第3話 白銀の狼執事
食堂と厨房をつなぐ窓にある棚を拭き終えたサムタンは、客の去った店内を見回した。あれほど大勢の人間が、あわただしく出入りして食事をするなど想像すらしたことがなかった。サムタンにとって食事とは、ゆったりと時間をかけて楽しむべきものであり、雑多な雰囲気で行き会った人と席を共にし、それぞれのペースで飲食を終えて出ていく、というものではなかった。
なんとおもしろい場があるのだろう。サムタンは人々の気配の名残を、掃除を終えた食堂に見た。ドアの横にある窓に目を向けて、サムタンは町の人々が急ぎ足で行き過ぎるのを見た。ここに住まう者たちは、誰もが島に住まう者たちとは違う意識で動いている。城の人々は誰もが、もっとゆったりと時間を味わっていた。
「サムタン」
声をかけられたサムタンは、雑巾をバケツにかけて厨房に入った。
「ごくろうさま」
厨房の掃除を終えたシャルは、ケーキの切れ端とお茶をテーブルに置いてほほえんだ。
「手を洗ってきて。ひと息入れましょう」
うなずいたサムタンが厨房の奥に行く。彼の働きぶりにシャムは感心していた。すべての世話を周囲の人間にされていたらしい彼に、期待はしていなかった。食堂の手伝いをしてくれと段取りを伝えたけれど、いままでシャルがひとりで切り盛りをしていたのだから、サムタンがいてもいなくても問題はない。
シャルの食堂の朝食は、サンドイッチとスープ、お茶と決まっていた。それならば注文を聞かなくとも、人数を見るだけで準備ができる。窓の下にある棚は、サンドイッチを置いておくためのものだ。そうすればスープだけをよそって出せばいい。
シャルがサムタンに頼んだ仕事は、テーブルに置いてあるお茶がなくなれば、厨房に入って新しいポットと取り換えてくれ、というものだった。ふだんは茶がなくなれば、常連客がシャルに声をかけて、スープを出すついでに気づいた客にポットを渡し、客に置き換えてもらっていた。そのくらいなら彼にもできるだろうと思ったけれど、それ以上の仕事をサムタンはしてくれた。
持ち帰りの客には、持ち寄られた水筒にスープを入れて渡す。そうしているところを見たサムタンは、持ち帰りか食べて帰るのかを客に問い、持ち帰りの場合は水筒を受け取って端の壁に並んでおくよう伝えた。そうして窓の下のサンドイッチを手渡し、厨房に入ってスープを水筒に入れて代金を受け取る。それだけでシャルの手間は格段に楽になった。
気が利くというか、気がつくというか、とにかく彼はとても役に立ってくれた。掃除にしても呑み込みがはやかったので、後片づけもまかせられた。感謝の気持ちを込めて、シャルは昼用のパウンドケーキの切れ端とお茶を用意し、サムタンをねぎらう気でいた。
「ちょっと休憩をして、お昼の買い出しに行きましょう」
掃除道具を片づけて、手を洗ってきたサムタンにテーブルを示すと、サムタンはうれしそうに席に着いた。シャルもイスに腰かける。
「僕は役に立てただろうか」
「想像以上よ。とっても助かったわ。いつもなら、いまから食堂の掃除にかかるところなのに、サムタンがしてくれたからお茶をする時間ができたもの」
「そうか」
うれしげにサムタンが目を細め、なんて素直な笑顔なんだろうとシャルの心がほっこりした。してこなかっただけのサムタンを、できないと決めつけていたなんて失礼だったな。この調子だと、お昼も客あしらいを任せられそう。それで余裕がありそうなら、いつも1種類だけのメニューを2種類に増やせるかもしれない。――ああ、でもサムタンはずっとここにいるわけじゃないんだっけ。庶民の暮らしを知るために、島を抜け出したって言っていたから、目的が終われば帰ってしまうのよね。あんまり欲張らないほうがいいのかも。
いまは雇い主であり宿主という立場ではいるけれど、正式に雇用をしているわけではないのだからと、シャルはケーキにフォークを入れながら考える。
サムタンははじめての仕事にちょっとした高揚を覚えつつ、ケーキを口に入れた。ドライフルーツの入ったそれは素朴な味で、城で出されたことはないのに、なぜだかなつかしく感じられた。
こうして人に褒められるのは、どのくらいぶりだろうかとサムタンは記憶を探る。誰かのために、なにかをするというのも久しぶりで、ちょっとしたよろこびに胸を包まれる。いつも僕は誰かになにかをされるばかりだった。働くというのはたのしいことだな。そういえばトリオローノは客として入ってこなかった。窓から厨房を覗いていたから、どこかから様子をうかがってはいるのだろうけれど。……いまは、どこにいるのだろう。
窓に顔を向けても、トリオローノの姿はなかった。働いている姿を見て、無事でやっていると知り、しばらく様子を見ようと考えてくれているのならいいが。
「どうしたの、サムタン」
「え?」
「窓の外ばかりを見ているから」
「ああ、……いや。不思議だなと思ったんだ」
「なにが?」
「なにもかもが、僕の知っている生活とは違う。それが、不思議なんだ」
なるほどねとシャルはうなずいた。
「でもこれが、私たちにとっての普通なの」
「うん。興味深い」
「いつかは私に伯爵の生活っていうものを、味わわせてくれる?」
冗談めかしたシャルに、サムタンは他意なく「シャルが望むなら」と答えた。
「その時は城に部屋を用意しよう。ここよりずっと退屈な生活で、すぐに飽きるだろうがな」
「私にとっては刺激的かもしれないわ。知らないことばかりでしょうから」
「僕がここでの生活をおもしろいと感じているようにか」
「2、3日もすればつまらないし不便だって思うかもしれないわよ。ここには豪華な食事もステキな洋服もないし、自分でできることは自分でしなくちゃいけないから」
「それがおもしろいんだ」
「珍しいと感じているうちだけよ」
そんな会話を交わしながらお茶をするのもたのしいものだと、サムタンは心でつぶやく。ここでは他人との距離がとても近いように感じられる。物理的ではなく、精神的に。島では、これほど誰かと対等に接したりはしない。それは僕が城主であるから、という立場的問題があるのかもしれないが、もしもそうならシャルの態度はどう説明をすればいい。彼女は僕が伯爵だと知っても、こうして近い距離で接してくれている。――どうして島ではこんなふうに過ごせないのか。
「ひと息ついたら、市場に行って買い物をするからね」
「市場?」
首をかしげたサムタンに、そういえば城には商人が出向いて品物を届けるんだっけと、シャルは思い出した。
「いろんなものが売っている場所よ。お金持ちの家とかには、商人が品物を届けに行くんだけれど、そうじゃない人のほとんどが、市場に欲しいものを買いに行くの」
そう説明をされても、サムタンにはピンとこない。それが顔に出ていたので、シャルは「行ってみればわかるわ」と説明を打ち切った。
「そこで食材を買って、仕込みをして、お昼ごはんを売るの」
「また、朝みたいな状態になるのか」
ワクワクするサムタンに、シャルはほほえんだ。
「似てるけど、ちょっと違うわ。客層がまず違うの。朝は働きに出る船乗りとか商人が多いけど、お昼は仕事を終えた漁師とか、職人とか……。あとは、商人が休憩をしに来たりもするわ」
「ふうん?」
それらの人々がどう違うのかが、サムタンにはわからない。けれどそれも、見てみればわかるだろう。
「さて。私は仕入れの準備をしてくるから、サムタンはゆっくりお茶をしていて」
「いや。僕にできることがあるなら、なにかしたい」
「そう? それじゃあ……」
シャルは周囲を見回して、仕事を見つけた。
「そこにまとめてあるものを、外のゴミ箱に入れておいてもらえるかな」
「外の、ゴミ箱……。僕が倒れていた箱か」
「そうそう、あの箱」
思い出して、シャルはプッと噴き出した。サムタンがけげんな顔をする。
「ごめんね。伯爵様がゴミ箱の横で行き倒れていた、って思ったらおかしくなって」
「おかしい、のか」
「ゴミ箱の横で倒れているのは、たいていが酔っ払いの労働者だもの。そもそも、伯爵が街にいるなんて珍しいんだし。すごい偶然だなぁって」
「ふむ……」
たしかに爵位を持った人間は珍しいなと、サムタンは考える。ここから近い貴族と言えば、対岸の街を収めているトゥルーカス侯爵か、陸路を5日ほど行った先に住んでいる、キシュリアク子爵だが、文のやり取りはしても対面はしていない。
「それにサムタンは、実在しない伯爵なんて言われているしね」
目をまるくしたサムタンに、シャルはクスクス笑いながらエプロンと髪を包んでいたスカーフを外した。ふわりと現れた豊かな茶色の髪に、サムタンの視線が動く。
「なに?」
「いや……。どうして僕は実在しないなんて言われているんだ?」
やわらかそうなシャルの髪に、触れてみたいと感じたなんて言えばどう思われるだろう。サムタンは理由のわからない衝動から目をそらした。
「誰も見たことがないからよ。お城に入った商人も、伯爵と対面はできないって言うし。だから伯爵は吸血鬼だなんて話も、まことしやかにささやかれるのね」
それは本当のことなんがな、とサムタンは苦笑した。ほがらかなシャルと、どこか湿っぽい夜の気配を漂わせる種族名とは相容れない気がする。彼女が僕を否定するのも無理はない。僕自身が、吸血鬼であることを厭(いと)っているから、そう感じるだけかもしれないが。
飢えのために好きでもないものを口にしなければならない苦痛を、どうにか取り除けないものか。それを理解してくれる者はひとりもいなかった。けれどシャルなら、その苦しみをわかってくれるのではないか。ふと、そんな考えがサムタンの意識をよぎる。
けれど彼女は吸血鬼の存在を信じていない。そんな彼女に目的の主軸を伝えることは難しそうだ。
「さ、はやく市場に行きましょう。いろいろなものがあるから、きっとおもしろいわよ」
そう言ってシャルは2階に上がっていった。残されたサムタンは麻袋にまとめられたゴミを持って、裏口から外へ出る。ゴミ箱にそれを入れようとして、サムタンはぎくりとした。白銀の毛におおわれた大きな獣が、じっと身を潜めてサムタンを見上げている。
「……トリオローノ」
「こんなところで、なにをしておいでなのですか。サムタン様」
大きな獣――白銀の毛を持つ狼の口から、低く響きのある男の声が流れ出た。
「見てのとおりだ。働いている」
狼の鼻にシワが寄った。
「そのようなこと、サムタン様がなさる行為ではございますまい」
「どうして僕がここにいるとわかったんだ」
フン、とトリオローノが鼻を鳴らす。
「狼の鼻をみくびらないでいただきたい」
「湖を介せば匂いが途切れるだろう」
「お姿を消された時間に商人の船が着ていた、となれば予測は簡単です」
「それで、港からここまで匂いをたどってきたわけか」
「戻りましょう、いますぐに」
トリオローノがサムタンのズボンの裾を噛んで引く。サムタンは首を振った。
「目的を達するまでは、帰らない」
「人は危険です。どんな扱いを受けるか……。まさか、もうすでに弱味を握られ、働かされているというのですか」
「シャルはそんなことをする人ではないさ」
「だまされているだけかもしれません」
「彼女は吸血鬼を信じていない。なにより、僕を伯爵と知ってもトリオローノが言っていたように、欲を示すこともなかった」
「ウソがなによりもうまいだけでは?」
「僕の目が信用ならないか」
「島の中しかご存じないでしょう」
「だからこそ、知ろうとしているんじゃないか。しばらくは放っておいてくれ」
「そうはいきません。サムタン様、いますぐ私とともに――」
「誰かいるの?」
裏口から手提げカゴを持ったシャルが現れる。トリオローノが身をかがめて、サムタンは彼がシャルに飛びかかれないよう、体をシャルに向かって開いた。
「ああ、シャル。なんでもない。その、ちょっと――」
「この犬を置いてもいいかと思ってね」
語尾を濁したサムタンの後で、トリオローノが声音をまねる。振り向いたサムタンを、トリオローノの薄青の瞳が見上げた。
「犬?」
シャルはサムタンの背後を覗いた。ヒヤヒヤとするサムタンをよそに、シャルはしゃがんでトリオローノに手のひらを見せた。
「おおきい犬ねぇ。白っていうより、銀色? すごくキレイな毛並み。……でも、どうして?」
トリオローノがしゃべったのだとは言い出せず、サムタンはあいまいな笑みを浮かべて言葉を探した。
「いや、その、なんだ……」
「ああ、わかった。自分とおなじだと思ったんでしょう」
おとなしいと思ったのか、シャルがトリオローノをなでながら言う。彼が狼男だと知っているサムタンはヒヤヒヤしながらうなずいた。
「ううん……。まあ、ちゃんと世話をするならいいかな。そうそう、サムタンのお給料のことも決めなきゃいけないし。そのへんの相談をしながら市場に行こうか」
「え……?」
「この犬を飼ってもいいけど、ちゃんと世話はしてねって言っているの。買い物ついでに首輪とかエサ皿とかも見ましょう。――そういえば犬の飼い方って、知ってる?」
「えっ。ああ、まあ……」
「この犬は城から僕についてきた犬だから、大丈夫だ」
また、トリオローノがサムタンの声音をまねた。
「わあ、そうなんだ。飼い主が大好きで追いかけてきたのなら、置いてあげないとね。名前は?」
「……トリオローノ」
しぶしぶ答えたサムタンは、トリオローノをにらんだ。
「トリオローノか。……これからよろしくね、トリオローノ」
シャルになでられるトリオローノの、しっかりと監視するぞと言いたげな視線にサムタンはため息をこぼした。
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