第2話一人前

 仕事帰りのスーパーで、私は眉を寄せていた。

 時刻は、午後9時15分。

【半額】と書かれたシールの貼られたカツ丼と、【二割引】の海鮮丼。

 量としても値段としても、カツ丼はお買い得だ。悩む余地は無いように思える――もし私が男性ならば。


 24才の女性としては、夜にカツ丼というのは中々に重い。

 揚げ物というのが先ずもって重いし、そこに玉子だ。社会人の弱った胃には非常に辛いのである。明日乗る体重計だって、或いは肌荒れだって怖いし。


 では海鮮丼で決まりかというと、それもまた悩みどころだ。


 酢飯の上に海苔を敷き詰め、鮪、烏賊、帆立、玉子焼き、イクラを散らした海鮮丼は、肉と比べて遥かにヘルシーである。


 問題は、


 カツ丼と横に並べてみると良く解るが、具の部分の厚さは明らかにカツ丼の方が厚い。海鮮丼は、酢飯の上にさらりと敷かれているだけで、1枚鮪を取り上げれば直ぐに酢飯の登場となる。

 そう、

 


 そもそも酢飯は腹に溜まるが、加えて、ここの海鮮丼は酢飯を盛るどころか詰め込んでいる。試しに手に持てば、意外な重さに驚くだろう。

 丼の高さに対して飯部分がかなりの割合を占めている海鮮丼は、実のところカロリー的にはカツ丼と大差がない。とんだ羊の皮を被った狼である。


 ………どっちだ。


 サービス残業続きの社会人にとって、夕飯の弁当というのはある意味で人生唯一のオアシスだ。

 食費という必要経費のみを使って、誰の都合も考慮することもなく、好きなものを好きな風に食べる。これほどエコな趣味が他にあるだろうか?

 ………ある、ということくらいは解っている。だがそれでも、何もないよりは遥かにマシなはず。


 上を見ても辛く、空しくなるだけ。

 下を見てさえいれば、とても楽だから。






【一人前】






 結局私が買ったのは、寿司2個入りとサラダだった。好みではない、財布の中身と値段との折衝プラス申し訳程度の健康意識の結果だ。

 半額になっていたから、2つで海鮮丼とカツ丼との間に収まってくれたのは、中々に気分が良い。5分間悩んだのが無駄になったが、私の5分なんて大したこと無いし、寧ろ5分間を無駄にするなんて、私は中々に贅沢をしたと言えるのではないか。

 ………言わないでほしい。解っているとも。これもまた、下を見るということだ。


 こういうのが、一人前の社会人の食事というやつだ。

 一月の労働で、夕飯さえ自由に出来ないことが、頑張っているということだ。


 誇れ。

 私は、頑張っている。


 スーパーの袋をぶら下げて、家路を急ぐ。スーパーは駅の東口にあり、家は西口方面。詰まりは開発されていない側というわけだ。

 必然的に、人通りも無ければ街灯も少ない。

 ポツリポツリと、闇に浮かび上がる光を辿るように歩く。


 何気無く、振り返る。


 1つ後ろの光の中に、制服を見付ける。少し離れた駅にある高校の制服だ。

 アルバイトか、それとも塾か。

 平日だろうが祝日だろうが、帰り道がいつも一緒になる少年である。


 まあ、一緒にと言っても、このくらいの距離が空いているから一緒とは言わないか。


 独りと独り。


 ただの道連れだ。





 年代物ヴィンテージの我が家、荒谷荘。

 不安を覚えるほどに軋む階段を上り、2〇2号室へ。

 少し遅れて、少年は下の階に進んでいった。

 どこの部屋か、私は知らない。興味もない。


 私たちは独りと独り。

 それだけだ。


 肩をすくめて、私は我が家のドアに向かい、


「………え?」


 私は、――懐かしい名前の書かれた、私宛の封筒を。







 昔は、こんなではなかった、と思う。


 うえを見ていた。

 その輝きに憧れて、その響きに憧れた。

 いつかそこに辿り着いて、そして、次の誰かに憧れてもらうのだと無邪気に信じていた。


 夜空に煌めく星になんて、届くわけもなかったのに。


 お父さんが止めたのも、当たり前だ。3年前、家を飛び出した私は、結局ただの世間知らずだった。

 世間知らずで、反抗期だ。


 そもそも私の家は割りと裕福で、苦労もせずに欲しいものを買ってもらっていた。

 その分両親は仕事に忙しく、私の世話は住み込みの家政婦さん、バーちゃんに任せっきりだった。

 寂しかった。お母さんもお父さんも、ほとんど話をしなかった。

 淋しくなかった。いつだって、バーちゃんが居てくれたから。


 家を出て、ここに住むことにした知らせもしたし、就職が決まったことも手紙で知らせた。両親に伝えるべき事を、私はバーちゃんにだけ知らせていた。

 就職以降は残業と休日出勤の連続で、まともに連絡出来てはいなかったのだが、それもまた、一人前の社会人ということだと言い訳をしてきた。


 その、バーちゃんからの、手紙。


 正直、気が重かった。

 どうせ、元気にしているか、頑張ってるかと聞かれるだけだろうから。

 もちろん私は元気だ。頑張っている。

 だから、こんなに辛いのだ。


 バーちゃんに聞かれたら、私はきっと、下を見ては居られなくなる。

 代わりに見るのは、上ではない――今ここにいる、私自身の真なる姿だ。

 笑うのも忘れ、泣くことももっと忘れ、ただ俯いて毎日を生きるの、ロボットみたいな私の姿だ。


 ため息を吐き、諦めて封を切る。

 大丈夫、覚悟は出来たから。

 下を見るのは、得意だから。


「………………………」


 予想に反して、そこには一文しか書かれていなかった。

 予想通り、それは私を打ちのめす手紙だった。

 懐かしい、少し丸みを帯びた綺麗な字で、ただ一言。


『ちゃんと食べてますか?』


 バーちゃんの、口癖だった。

 その日食べた皿を、積み上げてみる。一人で食べたら一人分、家族で食べたらその人数分。

 そうして毎日積み上げたその壁が、人の生きた証なのだと。


 何を食べたのか。誰と食べたのか。

 その壁を見れば、全部解ってしまうのだよと、バーちゃんは優しく笑って言っていた。


 ふと、気付いた。

 目の前にある一人前の食事とやらをいくら積み上げても、もう、どこにも届くことはないのだと。

 バーちゃんにも、あんなに冷たかった両親にさえ、私の一生は届かないのだと。


「あ、あぁ、あぁぁぁ………」


 随分久しぶりに、私は声を上げて泣いた。

 それから、1枚の手紙を書き始めた。バーちゃんみたいに上手くは無いけど、一生懸命書いた。






 午後、15分。

 叩き付けた退職届の処理に随分かかった気がしたが、それでも日頃よりも早く帰れた。

 確かに、私の5分なんて大したこと無いらしい。そういう風に、私自身が叩き売っていたのだろう。


 目の前には、パックされた鶏肉。

 少し先には、値引きシールを持ったアルバイト君。

 互いに距離を図るように、私は待ち、彼もまた待っている。

 構わない、私は腹を括った。いいぞ、待つぞ、私は。何せ、今日は一時間も余分にあるのだから。


 ニンジンとじゃが芋、玉ねぎ、そしてルーが入った袋をぶら下げて、私はのんびりと家に辿り着いた。


 階段に足を掛けて、ふと、振り返る。

 いつもよりも幾分離れたところを、少年が俯いて歩いてくる。

 声が届くくらいの距離に近付いた時、私は再び腹を括った。


「こんばんは」


 少年が、驚いたように顔を上げた。

 真面目そうな、穏やかな顔の少年に、私は手にした袋を掲げて見せる。


「作ろうと思うんだ、今夜から、それなりに。で、これからカレーを作る予定」

「………はあ」

「君、一人だろう。良かったら――ご飯だけ持って、来ないかな?」


 少年が、目を丸く見開いている。

 私は可笑しくなって、声を上げて笑った。


「2〇2号室だ、待ってるよ」


 そう言って、私は部屋に逃げ込んだ。

 声を上げて笑ったのも久しぶりだなと思いながら、荷物を床に放り投げて、それから、バーちゃんへの返事を考え始める。


 大丈夫。

 私は元気で、良く食べてるよ。


 少年は、果たして来るだろうか。

 どちらにしても、私たちはもう、独りと独りではない。

 同じアパートに住む、二人だ。

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