緑の瞳

古池ねじ

第1話

 私は無職だ。

 新卒で就職して三年勤めた会社が、今年の秋に倒産してしまったのだ。不穏な空気が社内に立ち込めてから、最後に行き着くまでは本当にあっという間だった。一つの組織の息が絶えるまでを見取るのは、ある意味ではなかなか得難い、興味深い経験だった。渦中にいたときはもみくちゃにされながら、じっと目を見張って、全てを見守り、一社員としてやるべきことをした、つもりだ。何の役に立ったとも言えないけれど、それでも自分に対して恥ずかしくない程度のことはできた。

 それでもすべて終わったあとに、遅れてやってきた恐怖と疲労が私を打ちのめした。私はもう電話には出たくないし、男性の大きな声を聞きたくないし、金銭の話をしたくない。

 幸い最後まで給料は払われたし、失業保険もすぐにもらえた。失業保険はもうすぐ切れてしまうけれど、貯金がいくらかあるので当分財政的には問題はない。仕事も一応は探しているけれど、見つからなくてもそれはそれでいいかと考えている。何の展望もないけれど、焦りはあまりない。困ったら、困ったときに考えればいいのだ。会社が潰れても、仕事が見つからなくても、死ぬわけではない。

 私は以前に比べ格段に楽観的になった。でもそれは投げやりと紙一重の楽観だった。倒産とそれに基づく失業は、私の中にはりつめていた糸を、いくつか切ってしまった。もう、どうとでもなればいい。そんな気分で日々を過ごしている。

 このごろ私はよく歩く。図書館で借りた本とその他最低限のものを入れた鞄を持ち、近場の、けれど行ったことがないような街に地下鉄で行くとそのまま目的もなく歩き回る。でたらめに路地に突っ込み、同じところを回ったり、引き返したり。疲れたらカフェに入ってコーヒーを飲んで本を読み、暗くなる前に家に帰る。今が人生で一番怠惰で無意味で、でも一番気楽で愉しい時期だと思う。私は何も持っていない。仕事も義務も恋人も同居する家族も。とても身軽だ。

 今日もジーンズにスニーカーとマウンテンパーカーという適当な格好で、散歩をしている。この街はオフィスが多いけれど、一本はずれると立ち飲みのコーヒー屋や古くて小さなかりんとう屋などがあって、面白い。まるまると太った猫が二匹塀の上で丸まっている。近所の飼い猫だろうか。近寄ると、ちらりとこちらを見て、思いがけない身軽さで去って行った。

 歩き回っているうちに熱くなった頬を、初冬のひんやりと乾いた空気が通り過ぎていく。適当に進むと、大きな通りに出た。オフィスビルが並んでいる。二時前という時間なので、人通りはあまりない。そういえばここを進むと大きな公園があったな、と思い出し、なんとなくそれらしい方向に歩いてみる。

 すると、後ろから、腕をつかまれた。

 軽く触れる、というのではなく、冬服の分厚い布地ごと、私の肘のあたりをしっかりとつかんでいる。逃がさないとでも言いたげに。

 何事かと振り向くと、ひどく美しい男が立っていた。掴む手の力強さと裏腹に、その目は不安に翳っている。濃い栗色の睫に囲まれた、ヘイゼルグリーンの瞳。懐かしい色。つめたい空気を無防備に吸い込んだ喉が痛い。

 はりつめた雰囲気を緩めるため、ほとんど反射的に私は微笑む。けれど彼は腕を放さず、私の瞳を凝視している。私の存在を疑っているみたいに。視線が逸れたら、その瞬間に私が消えてしまうかのように。

「類、放して」

 声は自発的に出て行った。昔の私そのままの声に、自分で驚く。類は力は弱めたけれど、まだ腕を握ったままだ。

「放して」

 強い語調にならないように気をつけて繰り返すと、ようやく手は離れた。掴まれた感触を消すように、私はその部分を撫で、身体ごと彼に向き直る。

 一体どれぐらい会ってなかっただろう。四年? おそらくそのぐらいだ。類は相変わらず綺麗な顔をしていたけれど、最後に会った二十一歳の頃には残っていた甘い幼さは完全に消えていた。以前よりも髭の剃り跡が濃く、頬や目の周りも痩けている。

 背筋が伸び均整の取れた体つきは変わらないが、整えられた髪型と服装のせいか少し重々しく見えた。グレイのコートに、ブラウンの古風な感じのスーツ。私にはこういうものに対する眼力は一切ないけれど、いかにも高そうな服だ。履いている革靴も。そういった高価なものを、ごく自然に身に着けている。会わなかった時間は、私達を随分違う場所に連れて行ったらしい。

 その考えに、私は安堵する。この男は、もう私とは遠い。誰の目にも、私が彼の幼馴染には見えないだろう。

「久しぶり」

 手持ちの中で一番優しい、穏やかな声で言う。類はおそるおそる、と言った様子で口を開く。

「……里香」

 ほとんど聞き取れないぐらいの声。まるで幽霊にでも呼びかけてるみたいだ。安心させるために、私は微笑んで首を傾げる。

「なに?」

「……驚いた」

 類はまだ私の実在が信じられないような顔をしている。

「私も。この辺りで働いてるの?」

「ああ」

 類は私の全身にさっと目を走らせた。

「君は?」

「散歩中」

 類は明らかに不審げに眉を寄せたけれど、遠慮したのかそれ以上その言葉について追求はしなかった。私達の間に、ぷつりと断線のような沈黙が落ちる。

 迷うように視線を泳がせた後、類は私の目を見て、怯えたような声で尋ねた。

「里香、今、時間あるかな」

 そうくるとは思っていなかった。だいたい、類は仕事中ではないのか。

 散歩中と言ってしまった以上ないとは答えにくい。ほんの僅かに躊躇したあと、

「少しなら」

 と答えた。

 その途端、類はゆっくりと緊張をほどくように、笑みを作った。くしゃりと目尻に皺が寄り、白い歯が覗く。白い頬には僅かに赤みが差している。甘い喜びに溢れた、無防備な笑み。

 昔と何も変わらない、その笑顔。

 目の前の美しい男、かつての恋人に見蕩れてしまう私の背筋を、寒気に似たものがなぞっていった。

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