弁当箱
千里温男
第1話
ぼくはもともと近視だった。
それが小学5年の頃には、0.1もない視力になってしまった。
視力検査表の一番上の大きな記号や文字さえはっきり見分けることができない。
それどころか、検査表そのものがろくに見えない。
小学校の身体検査の時には視力検査もあって、順番を待っているたくさんの同級生たちの前で検査を受けなければならない。
「あんな大きな字が見えないのか」と言う、みんなの嘲笑うような囁き合う声が聞こえて来る。
視力検査を終えて、屈辱と孤独にやりきれない気持ちで独り廊下を歩いていると、すぐ後ろから誰かがついて来る。
振り返ると、隣のクラスの信之くんだった。
人のよさそうなふっくらとした丸い顔をしていた。
そんなに強度の近視だったのは、学校中でぼくと彼だけだった。
だから、ぼくに親近感をもったのだと思う。
目が悪いのはぼくだけではないとわかっても、少しも慰めにも励ましにもならなかったし、愚鈍そうな彼が頼りになるとは思えなかった。
かえって、離れずについて来る彼が鬱陶しかった。
ひとりでいる方がよかった。
彼を無視してどんどん歩いた。
ぼくは、自分の視力を悲しんで、彼の気持ちを思いやることなど少しもできなかったのである。
先生に勧められて、母がメガネを買ってくれた。
メガネをかけると、遠くからでも、ひとりひとりの顔を見分けることができた。
離れた所の木の葉が一枚一枚見えて驚いた。
夜空の星々が、一気に数を増して、それこそ降るように見えて簡単した。
それはすばらしかったけれども、家族をはじめ、人々の眼が睨みつけるようにくっきり見えて怖かった。
それに、メガネをかけることは目が悪いことを、学校だけでなく、町中の人たちに知られることでもあったので、それもいやだった。
教室で先生にかけるように言われた時だけかけて、それ以外はほとんどかけなかった。
視力検査は毎年、春と秋の2回あり、裸眼の検査もあるので、やっぱり憂鬱だった。
せっぱつまればできるものらしくで、順番を待っている間に、メガネをかけて検査表の上から2段目までの記号や文字を覚えることができた。
前の人が検査を受けているのに合わせて、メガネをはずして、うまく見えるふりができるかどうかこっそり試してみた。
ところが、検査表の記号や文字を指す棒の先がはっきり見えなかったのである。
検査を終えて、またも暗がりを探すようにして独り廊下を歩いていると、やはり信之くんが後ろからそっとついて来るのであった。
相変わらず、人のよさそうなふっくらとした丸い顔をしていた。
その頃には、彼はメガネを常用していた。
「メガネをかけた方がいいよ」
ぼくには彼の忠告に返事をする心の余裕が無かった。
かえって腹立たしくなって、何も言わずにどんどん歩いた。
それでも、彼に誘われて、たまに一緒に遊んだことはあった。
ぼくたちの家は100メートルくらいしか離れていなかったし、同じ引け目をもった者同士だったのだから、もっと一緒に遊んでもよかったはずだ。
ぼくたちが友だちになれなかったのはなぜだろう。
ぼくに孤独癖があったことは確かだ。
そして、彼の純朴さを愚鈍と思い違いしていたことも確かだ。
今更だけど、まさかとは思うけれど、
もしかして、近寄らなければ彼を認識できなかったのが原因だったとしたら……
もしちゃんとメガネをかけていたら……
中学も一緒だったのに、一度も学校で彼に気付いたことが無い。
毎日、彼の家の前を通って通学していたのに、彼を見かけた記憶が無い。
やがて、ぼくは高校生になりメガネを常用するようになった。
その朝はクラブ活動のため、いつもより早く家を出た。
信之くんの家の前まで来ると、ちょうど彼が自転車に乗って出て来るところだった。
「乗せて行ってあげるよ」
「いいよ。急いでいないから」
「遠慮しないで乗ってよ」
彼の態度も言葉遣いも、昔なじみの友だちに対するもののように思えた。
戸惑いはしたものの、嬉しく思わないでもなかった。
久しぶりに会った懐かしさもあった。
「それじゃあ…」
ぼくは後ろの荷台にまたがった。
その瞬間、はっとした。
尻の下に平たいものがへこむのを感じた、弁当箱だと直感した。
メガネをかけていたのに、なぜ荷台の弁当箱が見えなかったのだろう。
降りなければと思ったのに、なぜか行動が伴わなかった。
彼が弁当箱のことを知らないはずはなく、そのうえで、ぼくを誘ったのだという思いもあった。
「ここでいいよ」と言って、やっと飛び降りたのは十数メートルも走ってからだった。
弁当箱は潰れていたに違いない。
信之くんはどんな思いで弁当を食べたことだろう、いや食べなかったかも知れない。
彼は、怒りをもって、あの弁当箱を捨ててしまったかも知れない。
あんなことをしなければよかったと思うことが幾つかある。
あれは、その最たるものだ。
ぼくは、弁当箱と共に、もっとかけがえのないものを潰してしまったのに違いない。
いつか彼にあやまらなければならないと思っている。
しかし、心に思うだけで、まだ実行はしていない。
いつまでも心の重荷になることだろう。
(おわり
*
「うみ」さんの
『落ちをどーんと落としてくれたほうがよかったかもです。』を受けて、
最後の2行を下のように書き換えようかしら??
*
あやまった時、信之くんは意外に冗談がきつくて、
「まいったよ、臭くてね」と答えるかも知れない。
そうしたら、ぼくは
「うん、ごめんね」と言おうか、それとも
「へー」と言おうか…
弁当箱 千里温男 @itsme
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