氷点下の日だまり

西條寺 サイ

第1話

 萩が茂った庭のどこかで猫の泣き声がする。

 「レオーおいでー」

 縁側に腰かけた家の主は身を屈めて生垣の根元辺りに声をかける。

 次の瞬間、足音もなく白い猫が駆け寄ってきた。

 「懐いてんなー」

 猫を膝に抱きあげた男の腕を覗き込みながら大柄な男は缶ビールを4本、縁側に置いた。

 「最近やっと毎日帰ってくるようになったんですよ。ふらっといなくなって、また知らん顔で戻ってきて……やりたいことだけできて、お前はいいなぁ」

 「猫ってそんなもんだろ」

 「まぁそうなんですけど」

 猫は主人の膝の上で丸くなった。ここで寝ると決めたらしい。

 「やぶ医者は?」

 「何かつまみになる物買ってから来るってさっき電話ありました」

 そうか。家の主より年長に見える大柄な男は縁側に腰かけてぼんやりと庭を眺める。かつての師弟の間には、言葉を必要としない、穏やかな沈黙が流れた。

 膝の上で喉を鳴らす猫の首を優しく掻いてやりながら、家の主は物思いに沈んだような傍らの男に目をやった。

 「今、何してますかね?」

 「……相変わらず、好き勝手してるだろ」

 夕暮れの庭を吹き抜ける風は心地よく、夏を過ぎてから忘れ去られていた風鈴を微かに揺らした。再び黙りこんだ二人は、思い出したように、同時に軒先を見上げる。

 いつからこの家にあったものだったか。初めて見た時は、何の変哲もない、青と水色の波紋が描かれた風鈴だった。そこにいつの間にか白い猫が描きたされていた。

 「何?もうしんみりしてんのか?」

 早くないか?そう言って部屋に入ってきた男は片手にビニール袋を提げていた。

 「おせーよ。腹減った」

 大柄な男は立ち上がると買い物袋を受け取って立ったまま中を漁る。

 「前はずっと自炊だっただろ?戻って来た時くらいなんか作れよ」

 「勤務医は忙しんだよ」

 「すみません、俺が買い物行けばよかったのに」

 「いいって。お前だって店の方忙しんだろ?雑誌にお前の記事が出てたって、うちの看護婦が言ってだぞ。そのうえこんなおんぼろ一軒家に住んでメンテまでしてくれてんだから」

 「住むとこも店も家賃かからないから俺の方が助かってますよ」

 年少の主は猫を縁側におろすと立ち上がってキッチンに向った。

 「都内の大学病院って忙しいのか?」

 「忙しいなんてもんじゃねぇよ。すげぇ激務だ……」

 二人は猫を挟んで縁側に座り込んだ。

 男の甥は数年前、弟子に店を譲り、自らは一度諦めた医学の道へ進んだ。最初はどうなるかと心配もしたが、研修を終え、地方の病院から戻ってきた甥はそれなりに成長を遂げていたようで、安心した。いずれ祖祖父が開業した病院も彼に継がせることができるようになるかも知れない。

 「尚矢なおや、どうした?」

 その声に、無言で猫の背を撫でていた男も顔を上げる。

 すみません、と言いながら尚矢は白い皿を手に戻ってきた。

 「お前のこれな」

 猫の傍に皿を置くと、尚矢もその場に加わった。すぐに皿に舐め始めた猫の頭を軽く撫でる。

「レオも銘柄指定なんですよ」

「牛乳に銘柄なんかあるのか?」

「特濃が好きみたいで。安売りのとか買ってくると何か不満そうな顔する気がして」

「ほんとかよ」

 三人は笑いながらそれぞれ缶を手にした。尚矢は銘柄の異なるビールを2本開け、一本を縁側に置く。

「よし、それじゃ、カンパイだ」

「乾杯」

「カンパイ」

 3人は思い思いの姿勢で寛ぎながら、他愛もない会話を飽きることなく続けた。

 やがて牛乳を飲み終え、人にかまわれることにも飽きたのか、猫は顔を舐めると伸びをして庭に下りた。

 気の向くままに庭を横切って垣根の方に姿を消した猫に、誰かが、またな、と声をかけた。

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