森の中の美女

あみだくじ太郎

第1話

 ————ぼんやりした意識の中で、俺は眠りから目覚めた。


 すると、そこはしんと静まり返った、荒涼たる深い森の中であった。


 俺はその目の前にひろがる怪しげな森を見て、なんとも言いようのない不気味な威圧を感じた。しかしなぜ俺はこんな深い森の中にいるのだろうかと、しばらく必死に考えてみたが——俺自身でも、まったくもってその真相はわからなかった。だが一刻も早く、この場所から立ち去らなければならぬような気がする。


 その俺は今、この深い森の中の狭い空間にある、一本だけ切り落とされた、大きな杉の木の切り株の上に、どっかり腰を下ろしている。俺のまわりには太い、背の高い杉の木がほどよい感覚でそびえ立っている。その杉の木の上には、濃いオレンジ色の西陽の光りがなめらかに、だが不気味な光りとなって、重たくななめから差し込んでいる。どうやら今は夕刻らしい。


 俺は深く息を吸い込んで鼻からゆっくりとその息を出してひとまず気を落ち着かせた。そうして太い、年輪の細かい切り株の上から重たい腰を上げたなり、恐る恐るあたりを見渡たした。


 が、見渡す限り太い杉の木がそびえ立っているだけだった。どっちの方向に向かって進めばいいのか、さっぱり見当がつかなかった。ひとまず俺は西陽の射している西の方向にむかうことにした。杉の梢ではフクロウが静かに、重々しく鳴いていた。


 無我夢中で杉の木の下をひたすら歩いた俺は、やがてへとへとに疲れ果てて、その場に座り込んでしまった。が、その時だった。森の中からかすかな音が聞こえ出したかと思った瞬間——俺の目の前に一人の女が忽然こつぜんと姿をあらわした。


 女は色の白い、ほほのうす赤い、黒眼の大きい、つやのある長い黒髪のとても美しい女だった。その女は細い身体に、絹の衣のような白い着物を上品に身にまとっていた。その気品ある着物の腰には、ふちを鮮やかな黄色で染めた黒い帯が、蝶々むすびにして腰にまきつけてあった。女はふっくらとした唇をつぐんで、透き通るほど真っ白な生足の裸足でもって、哀しげな表情を浮かべながら、ぽつんと地面に立っている。


 するとその白い着物の女が、困っているのです、お願いだから助けてくださいと突然いうのだった。俺はとっさに何を困っているんだいと聞いてしまった。しかし女はなぜだか黙っている。だからあなたは何を困っているんだいと俺は少し口調を強めてまた聞き返した。それでも女はしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついたと思うと、ひ弱な声で、わたしの子どもたちが大変なのです、一刻も早く子どもたちを助けてやらねばならないのです、お願いですから、お願いですから、どうか哀れな子どもたちを助けてやってくださいと俺に懇願をする。


 そこで俺は、理由はよく分からないが、兎にも角にも困っているみたいだから仕方がない。じゃあ俺がその子どもたちを助けてやるから、さあ、早くそこまで連れていってくれと女にいった。


 女はにっこりと笑った。潤いのある黒眼をキラキラと輝かせながら、まぶたをパチパチとさせた。するとその瞳から大粒の涙が、赤い頬をつたって、地面にぽたぽたと落ちた。女はありがとうございます、ありがとうございます、本当に助かります、本当に助かります、といいながら、真っ黒な瞳をうるうるとさせたまま、繰り返し繰り返し俺に感謝の意を表した。


 すると女は、ではさっそくですが、子どもたちを助けにわたしの家までついて来てくださいというが早いか、たちまち薄暗い杉の合間を縫って行って、ずんずんと進んで行ってしまった。俺は慌てて女について行った。


 しばらく歩いて行くとだんだん細い道のような空間があらわれはじめた。俺はその不思議な空間に吸い込まれるようにどしどしと細い道を進んだ。女は一定の距離を保ったまま、俺の前方で道案内をしながら手招きをする。


 だがしばらくすると俺は女の姿を見失ってしまった。俺はなぜだか分からないが無性に焦った。早く女に追っつかないと、大変な目にあってしまうとその刹那の中に思った。と思うと、背後の方から地面を這うような奇妙な物音が聞こえだした。


 その怪しげな音に耳を澄まして聞きいっていると、そのざわざわする音はだんだん激して、まわりの地面からはおびただしい数の小さな蜘蛛の子が、どこからともなく一斉にウジャウジャ集まってきた。しかもまわりの杉の木の枝はギシギシと揺らめきはじめ、その杉の梢に留まっているフクロウはバタバタと羽をはばたかせ、その上空では、黒胡麻を空にぶちまけたような、おびただしい数の真っ黒なカラスが、ガアガアと鳴きながら、不気味な夕闇の空を飛びまわっている。


 地面の無数の蜘蛛の子はうようようごめく。


 杉の木の枝はギィギィガサガサ激しくきしむ。


 杉の梢のフクロウはざわざわざわめく。


 上空の無数のカラスはガアガアバサバサ飛び群れる。


 森の中の俺は妖しげな女を完全に見失う。


 俺は全てが恐ろしくなった。全身からは大量の脂汗がジワジワとにじみ出てくる。この場から一刻もはやく逃げ出したくなる。あーっといって頭をかかえて発狂しそうになる。こんなところに立ち止まっていては死んでしまう。そう思うと俺は足早に歩きはじめた。


 しばらくすると辺りはぼんやりほの暗くなっていた。杉の上には黄金に光る大きな満月が不気味に大地を照らしていた。月の輪郭はまん丸だった。このお月様は幾億年も幾億年も丸い大地を眺めている。清らかな、透き通るほどの憐憫れんびんの情でながめている。俺はそんなことを思いながらその歩をはやめた。


 やがで行き止まりになった。左と右にそれぞれ道がある。どっちも同じような道だから俺は迷っていた。するとしんと静まりかえった深い闇の森の中から、あの女が静かに姿をあらわした。女は右の方向を指差し、わたしの家はこの先にあります、どうか早くついて来てくださいという。俺は黙って女について行った。


 しばらく道なりに歩いて行くとやがてひとつの開けた場所にでた。円形の広場のような狭い空間だった。そこの空間だけは昼間のように明るかった。


 地面には数々の大小の花が所狭しと並んで咲いている。鮮やかな赤色の花やら、淡い青色の花やら、小さい桃色や白色の花やら、綿のつけた黄色の花やら、鈴なりのつぼみを垂らした紫色の花などが、あたり一面に咲いている。俺はなぜこの場所だけこんな綺麗ないい香りのするお花畑があるのだろうかと考えてみたが無論わかるはずはなかった。


 そんなことを考えていると突然あたりが暗闇につつまれた。と思うと瞬く間にまた明るくなった。俺はその刹那、ぎょっとして心臓が凍りついた。


 そこには戦慄の光景がひろがっていた。さっきまで綺麗に咲きほこっていた、色とりどりの花たちは突如なくっなって、その変わり、地面には俺を取り囲むようにして、大きな蜘蛛の巣が、銀色に光る蜘蛛の糸でもって、びっしりとあたり一面に張り巡らされている。


 俺は——俺はその場から逃げ出そうとした。が、両足はすでにその粘り気のある銀色の蜘蛛の糸で、ねっとりと絡まっていて身動きがまるで取れない。


 必死の力をふりしぼってもがく俺の眼前がんぜんに、またあの女が忽然こつぜんと姿をあらわした。するとさっきとはまるで別人のような低い声で女は、「ふふふ、どうもお兄さん、よくぞここまでたどり着きましたね、お疲れさまでした、わたしの子どもたちがお腹を空かせていましたからね、ほんとうに助かりますわ、最近はなかなか餌が取れないから大変なのですよ、ふふふ」といって不気味な微笑を浮かべると、その白い細い両腕を大地に向かってかざしたのだった。


 と次の瞬間だった。突然まわりにある蜘蛛の巣を伝って、あの無数の小さな蜘蛛の子が、俺の足下へぞろぞろと集まってきた。足元には蜘蛛の子がうじゃうじゃとひしめきあっている。するとその妖艶な女は見る見るうちに、黒と黄のシマシマ模様の巨大な女郎蜘蛛の姿に変わって、鋭い二本の牙を剥き出しながら、八本の長い足でずんずんとこちらへ向かってくる。と思うや否や、その女郎蜘蛛の大きな口から太い銀色の蜘蛛の糸が凄まじい勢いでキュルキュルと音を立てながら俺の体にグルグルと巻きついた。


 俺は声を上げる間もなく、その銀色に光る蜘蛛の糸でもってすべてを覆いつくされた。そうして俺はいくらもがいてもまるで身動きができなくなった。だんだん意識も薄れてくる。と同時にどす黒い暗黒の世界がぐるぐる渦を巻きながら、俺の脳内をすべて支配してしまった————。

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森の中の美女 あみだくじ太郎 @amidakuj

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