
「してない。無職。会社が夏に潰れちゃって」
「本当に? 大変だったね」
「まあ、それなりにね」
あまり話したいことでもないので、適当に言って微笑む。
ふと、私は類の視線が私の手に注がれているのに気付いた。何を見ているのだろう。
「結婚は?」
そういうことか。私は左手をひらりと宙に差し出す。
「してないよ。知らなかったの?」
実家は類の家とご近所で、家族同士の付き合いなら今もあるはずだ。あけすけになるほどではないだろうけれど、結婚したしないぐらいなら伝わっているのかと思っていた。
「したって話は聞かなかったけど、してないって話も聞いてなかったからね」
「類もまだ独身?」
ついでに尋ねると、類はじっと私を見つめて微笑んだ。
「勿論」
何が勿論なのか。
追求するわけにもいかず、話題を変える。
「こっちで暮らしてるの?」
「うん。今年から一人暮らし。里香に会えるなんて驚いたよ」
「そう」
「東京に住んでることは知ってたから、もしかしたら会えるかもしれないと思ってたけど、まさか本当に会えるなんて」
「東京も狭いね」
無理矢理に話の流れを断ち切ると、類は諦めきれないかのように続けた。
「そんなことはないよ。本当に、まさか里香にまた会えるなんて」
よかったね。と言うわけにもいかず、私はそう、と曖昧に微笑んで、コーヒーを飲む。類はそんな私をじっと見ている。ヘイゼルグリーンの瞳には、優しさと懐かしさと、それから甘さが湛えられているようで、それが私を怯えさせるが、深く考えないことにする。私に対する優しさと好意は類にとって当然のもので、深い意味などない。きっとそうに違いない。
類の視線には、自分と見つめる対象、つまり私を結びつける力がある。だから私から視線を逸らすためには、ある種のエネルギーを消費する。結び目を解くように、私はそっと視線を落とす。
「仕事、今探してるの?」
話題が変わったことに安心して、頷く。
「うん。そこまで真剣に探してるわけでもないけどね。なんか、色々あって疲れちゃって」
「そう……里香、痩せたね」
「昔よりはね。まだ太ってるけど」
謙遜でもなんでもなく、私は平均的な女性よりいくらか太い。加えて背が低いので服のサイズには恒常的に困っている。たいてい袖を余らせてしまうのだ。そういえば、昔の類はそれをとても可愛いと言って、私は不愉快だった。類に他意はなかっただろうけれど、太っていることと背が低いことを指摘されている気がして。可愛くない女の子だったのだ。そして今、可愛くない女になっている。
「昔からそう言うけど、里香は全然太ってないよ。むしろ小さすぎて心配になる」
「流禰はもっとずっと細いでしょう?」
あの子は昔からすらりとしてモデルみたいだった。
「あいつは男みたいなものだから」
ひどい言い方だ。類は生粋の、骨の髄まで沁み込んだフェミニストなのに、流禰だけはその適用範囲外のようだった。
「そんなことないでしょ」
「流禰、今174センチあるんだよ」
「そんなに? いいなあ。会ってみたいな」
「知らせておくよ。きっと喜ぶ」
なんだかんだ仲がいいのが微笑ましい。
「うん。伝えておいて。あの子はまだあっちにいるの?」
「うん。大学行ってる。今二年生」
類が口にしたのは、彼自身の母校の国立大学だった。
「弁護士になりたいみたいだよ」
「そうなんだ。頑張ってるんだね」
「ものすごく勉強してるよ。誰に似てあんなに負けず嫌いなんだか」
「顔は明らかに類に似てるけど」
「似てないよ」
類はむっとしたように鼻のところに皺を寄せる。その表情がまさしく流禰にそっくりで、私は笑ってしまう。
「じゃあ、そういうことにしておいてもいいけど」
「全然似てないよ」
「はいはい」
釣られたのか、類も笑う。一口コーヒーを飲み、大きな手のひらでカップを包む。
「でも、よかったよ」
「何が?」
「里香が、普通に話してくれて」
心の底から出たような声で言う。私のことなんか、気にしなければいいのに。私は微笑むしか出来なくなる。
「嫌われたと思ってたから」
ほとんど忘れていたことを思い出す。確かに四年前、私は怒っていた。感情がいまいち薄い私にしては珍しく、怒っていたし、悲しかったし、怖かった。とてもつらかった。他人事のように考える。それでも、四年前の私は類を嫌いになったわけではなかった。だからといって、好きだったのに仕方がなく別れた、というわけでもなかったけれど。
好きだったけれど、別れたかった。簡単に言えばそういうことだった。ただ、それを類に理解してもらえるとは思えなかった。
「昔の話だから」
「許してくれるの?」
縋るような目。いつもそうだった。私が否定的な態度を取ると、類は途端に脆くなる。振り払うように私は首を振る。
「わからない。もう忘れちゃった」
全部なかったことにしてしまいたかった。別れ際のもろもろだけじゃなくて、類と私が恋人同士だったという事実も。全部なかったことにして、ただの仲のいい幼馴染になれたらいいのに。
こんなふうに再会して、彼とどういう距離をとればいいのか、わからない。近づくのが怖くて、でも遠ざけるのも怖かった。もうこんな大の大人にいらぬ心配だということは重々承知だけれど、私は類に悲しい顔をさせたくなかった。これは小さい頃からの私の習慣だ。身体に染み付いて、もう私の一部になってしまっている習慣。家に帰ると手を洗うとか、食事の後に歯磨きをするとか、理由を考えずにやる、そういう種類のことなのだ。
類の方を向くと、私達は見つめあうかたちになった。ヘイゼルグリーンの瞳には、私が映っている。そこにはもう見なかったふりをできない熱が篭っていた。息が詰まる。怖い。あえて直視しないようにしていた予感が、私の脳裏を埋め尽くす。
だって、まさか類が今でも私を好きだなんて、そんな、まさか。
「僕は、何も忘れてないよ」
ひどく重みのある言い方だった。身がすくむ。
「別れてから今までずっと、里香のことばかり考えてた」
「そんなに気にしなくてもよかったのに」
私は慎重に、話題をはぐらかす。落ち着いた声が出せたことに安堵する。類は私の様子に何かを感じ取ったのか、それ以上この話題に踏み込んではこなかった。類の仕事のことや、近況のことをぽつぽつと話した。けれどふとした拍子に、類の瞳は強い力で私の瞳を覗き込む。私の瞳の中に長い間なくしていたものを見つけようとするみたいに、もしくは視線でノックをするように、執拗に私の中に入り込もうとする。私は、それが、怖い。
けれど悲鳴を上げるわけにもいかないので、尋ねる。
「時間、大丈夫?」
店に入って、一時間近くが経っていた。類は腕時計を見る。
「そうだね、そろそろ戻らなくちゃ」
正直に言って、私は本当にほっとした。
「そっか。頑張ってね」
「うん。里香」
「何?」
「連絡先、教えてもらっていいかな。今度食事でも行こう」
類は微笑んでいるけれど、唇が強張っている。怯えているのだ。
「うん。いいよ」
私は出来るだけ優しく微笑んで、頷く。類の顔に、喜びが溢れる。それを見ぬふりをして、携帯電話を取り出した。連絡先を、交換する。内心溜息をつきながら。
これは単なる習慣だった。類を傷つけないという習慣。私の気持ちはいつも置いていかれてしまう。
類と別れると、ひどく疲れていた。地下鉄に乗って家に帰り、着替えもせずに布団にもぐりこんだ。
目覚めたのは真夜中だった。暗がりで携帯電話を探って時刻を確認すると、十二時を過ぎている。メールが一つ届いていた。
送信者は佐倉類。
「ははは」
おかしくもなんともなかったけれど、発作的に笑ってしまう。失業してから、一人のときも声を出す癖がついてしまった。あまりにも人と話さないせいだろうか。
メールは八時ごろに届いたものだった。
「里香へ
今日は付き合ってくれてありがとう
変わっていないと言ったけれど、綺麗になっていたから驚いたよ
また会ってくれるととても嬉しい
おやすみ」
私の顔が、笑顔に近い妙な表情に歪む。
「綺麗になっていたから驚いた」
声に出して読んでみて、その馬鹿馬鹿しさに改めて呆れる。これは嫌味なのだろうか。勿論そうではないことはわかっている。類はそういう人間ではない。でも嫌味のほうがまだましだ。何故だか泣きたいような気分になった。
躊躇したけれど、おやすみと書いてあったので、メールは返信しないことにした。もしかしたら類は待っているかもしれないと考えて、そんなことを想像する自分にうんざりした。
「そうだった」
思い出した。私は小さく笑う。昔からずっとそうだった。類は私を卑屈にさせるのだった。卑屈で、惨めな気持ちに。そして類は、そういうことが全然わからないのだった。
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