第2話 色の変わる瞳

 空の端でオレンジが藍色を押し上げるころ。


 パチリと目を開けたシャルはベッドから降りて、うーんと伸びをした。そのまま右に腕を倒して数秒。もとの姿勢に戻って、今度は左へ。


 しっかりと体を伸ばして着替えを済ませ、部屋を出たシャルは向かいの扉――両親の部屋を見つめた。


「おはよう、おとうさん、おかあさん」


 ちいさくつぶやいて「それと、サムタン」と、付け加える。この部屋にはいま、レムン伯爵が泊っている。


 実在していたんだなぁと、シャルは扉に手のひらを当てた。湖に浮かぶ島、リスタムンに住む吸血鬼伯爵。そう呼ばれている彼は、雪のように白い肌に赤い瞳の美麗な青年だった。


 存在は誰もが知っているけれど、誰も姿を見たことがない伯爵を、シャルは教会にいる神様のような、語り継がれているだけの、実在しない存在だと思っていた。商人が行き来するのは、島にある城で働く人々のためであり、城にいる人々は神官に似た役割をしていると考えていた。――つまり、伯爵というのは税金を集めるための“理由”あるいは“名目”であると。


 扉から手を離し、階段を下りて厨房へ入る。奥の井戸で顔を洗い、レンガ造りのかまどに火をおこして料理をはじめる。


 サムタンはなにを食べるのだろうと、シャルは昨夜のうちに仕込んでおいたスープ鍋を火にかけながら考えた。リクエストされても、自分にできる料理かどうかはわからない。彼は民の暮らしを知りたいと言っていたのだから、聞かなくてもかまわないのではないか。伯爵だからと特別に料理を作るのではなく、私たちとおなじものを食べてもらおう。でなければ、余計な手間が増えるだけだし、もてなしをするほど裕福なわけでもないから、納得をしてもらうしかないわね。


(うん。そうしよう)


 呼び捨てのまま、口調もざっくばらんなままでいいと言われたし、働くつもりでいる人を特別扱いするなんて妙な話だ。サムタンが伯爵であることは、忘れて接しよう。


 オーブンの具合を確かめ、寝かせておいたパン種をちぎっていると、足音が降りてきた。


「おはよう、シャル」


 現れたサムタンは、シャルの父親の服を着ていた。砂色のコットンパンツに、おなじ素材の白いシャツは、この界隈で生きる人々の作業服であり普段着でもあった。どこまでもシンプルで実用性を重視された格好のはずなのに、サムタンが着ると上等なものに見えた。ズボンの丈がすこし短いが、不格好ではない。すらりとした足首が見えているのが、不思議と上品に感じられる。おなじ服でも着る人によって価値が違って見えるのだなと、シャルは白いシャツに足首までの緑のチュニックワンピースという自分の姿を、鏡で確認したくなった。


「おはよう、サムタン。ぶかぶかだったり、きつかったりしていないみたいでよかったわ」


「着心地は悪くないよ。――それで、ええと……、僕はどうすればいいのかな」


「奥に井戸があるから、まずは顔を洗って。タオルはそばの棚に置いてあるわ」


「……井戸」


「そう。くみ上げじゃなくて、ポンプ式よ」


 昔はくみ上げ式だったものを、シャルがひとりで店を切り盛りすると決めたときに、常連客がすこしずつ施工費を出してポンプ式にしてくれた。そうでなければ細腕がすぐに音を上げるだろう。そんな言葉に恐縮しながら好意を受け取ったシャルは、井戸を見るたび感謝を浮かべ、気を引き締めて料理にかかる。


 伯爵であるサムタンは、力仕事などしたことがないだろう。ポンプ式の井戸なら彼でも扱えるはずだと、シャルは彼を奥へとうながした。サムタンは優美な足取りで奥へと入り、すぐに厨房へ戻ってくる。


「あれを、どうすればいいのかな」


「えっ」


「見たことはあるのだが、触るのははじめてだ」


「それじゃあ、朝の身支度はどうしていたの?」


「従僕が水を張ったタライを部屋に運んでくる」


「部屋にタライを運ばれるなんて、病人以外でされている人はいないわ」


「でも、僕はそうだった」


 ふうっと息を吐いて、パン種をオーブンに入れてから、シャルはサムタンの横をすり抜け奥へ入った。


「いい? ハンドルをこうして上下に動かすの。そうして、この桶に水を入れるのよ」


 見本を見せると、興味深そうにサムタンが目を輝かせる。ほんとうにサムタンは使い方を知らなかったのね。これからは子どもよりもずっと、物を知らない人だと思って教えてあげなくちゃ。


 ポンプの口から水が出るのを、サムタンは物珍しくながめた。城にこれがあるのは知っていたが、誰かが使っているところを見るのははじめてだ。なるほど、こうやって使うのかと、サムタンはシャルの握っているハンドルを掴んで上下に動かした。


 水がどんどんあふれ出て、下にある桶にたまっていく。けれどある地点までくると、水は桶の横に空けてある穴から外へと流れていった。


「どうして外へ水を逃がすんだ?」


「でないと、床が水浸しになってしまうからよ」


 ふうむ、とサムタンはハンドルから手を離した。


「顔を洗ったら桶の水を捨てて、このバケツに半分くらい水を入れておいて」


「なにをするんだ」


「お店の掃除をするのよ」


「この桶じゃダメなのか」


「顔を洗う桶に、モップや雑巾をつけたくないわ」


 はい、とバケツをサムタンに渡したシャルは、あれっと首をかしげた。


「サムタンの瞳……、真っ赤だと思ったのに紫なのね」


 ギクリとサムタンが身をこわばらせる。シャルはまじまじとサムタンの瞳を見つめて、にこっとした。


「光の加減で色が変わって見えるなんて、素敵ね」


 光のあたる角度や影の差し込み具合によって、物の色味が違って見えることはある。サムタンの瞳が昨夜は赤、いまは紫に見えるのも、ランプと朝日の光が違うせいだろう。


「それじゃあ、水を入れたら教えてね」


 くるりと厨房に戻ったシャルの背中に、サムタンは安堵の息を投げかけた。瞳の色について、勝手に納得をしてくれてよかった。変化の理由を問われても、とっさにうまいごまかしはできなかっただろう。


(シャルには、僕が吸血鬼であると知られないでいたい)


 存在を信じていない彼女に納得をさせるのは大変そうだし、吸血鬼として扱われたくもない。吸血をしないで生きていける方法を求めて、僕は街にやってきたのだから。


 瞳の色の変化は、空腹か否かが関係していた。シャルにふるまわれた夕食で、腹はくちくなっていた。けれど吸血鬼としての飢えがあった。島を出る前に、いつもよりもすこし多めにケンタウロスのアクタイオンから血をもらった。夕方まではなんとかなったが、日が落ちてから空腹でめまいを覚え、おいしそうな匂いにつられてふらふらと路地を進み、倒れてしまったのだ。


 空腹が強くなると瞳は赤くなり、満たされていると紫に変化する。その紫も青味がかったものになればなるほど充足している証拠となり、完全な青色になれば血を欲しなくとも生きていける。――そうなるためには、愛を知らなければならない。


 昨夜、サムタンは部屋に入ってすぐに、窓を開けて黒猫の姿となり、飢えを満たすための外出をした。人の血を求めるのは気が引ける。ちいさな獣ではミイラにしてしまう。大型の獣で、若く健康なものでなければ。


 そう思いながら空きっ腹を抱えて屋根上を走ったサムタンは、若い荷馬のいる厩舎へたどり着いた。どの馬も力仕事を生業にするにふさわしい、筋骨のひきしまった健康な馬だった。しかし、ケンタウロスほど頑丈ではないはずだし、彼らの仕事に支障をきたしては申し訳ないと、サムタンはその中でもとくに生命力の強い3頭を選び、すこしずつ血を分けてもらった。


 とりあえず、夜までなんとか過ごせる量だけ――。


 強い生命力が放つ濃厚な血の香りにむせながら、サムタンは馬たちに礼を言って部屋に戻り、ベッドに入った。瞳の色が違うとシャルに言われるまで、そのことをすっかり忘れていた。


 夜になればまた飢えて、瞳が赤になってしまう。彼女はふたたび瞳の色が違うと言うだろうか。そしてその理由を問われたら、どう答えよう。


 考えながら顔を洗ったサムタンは、バケツに水を汲もうとして視線に気づいた。とがめる気配のあるそれに、ギクリとする。窓を見れば予想どおりの顔があり、サムタンはぎこちなくほほえんだ。


「……トリオローノ」


 もう見つかってしまったのかと、サムタンは嘆息した。厨房に視線を投げてから、窓に向かって首を振る。帰らない、と示したサムタンに、トリオローノは眼光を鋭くした。それを無視して、サムタンはバケツに水を入れる。


 乗り込んできたりはしないだろうと思いつつ、内心はヒヤヒヤしながら厨房のシャルに声をかけた。


「水は、このくらいでかまわないか」


 片手でバケツを提げているサムタンに、シャルはちょっとおどろいた。上背はあるが華奢きゃしゃに見えるサムタンは、見た目よりも力持ちなのかと感心する。私は両手でもちょっと重いのに、すごく軽々と持ち上げているわ。


「重たくないの?」


「シャルは、これが重いのか」


「ええ。ちょっとだけ」


「へえ?」


 ひょいと肩までバケツを持ち上げてみたサムタンは、これのどこが重いのだろうと考えた。――ああ、そうだ。人間は僕たちとは違って、あまり力がないんだった。それにシャルは女性だ。ハルピュイアのヤナも、重いものを掴んで飛ぶのは苦手だったな。彼女は半分が鳥だから、それほど力がないのだと思っていたけれど、男のイオセフはヤナが運べないものでも、軽々と塔の上まで運んでいた。女性のシャルにとっては、これは重いものなのか。


「これからは、重いと感じるものは僕が運ぶから。遠慮なく言ってくれ」


 たのもしいサムタンの言葉に、シャルは「ありがとう」と言って食堂に指先を向けた。


「お店をキレイに掃除したいのだけど、掃除なんてしたことないでしょう。とりあえずバケツをあっちに運んだら戻ってきて」


「わかった」


 厨房は、パンの焼ける香りやスープの匂いに包まれていて、サムタンの人間的な部分の空腹が刺激される。食堂は6人掛けの丸テーブルが3つあった。厨房と食堂を隔てている壁には窓があり、その真下に棚がしつらえられている。出窓のようだと、サムタンは思った。食堂から見れば、厨房は外の景色というところか。窓からは厨房の様子がよく見えた。


 バケツを置いたサムタンが戻ると、シャルが焼き立てのパンを皿に乗せて差し出した。


「朝ごはん。テーブルに並べて」


 言いながらシャルはスープを椀に入れた。サムタンは彼女に渡された皿や椀、スプーンやフォークをテーブルに運ぶ。


「あとはもういいから、座ってて」


「手伝うことが、まだありそうだ」


 てきぱきと動くシャルにサムタンが言うと、大丈夫よと調理する背中越しに返事がきた。忙しく立ち働くシャルを見ながら、なにかできそうなことはないかと考えてみるも、厨房に入るのは昨夜といまで2度目のサムタンにわかるわけがない。言われたとおりに座っているほかはなさそうだ。


 落ち着かない気持ちのままイスに腰かけて、サムタンはシャルをながめた。彼女はたのしそうに、くるくると動いている。まるでダンスをしているみたいだと、サムタンの唇はほころんだ。


 ポットを持ったシャルがテーブルにつく。


「いつもは作りながら食べるのだけど、せっかく相手がいるんだから、ちゃんと座って食べたくって」


 軽く肩をすくめたシャルに、サムタンは目をまたたかせた。


「作りながら食べるって……、あんなにくるくると動きながら、食事ができるのか」


「慣れると、なんてことないわよ。行儀がいいとは言えないけれど」


「それじゃあ、僕もそうなれるように努力しよう」


 サムタンは眉をキリリと引き締めた。なにも知らない僕に、シャルは合わせてくれている。はやく庶民の生活に慣れるよう、シャルのやり方を覚えなければ。


 背筋を伸ばしたサムタンに、シャルはクスクス笑いながら首を振った。


「いいのよ、そこは努力しなくても。それよりも、掃除を覚えてくれたほうがうれしいわ。そうしたら、私は料理に専念できるし、ゆっくりと朝ごはんを食べる時間ができるもの。ひとりだと時間がないから、料理をしながら食べていたってだけなの」


「それじゃあ、こうして僕と食卓を囲んでいたら、時間がたりなくなるんじゃないか」


 不安を浮かべるサムタンに、大丈夫よとシャルは軽く言った。


「いつもより、はやく起きたから。いっしょに食事ができる人がいるのに、食卓を囲まないなんてもったいないもの」


 自分の言葉に、シャルはさみしさを思い出した。唐突に両親がいなくなってから、シャルはいつもひとりで食事をしてきた。いつも、というのは言いすぎだ。ときどきは友人や世話を焼きに来てくれる誰かと食事をすることもある。けれど、日常的に誰かと、当たり前のように食事をする、ということはなくなってしまった。


 ひとりで食事をするむなしさに慣れたと思っていたシャルは、昨夜サムタンと夕食を共にしたとき、そうではなかったのだと知った。心のどこかで、誰かとの食卓を望んでいた自分に気づき、それもあってサムタンに泊らないかと提案したのだった。


「シャル?」


 泣き出すのではないかと、サムタンはシャルを見つめた。緑の瞳は雨を受けた若葉のように湿り、いまにもしずくを落としそうだ。


 気遣う声に、シャルはことさら元気に胸を張った。


「さあ、食事にしましょ! しっかり食べて、開店準備をしなくっちゃ」


 どうしてシャルは、そんなに気負った笑顔をしているのか。気になって問おうとしたサムタンの前に、パンが突き出される。


「ほら、焼き立てよ。食べ終わったら、掃除のしかたを教えるから、しっかり覚えて働いてね。それが終わったら、開店したらなにをするのか手順を覚えてもらうわよ」


「シャルはなぜ、泣きそうになっているんだ」


 ごまかしたはずが正面から問われて、シャルは真っ赤になった。


「泣きそうになんて、なっていないわ」


「だが、緑の瞳がたっぷりと濡れているし、傷ついた顔をしている」


「気のせいよ」


「そうだろうか」


「そんなことより、サムタンは仕事を覚えることに集中して」


 食い下がろうとしたサムタンは、外からの視線に口をつぐんだ。シャルの肩ごしに窓を見れば、トリオローノの顔がある。開店をしたら客として入ってくるつもりなのか。もしもそうなら、働いている姿を連れ戻されないための説得の材料にしなければ。


「わかった」


 引き下がったサムタンに、シャルはホッとした。伯爵という人種は、人の気持ちの機微を察するなんてしたことがないのだろう。だから私がごまかそうとしても、そこに気がつかなかったのね。


 ちょっと言い方が偉そうだったかなと、シャルはパンをひと口大にちぎりながらサムタンを見た。仕事を覚えることに集中して、なんて高圧的だったかも。


 サムタンの視線が自分を通り過ぎていると気づいて、シャルは振り返った。なにか気になるものでもあるのかしら。


 シャルの視線が行く前に、トリオローノは姿を隠した。人間から身を隠すようにと、耳が痛くなるほど言っていたトリオローノは、どういう方法で僕を連れ戻すつもりなのか。シャルに迷惑がかからなければいいが。


 顔を戻したシャルは、案じ顔でスープに口をつけるサムタンを見て、やっぱり言葉づかいが悪かったかもと反省した。いちおう私は雇い主ってことになるけど、サムタンは伯爵なんだものね。


 まったく別の考えにとらわれながら、ふたりは温かな朝食を腹に収めた。

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