アリスの世界、別れのワルツ

西條寺 サイ

第1話

 蝉の声が近く遠く響く。二人が車から降り立つと、東京とは違う夏の香りの中に、海風が混じっているようだった。

 「すごいお屋敷ですね」

 「ここに泊まんの?」

 本当に?と不安げに瞳を揺らす傍らの甥に笑いかけ、いい経験ですよ、とはいつも通り穏やかな表情を浮かべた。この叔父が動揺しているところを未だかつて自分は見たことがあっただろうか。吉村天よしむらてんはメディアが名付けた謎の愛称、カリスマ精神科医でもある心理学界の貴公子、片山晴治かたやまはるじを眇めた目で眺めた。

 「さぁ、先生、どうぞ」

 長崎市長はまるで我が家のように応接室に晴治たちを通すとソファにかけるように勧めた。

 貴族の家って、たぶんこんな感じ。というのが天の第一印象だった。室内は当然のごとく土足で、毛足の長い絨毯が玄関から敷き詰められている。木製の大きなドアを開けるとそこは応接室になっており、家具に興味のない天にさえそうとわかるような、甘く柔らかな艶を放つアンティークの調度品が設えてある。ソファは控えめだが品のいい花柄で、座り心地が信じられないほど良かった。

 東京の友人の家でもこんな家具は見たことないと天は思わず室内を見回す。

 四角い木製の箱の上に、金属でできた大きな朝顔のようなものがくっついている。クリアさにかける、しかし味わいのあると言えないこともないピアノの音がそこから流れてくるのだと気付いた時、天はそれが蓄音器と呼ばれる物体だということを認識した。

 「さすが、ご高名な片山先生の講演は素晴らしかったです。発達、心理学、ですか?私もそういった分野は素人ですが、それでも頷けるお話しが多かったですよ」

 「恐れ入ります」

 座ったまま頭を下げる晴治を天は黙って見つめた。まともに大人の対応をしているところを見たことなどほとんどない。こんな会話もできたのかと、珍しいものを見ている気が天にはした。

 「それにしても、立派なお屋敷ですね」

 「ええ。当主の意向もあって、一般にはあまり公開していないのですが、今回は私からお願いさせて頂きました」

 「お気づかい痛み入ります。ですが、本当によろしいんでしょうか。僕だけではなく、甥までお世話になってしまって」

 いえいえ、と品のいい笑顔で市長は右手を振った。

 「先生ほどのお方にわざわざお越しいただいたんですから、当然です。最近では外国でもご講演をなさっていると伺いましたから、普通のホテルでは少々面白みに欠けると思いまして。それに、先生は美術史にもお詳しいとか。現在は、津田家の所有ですが、この建物は、旧クルーズ邸と申しまして、いわゆる異人館なんですよ」

 「それはまた、由緒のある建物ですね」

 晴治にそう言われ、市長は少し誇らしげにええと頷いた。

 「後でお目にかけますが、長崎港に面した庭も大変綺麗なんです。今の時期、ここの庭ではバラも咲いておりますし。当主が戻れば屋敷の中もご案内して差し上げられますので。バロックからビクトリア時代の調度品なども数多くございますので、きっとお楽しみ頂けると思います」

 「それは楽しみです」

 晴治は目を細めて頷き、ソーサーからティーカップを持ちあげた。

 「こちらのカップは、もしかして、セーブルでしょうか?」

 「さぁ……申し訳ありません、私もそこまでは」

 何気なくカップに手を伸ばした甥っこに晴治は目をやった。

 「天くん」

 「セーブルってメーカー?」

 「フランスの国立製陶所のブランドです」

 「セイトウジョ?」

 「ええ。割ったり傷つけたりしなければそれで構いません。気をつけて下さい」

 きょとんとした天に、晴治は小声で告げる。

 「ひとつ、数十万はします」

 「えっ」

 怖々とソーサーにカップを戻した甥に安堵したのか、晴治は手にしていたカップを両手で包み込むようにしながら口をつけた。

 「紅茶も、いい香りですね。マリアージュフレールのマルコポーロでしょうか」

 「いやぁ、先生は本当に博識でいらっしゃいますね」

 心底感心したように叔父を見つめる市長に、天はこの人も騙されてるなと心の中でため息をついた。

 背が高く顔立ちも整った叔父は、容姿だけであれば確かに女性受けする要素を持ち合わせていた。職業柄か話し方もソフトで、人当たりも卒がない。しかしそんな長所を逆に補って余りあるほどの変人であることを、天は知っていた。

 「いえいえ。好奇心旺盛なので、興味を持つとつい何でも調べてしまうんですよ」

 さすがですね、と叔父を絶賛する市長の声を天はどこか遠くに聞く。

 晴治の場合、好奇心旺盛などという生ぬるい物ではない。

 何かに興味を覚えると、凝り性を通り越して、変質的なまでに徹底的に調べ上げ、現地に赴くことは勿論、生き物であれば飼育し、植物であれば栽培し、食物であれば食し、衣服であれば身につけ、想像しうるあらゆる手段で、「それ」を経験しないと気が済まないらしい。その過程で様々な国や文化、人に接し、知見を広げていることは間違いないが、今度こそ気でも触れたのではないかと天が思ったのは一度や二度ではなかった。

 砂漠で干からびそうになったことも、アフリカで肉食獣に襲われたことも、アマゾンで川に流されそうになったことも、光るキノコを食べて食中毒を起こしたことも、そう言えばそんなこともあったなぁと穏やかな気持ちで叔父の横顔を眺めてみると、この人、よくこれまで生きてこられたなと感慨深い気さえした。

 「ところで、こちらのご当主というのは、どういった方なのでしょうか?一般には公開していないようなお屋敷を私たちに開放して下さるなんて……」

 叔父の表情が僅かに変わる。社交的な笑みがどこか深遠な仏像チックな微笑みに変わるのを天はこれまでも何度か見た。そんな時の叔父は、何かを感じ、何かを探しているようだった。

 そのことですが、と市長は身を乗り出しながらひそめた声を発した。

 「実は、先生には、当主のお話相手になって頂きたいのです」

 「話相手、ですか?」

 ええ、と頷いた市長の顔は真剣で、どこか悲しげにも天には見えた。

 「お会いになればお分かりになりますが、津田家の当主は、まだ非常に若いんです。そちらの、甥御さんと同じくらいだと思います」

 「それはまた、何か御事情がおありのようですね」

 「ええ。さん、こちらの当主ですが、既にご両親を亡くされています」

 「そうでしたか。お気の毒なことです。ご両親はいつ頃?」

 それが、と市長はソファに座りなおし膝の上で両手を組み合わせた。

 「お母様は七,八年ほど前ですが……亜里栖ありすさんのお父様がどういった方なのかは、私も存じ上げないのです。いわゆる、シングルマザーとして、千秋ちあきさん、亜里栖さんのお母様が育てていらっしゃったので」

 なるほど、晴治は頷き、市長と同じようにソファに深く座りなおした。

 「それで、既に実のお父様もお亡くなりになっている、ということなんですね」

 「ええ。千秋さんからはそう聞いています」

 なるほど、と繰り返した晴治。天は恐る恐るティーカップを手に取った。ちらりと晴治がこちらを見たが、喉の渇きをこらえられずカップに口をつけた。ぬるくなった紅茶からは、天の知らない、甘い果実の香りがした。

 「それでは、亜里栖さんはお母様が亡くなってからずっとお一人なんですか?」

 「いえ、それが……」

 「もし、医師としての立場で、私が亜里栖さんとお話させて頂くことをお望みなら、守秘義務は守ります。勿論、そうでなくても市長さんから伺ったお話は他言しません。君も」

 二人の大人に見つめられ、天は慌てて頷いた。本当はここにいない方がいいのかも知れない、とは思ったが、この美しい洋館に一人で暮らす同じくらいの年齢の少女には少なからず興味があった。

 「失礼いたします」

 市長が何かを言いかけたちょうどその時、軽いノックの音に室内の会話は打ち切られた。重厚な木製の扉が開くと、現れたのは背の高いスーツ姿の若い男だった。

 「亜里栖様がお帰りになりました」

 「ああ、それは」

 腰を浮かせた市長に、晴治と天も従った。会釈した若い男の後ろから現れたのは、制服姿の少女だった。

 「亜里栖さん、お邪魔してます」

 「お待たせして申し訳ありません。市長さん、お久しぶりですね。初めまして、津田亜里栖です」

 「しばらく見ない間にまた綺麗になりましたね」

 世辞でもないのか市長がそう言うと、亜里栖はくすくすと笑った。

 「いつも同じこと仰るんですね」

 ペイルブルーのような珍しい色をしたワンピースを着た亜里栖は、その容姿からも名前からも不思議の国のアリスを天に連想させた。すらりとした身体に、癖のない長い髪。白い肌とぱっちりとした大きな瞳に形のいい小さな唇。大人っぽいとも言える美貌に、どこかあどけなさの残る声で、亜里栖は笑う。

 それはお伽の国の住人が現実の世界に抜け出してきたかのような不思議な光景だった。

 「初めまして。片山です。こちらは、甥の吉村天です。図々しくお邪魔してしまって申し訳ありません」

 叔父の言葉に、少女は花のような笑みを浮かべた。

 「とんでもない。先生のご著書を拝読してからずっとファンだったんです。テレビでも何度も拝見させて頂きましたし、本当にお会いできるなんて夢のようです」

 「いえいえ。実物を見て失望させていなければいいのですが」

 「とんでもない。市長さんからお話を頂いた時は驚きましたが、本当に光栄です。どうぞごゆっくりおくつろぎ下さい」

 亜里栖は天にも微笑みを向け、ゆっくりとドアの方を振り返った。

 「こちらが、矢崎やざきです。この家の執事ですから、何でもよく知っています。お困りのことがあれば御遠慮なくお申し付け下さい。勿論、家の者にもお二人が滞在されることは申し伝えてありますので」

 「矢崎です」

 責任感の強そうな青年は短く告げると晴治と天に向って頭を下げた。

 「お世話になります」

 晴治は同じように頭を下げ天が一番見慣れた、万人受けする微笑みを浮かべた。

 「それでは、亜里栖さんも戻られたことですし、私はいったん失礼します。またディナーの時に」

 「はい。いろいろお気づかい頂いて、本当にありがとうございます」

 「とんでもない。講座を受講する学生以上に、大学の職員の方が先生とお話させて頂くのを楽しみにしているようです。私もまた聴講に伺いますので。どうぞ、大学での講義だけでなく、長崎の滞在も楽しんで下さい」

 「ありがとうございます」

 矢崎に伴われ応接室を出て行く市長を、叔父に倣って天も会釈で見送った。

 「先生は、長崎は初めてでいらっしゃいますか?」

 亜里栖は鈴を振るような愛らしい声でそう問いかけた。

 「いえ、昔家族旅行で一度。もうだいぶ前ですね。亜里栖さんや、天くんが生まれる前です」

 「そうでしたか。天さんは、おいくつでいらっしゃいますか?」

 「今年、高校生になったばかりです」

 何かと自分を子ども扱いしたがる叔父を軽く睨んで、天は渋々頷いた。自分の年齢くらい自分で言わせて欲しい。

 「私の、二つ下ですね。三年生になると大変ですよ。今日も夏期講習がありました」

 若い女主人は品のいい微笑みを湛え、メイドが運んできたティーカップを手に取った。

 「進学されるんですね。大学はどちらへ?」

 「先生が今回講座を持たれている、あの大学です」

 「ご自宅から通えますね」

 「ええ。なかなか、ここを離れるわけにも……」

 まだ幼いとも呼べる少女に託された一族や財産という重圧。寂しげな微笑に、天は、目には見えないしがらみに亜里栖が絡めとられているように感じた。

 不意に黙って自分を見つめた晴治に気付き、亜里栖は何でもないというように柔らかく首を横に振った。

 「生まれ育った街ですから、長崎が好きなんです。それに……ここが、私の世界ですから」

 晴治は亜里栖の言葉に黙って頷いた。

 「お母様がお亡くなりになってからは、このお屋敷にずっとお一人なんですか?」

 「ええ。ですが、矢崎の他にも住み込みで働いている者もおりますので……皆、家族のようなものです」

 「そうですか。それはよかった」

 その時、扉の隙間から飛び込んできた黒い小さな影に、亜里栖は短い悲鳴を上げた。

 「矢崎!」

 「猫、ですか?」

 黒猫は亜里栖の足元をすり抜け、出窓に飛び乗るとそこで丸くなった。

 「申し訳ありません」

 亜里栖は自分が上げた声に対してか、突然の闖入者に対してか、晴治たちにそう詫びた。

 「お呼びでしょうか?」

 「エルヴィンを部屋に入れないでといったでしょ?」

 「申し訳ございません」

 矢崎は女主人と晴治たちに一礼すると窓際まで歩み寄り、そっと猫を抱き上げた。エルヴィンと亜里栖が呼んだ猫は大人しく矢崎に抱かれ部屋の外へと連れ出された。

 「エルヴィン、シュレーディンガーの猫、ですか?」

 晴治が興味深そうに亜里栖を見つめると、少女はええと頷いた。

 「亜里栖さんは、あまり猫がお好きではないようですか、どなたの猫さんなんでしょうか?」

 猫さんってなんだよ、と天は叔父を見たが、またしても仏然とした穏やかな表情を浮かべていることに気が付き沈黙した。

 「元々、叔父さん……母の弟が飼っていた猫です。私が子どもの頃からおりましたから、もうかなり高齢だと思います」

 「なるほど。叔父様は物理学ご専攻ですか?シュレーディンガーの猫、という言葉は割と有名ですが、彼のファーストネームをご存じということは、それなりに物理学に造詣の深い方かと思いまして」

 晴治の言葉に、亜里栖は僅かに表情を曇らせた。叔父は、と一度目を伏せ、ゆっくりと晴治を見つめる。アンティークドールのように大きく、輝くように美しい瞳だった。

 「叔父は、母が亡くなる少し前に、事故で亡くなりました。でも先生のおっしゃる通り、物理学の研究者でした」

 「そうでしたか。それは失礼なことを伺ってしまいました。申し訳ありません」

 「いえ。どうぞお気になさらないで下さい。叔父は若くして亡くなりましたが、いろいろな物を残してくれましたし、幼い頃は父親代わりでもあったんです。母もずいぶん助けられていたんだと思います」

 そうですかと晴治は深く頷き、不意に室内を見回した。

 「何か?」

 「いえ、きっと素敵な叔父様だったんでしょうね。どこかにお写真がないかなと思ったんですが」

 「申し訳ありません。写真は全て、私の部屋に飾ってあるんです」

 「なるほど」

 室内に不意に沈黙が訪れた。温かくくすんだピアノの音もいつしか途切れていた。

 「よろしければ、お庭をご案内させて頂きますが」

 「ぜひ、お願いします。市長さんもこちらのバラがとても綺麗だとおっしゃっていましたよ」

 亜里栖は静かに微笑み、ソファから立ち上がった。東京でもあまり見かけない洒落た制服は、その色もデザインも亜里栖によく似合っていた。どうぞ、と肩越しに自分たちを振り向いた少女に天は一瞬見惚れそうになった。こんなに上品で穏やかで愛らしい同年代の友人を知らなかった。こういうのは生まれとか育ちとか、きっとそういう努力以外の部分も多いのだろうと何となく納得する。亜里栖の静かで無駄のない歩き方に、天はよく躾けられた人間の美しさというものを見た気がした。

 応接室から庭に出ると、夏の午後の風が心地よく吹きわたっていた。海からも風が吹き上げてくるのか、舞い上がる髪を優雅に抑えた亜里栖の指は、夏の日差しの中で雪の結晶を思わせるほど白く澄んで、ひどく冷たそうに見えた。こういう人は、きっと汗かかないんだろうな、天は何となくそう思い、額に滲んだ汗を手の甲で拭ったが、傍らで興味深そうに庭を眺める叔父は、いつも通り涼しい顔をしていた。

 天も広々とした庭に目をやった。イギリス風の庭園はよく手入れされ、ガイドブックに観光スポットとして紹介されても恥ずかしくないほど見事だった。中央に配された噴水に水はなかったが、二人の天使が寄り添う彫刻は、二人が捧げ待つ大きな壺から水を流していた当時のまま、繊細で優美な姿を留めているようだった。その向こうには、海を見下ろせる位置に凝ったデザインのベンチが一つ置かれている。どうやら、こういう屋敷の家具や調度品に共通するのは、優雅な曲線美なのだと天は気が付いた。それは庭園の右手にある、弦バラを絡ませたアーチからも伺い知ることができた。アーチの向こうはバラ園になっているらしい。室内にいた時から仄かに感じていた甘く独特な花の香りが、バラ園から立ち上っていた。亜里栖と晴治は静かに談笑しながらバラ園に向って行く。天は二人に従いながら、空間を満たすバラの香りを堪能した。

 しばらく優雅な散策を楽しんだ後、矢崎が用意したアイスティーと焼き菓子を囲んで、ガーデンテーブルで茶会が始まった。

 この短時間に何度お茶するんだろうと天は思ったが、美しい女主人と、いつもより紳士的に振舞っている叔父に挟まれていると、自分もこの場にふさわしい登場人物を演じなければならないという気がしてきた。

 「七月の末だというのに、ここのお庭のバラは素晴らしいですね」

 晴治は目を細め庭園の一角を占めるバラ園を見た。零れ落ちそうな大輪の白いバラが、深い緑の中に揺れる光の玉のように美しかった。

 「母が、白いバラを好んでおりまして……長崎の夏にも耐えられる品種を、叔父が探し出してくれたそうです」

 「それはまたお姉さま思いな叔父様だったんですね」

 晴治の言葉に、亜里栖は微かに目を伏せながらええと頷く。俯きがちなその顔は庭に咲き誇る白い花の一輪によく似ていた。

 「とても、優しい叔父でした。物知りで、少し変わり者で……それ、今、先生が召しあがっているそのクッキーが、とても好きだったんです」

 「このシナモンの香り、止まらなくなりますね。東京でも買えればいいんですが」

 残念です、と心底残念そうに、晴治は何枚目になるのか、また同じ形のクッキーに手を伸ばした。

 「お口に合ったようで何よりです。学者さんというのは、皆さん、甘い物がお好きなんですか?」

 亜里栖は懐かしそうに目を細め、幸せそうにクッキーをかじる晴治を見つめた。

 「僕は間違いなく甘党ですが。他の人たちはどうでしょうか……」

 「叔父は独自路線なので」

 友達や仲間がいない、ということをどう伝えればいいのか。少しだけ不思議そうな顔をした亜里栖に天は小さな声で伝えた。

 晴治は天の言葉をまるで気にした様子もなく

 「先程頂いたキャロットケーキも美味しかったですし、叔父様はきっと毎日幸せだったでしょうね」

 それが、と亜里栖は戸惑ったような表情を浮かべ、少しだけ首を傾げた。

 「あまり、焼き菓子などは好まなかったようで、シナモンのクッキー以外は、いつも、丸い缶に入った小さなキャンディーのようなものばかり食べていました」

 「キャンディーですか?」

 ええ、と亜里栖は何かを思い出そうとするかのように遠くに目を向けた。

 「今で言う、ミントタブレットのような物だったのかも知れません。もう少し、大きかったような気もしますが……子どもの頃のことなので、いつも叔父さんはキャンディーの缶を持ち歩いている、という印象しかなくて」

 「叔父様は、学者さんだったんですよね。確かにずっと頭を使っていると、糖分が欲しくなる気はします。まぁ、人によるとは思いますが。それに、糖分を摂取したいだけなら、クッキーやチョコレートよりキャンディーの方が適しているでしょうね。持ち歩きも便利ですし」

 「そうなんですね……。亡くなって、何年も経ってからそんなことがわかるなんて……何だか嬉しいような、不思議な気分です」

 亜里栖はため息をつくように微笑んだ。グラスを手に取り、ストローを静かに口元は運ぶ。その仕草の上品さに、天は一瞬見とれた。

 「ちなみに、何というキャンディーだったかはお分かりになりませんか?どんな味だったのかとか、もし覚えていれば」

 晴治に問われ、亜里栖はグラスをコースターに戻した。

 「優しい叔父だったんですが、私がいくらねだっても一度もくれなかったので……どんな味だったのかはわかりません。大人になったらあげる、そう言われて、毎回はぐらかされてたんです。それに、あの缶は……お菓子のパッケージという感じでは、なかった気がします。アルミのような、金属の小さな缶で、商品名やメーカーがわかるようなシールも貼ってありませんでした」

 「そうでしたか。何かこだわりがあったのかも知れませんね」

 「ええ。叔父もどこか、謎めいたところのある人でしたから」

 故人を懐かしむように亜里栖は目を細める。晴治はそれ以上何も言わず、頷きながら新しいクッキーに手を伸ばした。

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