君と僕とスカラヴァールカ

大竹久和

第一幕


 第一幕



周囲を取り巻くのは清潔で頑丈なコンクリートとガラスとアルミニウムばかりの、広壮な建築物。その一角にズラリと等間隔で並べられた椅子の一つに、まだ思春期真っ盛りの年頃の痩せた眼鏡の少年は、荷物でパンパンに膨らんだデイパックを膝の上に乗せたまま深く腰を下ろしていた。

 不意にごうと言う轟音と共に壁がビリビリと揺れたので、そちらに眼を遣れば、カーキ色に塗られた軍用機と思われる輸送機が滑走路から離陸して行くのが厚い強化ガラス越しに見える。すると少年は椅子から立ち上がり、滑走路の方角を向いたガラス張りの壁へと歩み寄ると、次第に遠退きつつある鋼鉄で出来た鳥を眼で追い続けた。

「次は、タツキ。イダ・タツキ」

 少年の背後から聞こえるのは、彼の名を呼ぶ声。

「タツキ、おい、タツキ。呼ばれてるぞ」

「あ、はい。父さん」

 背後へと向き直った少年は、急いで彼の名を呼んだ大柄な黒人の男と、その傍らの椅子に腰掛ける白髪髭の中年の男の元へと駆け寄った。少年の名を呼んだ大柄な黒人の男は、デジタル迷彩服カモフスーツと防弾のボディアーマーに身を包んだ軍人で、頭には各種のスコープ類が搭載された多目的ヘルメットを被り、肩からは弾倉マガジンが抜かれたアサルトライフルをスリングで吊り下げている。最前線の重装歩兵ほどではないが、それなりの装備を与えられた、後方支援部隊と言ったところだろうか。

 そして軍人の男は手に持ったタブレット端末に表示された名簿を確認しながら、少年に向けて問いかける。

「イダ・タツキだね。身分を証明出来るものは持っているか? それとP《パーソナル》ウェアの認証があるのなら、それも提示しなさい」

「あ、はい。これです」

 イダ・タツキと呼ばれたアジア人の少年は、デイパックのポケットから取り出した日本国のパスポートと、ズボンのポケットから取り出した携帯端末であるPウェアの認証画面を軍人の男へと提示する。その内容を一通り確認した後に、軍人の男は手にしたタブレット端末の名簿のタツキの名前にチェックマークを入れると、首から下げるストラップが付属した薄いプラスチック製の搭乗許可証を彼に渡した。

「輸送機に乗る際にはそれが必要になるから、常に首から下げて、失くしたりしないように。いいね?」

 軍人の男はそう言うと、タツキの元を離れて、タブレット端末の名簿に記載された次の人物を探し始める。その言動には一切の無駄が無く、無愛想で、良い意味でも悪い意味でもいかにも軍人然としていた。一方でタツキは言われた通りにストラップで搭乗許可証を首から下げると、彼よりも一足先に搭乗許可証を渡されていた白髪髭の中年男性の隣の椅子に腰を下ろし、少しばかり不安げな表情で男の顔を見上げる。

「父さん、僕達が乗る飛行機は、まだ来ていないのかな?」

「そうだな」

 タツキが父と呼んだ白髪髭の中年男性の名は、イダ・タツヨシ。彼はぶっきらぼうにそう言うと、息子の方を振り向く事も無く、眼前の柱に固定された大型液晶画面に映るネットワークTVのニュース映像を凝視していた。そして画面に集中しながら、自身の右手親指の爪を、まるで行儀の悪い子供の様にガジガジと噛み続ける。この指の爪を噛むのは彼が思い悩んでいる時に無意識に行なう癖であり、息子のタツキは、それをあまり快く思ってはいなかった。

 ともあれ、兎にも角にも搭乗許可証を手に入れた事でひとまず安堵したタツキは、改めて自身の周囲を見渡す。

 今現在の彼が椅子に腰掛けているこの場所は、中央アジアのカザフスタン共和国の首都アスタナに在する、アスタナ国際空港の搭乗待合室。タツキの周囲に並んだ数百脚の椅子の大半は大きな手荷物を抱えた老若男女によって埋め尽くされ、それらの人々は皆一様に、暗く沈んだ、狼狽の色が隠せない表情をその顔に浮かべていた。だが彼らの陰鬱さとは対照的に、空港の建屋自体はとても広々としていて清潔で、両者のギャップは如何ともし難い。

 今世紀の初頭に日本人の建築家によって設計されたらしいこの中規模な空港は、数度の改修工事を経ながらも、基本的な外観はそれほど変わってはいない。建物の中央部は特徴的な半円形の青いドームに覆われ、壁面の多くには強化ガラスが配されており、壁際へと寄れば戸外の風景が遥か遠くまで一望出来た。そして搭乗待合室から滑走路側を見遣れば、数機の軍用機と思しき輸送機や戦闘機、それに各種の多目的ヘリ等が眼に止まる。しかし軍用機の数に反して民間の航空機は一機も見当たらずに、全体としてはひどく閑散としていた。また滑走路とは反対側のエントランス方面へと眼を遣れば、空港の出入り口前ではプラカードを掲げた数百人から一千人程度の市民達によるデモ隊が居並ぶ軍人達と睨み合い、時折小競り合いを起こす怒号がここまでも聞こえて来る。

 デモ隊の持っているプラカードに描かれている文言は、「我々も国外退去させよ」「カザフスタン人にも人権を」「打倒アリハノフ政権」等々の、現状への政治的不満を訴えるものばかりだ。そして軍用車輌と有刺鉄線でバリケードを組み上げ、空港に押し入ろうとするデモ隊を阻止しているのは、重装備に身を固めた軍人達。だが彼らの装備は先程タツキに搭乗許可証を手渡した軍人のそれとは全くその意匠が異なっており、それぞれが別々の軍事組織に属している事を、暗に知らしめていた。

「まずいな……このままでは、本当にまずいな……」

 不意に隣の椅子に腰掛ける父が口を開いたので、タツキはそちらを見遣る。しかし父の発した言葉は只の独り言であり、それはどうやら、眼前の液晶画面に映るニュース映像に対する感想らしい。

 そこでタツキもまた、液晶画面へと眼を向けた。するとネットワークTVの画面上では、国際政治関連の最新ニュースが次々と、絶え間無く映し出されている。そしてその主たる内容は、当然の事ながら今現在世界を震撼させている、地球圏を二分した大規模な全面戦争に関するものばかりだった。

 つい半年ばかり以前に、トルコ共和国で行なわれた国体を決する国民投票の結果をその発端として、永らく対立していた二つの政治圏が冷戦を終えた。そしてその二大勢力である新自由主義国家連合と新生ソヴィエト連邦とは、互いに宣戦を布告し、本格的な戦闘状態へと移行するに至った。

 旧国連をその母体とした新自連と、かつての共産圏と発展途上国が政治的に共闘する形で構成された、新ソ連。二者の軍事力は拮抗しており、開戦から間も無く半年が経過しようとする現在も尚、一進一退の攻防戦が地球圏の各所で繰り広げられている。またそれら両者の戦闘は最前線フロントラインのみに限らず、複雑に絡み合った政治的策謀が後方の各所においても繰り広げられ、新自連と新ソ連、双方の有する走狗達が政治的にも軍事的にも奔走していた。

 だが母国である日本から遠く離れたカザフスタンの地に父と共に移り住み、地元のインターナショナルスクールと自宅の往復だけが生活の全てでしかない若干十八歳のタツキにとっては、そんな政治的な話は全くと言っていいほど理解出来ない事でしかなかった。いやむしろ彼は、大局的な事象を積極的に理解しようとしない事によって自身の平穏な生活を守ろうとする、矮小な一市民と言った方が正しいのかもしれない。

 たとえどれほどの大事であろうとも、眼を瞑り、耳を塞ぎ、只々災厄が通り過ぎてくれる事を期待しながらジッと耐え忍べば、自身のパーソナルエリアは侵されずに済むと考える。それこそが、タツキのこれまでの生き方だったのだ。もっともその信条は、今現在の彼がこの空港に強制的に参集させられた事によって、脆くも崩れ去ってしまっていたのだが。

 そう、彼がこの場所に集められたのは、決して彼の本意ではない。

 膝の上に乗せたデイパックを、改めてギュッと抱き締めながら、タツキは深い溜息を吐いた。この場に持ち寄った彼の唯一の手荷物が、このデイパック一つだけである。その中には貴重品を中心とした、とりあえず手近にあった物を容量の限界まで手当たり次第に詰め込んであり、風船の様にパンパンに膨らんでいた。突然の国外退去命令に、準備出来たのがこれだけだったのだが、今になって思えばもっと持ち出すべき物があった筈だと後悔の念ばかりが押し寄せて来る。しかしもはや彼には、アスタナ市街の自宅に戻る手段は残されてはいない。

 タツキがそんな事を考えていると、不意に眼前の液晶画面に映るネットワークTVの画像が切り替わった。そこに今しがたまで映し出されていたのは、国際報道局によるグローバルニュースの、開戦初期に新ソ連軍が未成年の学生の乗った避難船への攻撃を行った事に対する非難決議が全会一致で採択された瞬間の中継画像。それが一旦ローカル局のスタジオの画像に切り替わると、地元カザフスタンの人間と思しきニュースキャスターが、ここからは国内のローカルニュースを伝える旨を述べた。

 そして画面に大写しにされたのは、まさに今現在タツキが腰を据えている、アスタナ国際空港の外観を捉えた映像。更にカメラが切り替わると、空港前で小競り合いを繰り広げているデモ隊と軍人との中継映像が映し出された。

 その中継映像を背景に、ニュースキャスターは、音声のみで伝える。曰く、国境線での熾烈な攻防戦の敗退により、現政権の指導者であるアリハノフ大統領が、誠に遺憾ながら昨日をもってカザフスタン共和国が新ソ連に与する事を決定した事を。曰く、それに伴って新自連側の国籍を有する外国人がアスタナ国際空港に集められ、新自連の用意した輸送機により、隣国ウクライナに強制退去させられる旨が急遽決定された事を。曰く、これを受けて国外への避難を求める市民が空港に殺到したが、新ソ連当局がカザフスタン人の空港使用を許可しなかったために、市民によるデモ隊と新ソ連側の軍人とが空港前で衝突している事を。

 そして再び画面はスタジオに切り替わり、ニュースキャスターが主に戦禍による混乱を中心としたローカルニュースを伝え続けたが、タツキは特に興味無さげに再び滑走路の方角へと視線を向ける。すると一機の大きな航空機が、滑走路へと滑り込んで来ると、やがてゆっくりとその動きを止めた。それと同時に、先程タツキに搭乗許可証を手渡した軍人が、タブレット端末の拡声器機能を利用して、待合室に集合していた人々に向けて呼びかける。

「只今、皆さんをウクライナに避難させる輸送機が到着しました。D54からG63までの番号が振られた搭乗許可証を渡された方々は、私の後について滑走路へと移動し、輸送機に搭乗してください。輸送機の座席ですが、人数に余裕は無いので、奥まで詰めて空席は作らないように。特に座席の指定はしませんので、家族で集まって乗っていただいて結構です。それでは移動しますが、決して混乱の無いよう、よろしくお願いします」

 軍人がそう言い終えると同時に、タツキと彼の父も含めた、待合室に居た人々の半分ばかりがぞろぞろと席を立って歩き始める。彼らが首から下げた搭乗許可証にはそれぞれの国籍を証明する国旗がプリントされており、それらによるとアメリカ、カナダ、ドイツ、イギリス、スペイン、台湾、そしてタツキの日本など、新自連に属する国家である点を除けば、その人種も国籍もバラバラだった。

「これより、階段から滑走路へと下ります。決して急いで転倒などしないように、気をつけてください」

 そう言って先導する軍人に続いて、タツキも含めた避難民達は、タラップから滑走路へと降り立った。まだ時刻は午前中なので、浅い角度で差し込んで来る陽射しが、滑走路に降り立つ全ての存在の影を長く薄く引き延ばす。これが民間の航空会社であれば、旅客機の傍まで運んでくれる送迎バスを手配してもくれるのだろうが、今は緊急事態であるのと同時に軍隊はサービス業ではない。なのでタツキ達は、滑走路の端で旋回行動を取っている輸送機までの結構な距離を、徒歩で移動させられる。

 やがて一歩一歩近付くに連れて、次第にその姿が鮮明になる輸送機。軍用機らしく迷彩色で塗られたそれは、遠くから眺めていた時の印象以上に大きく、堂々とした威容を誇る。タツキは当初、輸送機のお尻側が開いて、そこから乗り込むのだろうと思っていた。だが意外にも機首側が開いてその内部を露にさせたので、彼は少しばかり驚く。そしてその寸胴な機体のシルエットと、バックリと開いた機首が、なんだか口を大きく開けた巨大な鯨を連想させた。

 ともあれタツキは、父と共にその巨大な鯨の口から胴体の中へと足を踏み入れると、そこにズラリと並べられた座席の一つに腰を下ろす。座席はそれほど大きくはないと同時に、クッションも薄く、快適さを売り物にした民間の旅客機とは程遠い、いかにも事務的に人間を運ぶだけと言う印象を与えた。

 軍事関連にはまるで疎いタツキには知りようも無い事だったが、この輸送機は前世紀から百年以上に渡って改修を加えながら運用され続けている、その筋では「ギャラクシー」の通称で知られたC-5型超大型長距離輸送機。その中でもこれは人員輸送に特化されたカスタム機であり、もはや骨董品と言ってもよい年代物である。

 そんな時代遅れの代物が送り込まれて来るような不始末が証明するのは、最新鋭の輸送機をこんな中央アジアの田舎にまで派遣するだけの余裕が、今の新自連には既に残されていないと言う事実に他ならない。だがそんな事を知るべくも無いタツキは、出来れば噂の新技術を利用した浮遊艦に乗ってみたかったななどと呑気に考えながら、狭い座席の中で出来るだけ快適な体勢を取ろうと尻の位置を調整していた。

 やがて機内に納まったのは、およそ二百人程度の避難民である民間人と、その先導と護衛を任された十名程度の軍人達。

「皆さん、席に着きましたね? それではしっかりと、シートベルトを締めてください。当機は間も無く離陸します」

 再び軍人がそう言うと、ゆっくりと輸送機の機首が閉じ始めた。言われた通りにシートベルトを堅く締めながら、タツキは隣に座る父に問う。

「父さん、僕達、またここに帰って来れるのかな?」

「……さあな、それは父さんにも、分からん。とにかく油田が無事でない事には、会社も撤退しなければならない事になるだろう。それに仮に油田が無事であったとしても、新ソ連の連中がそうそう簡単に手放す筈が無いだろうし……。このままでは損害が一体どれ程になるのか、全く想像も出来ない……。場合によっては、今期の収益が全て飛ぶ可能性もある……。それにバイコヌールも既に接収されたらしいし……。ああもう、まったくなんて事になっちまったんだか……」

 途中からは完全にタツキの事など気にも留めずに、自分自身へと言い聞かせるかのようにして、現状を憂いて自問自答を繰り返し続けるタツキの父。日本の総合商社の、油田開発関連事業に従事する彼にとっては、兎にも角にも自分が開発に関与する油田の安否が気になって仕方が無い事は必然だった。事によってはそれは、自分の実の息子の安否以上にまでも。

 そしてその実の息子である自分とは視線も合わさずに、指の爪をまたぞろ噛みながら、ブツブツと何かを呟き続けている父の姿を見つめるタツキ。やがて何かを諦めたかのように達観した眼をしたタツキは、そんな父から視線を逸らすと、前方で輸送機の機首が完全に閉じるのを静かに見守った。そして機内の軍人の数名が何事かを確認し合った後に、彼らもまたそれぞれの座席に座ってシートベルトを締めると、ゆっくりと輸送機が前進を始める。

「それでは、間も無く離陸します。多少揺れますが、何も問題はありませんので、落ち着いて着席していてください」

 そんな軍人の言葉を背景にして、次第次第に、文字通り加速度的にその速度を増す輸送機。するとジェットコースターに乗った時の様な強烈な慣性重力と震動が、タツキ達を襲う。そして機体全体がガタガタと格段の揺れを見せたかと思うと、不意に地面からの震動がふわりと軽減され、離陸が無事に成功した事をタツキは知った。

 機首を高く上げて、急上昇を続ける輸送機。民間の旅客機とは違って、外の景色を眺めるような窓は存在しないがために、今現在どの程度の高度を飛行しているのかは全く分からない。だが意外と早い段階で輸送機は上昇を取り止めて、緩やかに水平飛行へと移行した。それと同時に激しかった震動も収まり、タツキは鼻頭から少しばかりズレ落ちていた眼鏡を、そっと掛け直す。

 機内のそこかしこから、安堵の溜息が漏れるのが聞こえた。

「父さん、これから行くウクライナに着けば、安全なんでしょ? それでさ、その後の僕達はどうなるの? 日本に一旦帰るの? それとも、アスタナに帰れるようになるまでは、ウクライナで待ち続けるの?」

 タツキは再び、隣に座る父に問いかけた。

「そうだな。ウクライナにさえ着けば、とりあえずは安全だろう。だがその後は一体どうなるのかは、まだ全く決まってはいないんだ。とりあえずは父さんの会社と日本の大使館の人間とに会って、話し合う事になるだろうが……。どちらにしても、あの油田が無事でない限りは、ウクライナに留まっても全く意味が無いだろう。それに日本の本社に送還されたとしても、もうこうなっては、部署自体が存続出来ないだろうし……。とにかく現地に残して来た地元のスタッフ達がどの程度頑張ってくれるか、それ次第か……」

 父の返答が、またしても自分の存在を無視した自問自答に陥ったので、タツキはそれ以上耳を傾けるのを止めて前を向いた。そして膝の上に抱えた自身のデイパックに顎を乗せると、口を大きく開けて、盛大なあくびをする。思い返してみれば、今日は早朝に突然叩き起こされ、国外退去のための準備を僅か十分足らずで強要された上で、空港へと向かうバスに強制的に乗せられたのだ。そのためひどく寝不足な上に、予定外の行動ばかりを取らされたせいで、全身に変な疲労が溜まっている。そうした事を意識し始めるが早いか否か、タツキはデイパックに顔を埋めて、ウトウトと舟を漕ぎ始めた。

 彼らを乗せた輸送機は、ゆっくりとカザフスタン上空を西進し、ウクライナとの国境を目指して飛び続ける。


   ●


 突如として輸送機内に鳴り響く、けたたましいサイレンの警告音。それと同時に機内各所に配置された警告灯が激しく回転し、オレンジ色の光を乱反射させて、輸送機に搭乗した全ての人間に対して危険が迫っている事を否が応にも認知させる。デイパックを枕にしたうたた寝から飛び起きたタツキもまた、当初は自分が今現在どこに居るのかすらも分からなかったが、何かしらの異常事態が発生している事を認識すると周囲を見渡して警戒した。

「一体どうしたの、父さん」

「分からない。とにかく急に、警報が鳴り始めたんだ」

 隣に座る父もまた狼狽して、周囲を見渡すばかり。だがその時、緊迫した声でのアナウンスが機内に流れる。

「高熱源体、当機に急速接近! フレア射出!」

 その直後に、バラバラバラと言う連続した破裂音が、機外に鳴り響いた。それと同時に、輸送機の外壁の数箇所に設けられた小さな窓の外が、強烈な閃光に包まれる。それは輸送機が、赤外線追尾機能を搭載した誘導ミサイルから身を守るために、マグネシウム粉末を詰めたデコイであるフレアを射出した音と閃光だった。だが当然ながら、タツキにはそんな事実を理解するだけの知識も経験も無い。

 そしてこのフレア射出を契機として、機内の各所からは混乱と恐慌による悲鳴が上がり、幾人かの避難民達がシートベルトを外して立ち上がると同時に軍人達に向かって何事かを叫び始めた。

「皆さん、落ち着いて! 決して席から立たないように! 当機は安全ですから、シートベルトを外さずに座っていてください!」

 軍人の一人が、パニック状態に陥りかけている避難民達に向けて大声で叫んで、自制を促した。だが次の瞬間、輸送機の進行方向左側の胴体横から、耳をつんざく猛烈な爆発音と破砕音が轟く。またそれと同時に、ガタガタと凄まじい震動がタツキ達を襲い、まともに座っている事すらもままならなくなった。

 そして機内に響き渡る、再びのアナウンス。

「高熱源体、左主翼に被弾! メーデー! メーデー! 飛行継続は断念! これより当機は、不時着体勢へと移行する! 繰り返す! これより当機は、不時着体勢へと移行する!」

 だがアナウンスが終わると同時に、タツキも含めた機内の全員を、強烈な閃光が明るく照らし出す。その閃光は輸送機の機体が機首部分から真っ二つに裂け、その大きく口を開けた裂け目から差し込んで来た、一切の遮蔽物に遮られていない真昼の太陽の陽射しだった。

 轟音と、強風。悲鳴と、恐怖。バキバキと言う音を立てながら頑丈な筈の輸送機の機体は次々と裂け始め、シートベルトを外していた避難民達が次々と、気圧差によってその身を機外へと吸い出されては大空へと消えて行く。そんな光景の中でタツキは胸に抱えたデイパックをギュッと抱き締めると、とにかくシートベルトが外れて座席から投げ出されない事だけを一心に祈りながら、固く目を瞑って耐え忍ぶ事に専念した。

 今やバラバラに分解し、鉄とアルミで出来た幾つもの残骸と化した輸送機は、それぞれが風任せのきりもみ回転をしながら地上へと向けて落下を開始する。タツキの座る座席が固定された残骸もまた、高度数万メートルの上空から万有引力に任せて、只々地表めがけた自由落下を続けるのみだった。

 その自由落下の途中、不意に燃料の積載された右主翼に隣接していた残骸が小さな炎を吹き上げたかと思うと、次の瞬間には大爆発を起こす。その残骸に固定された座席に座っていた避難民達が、生きたまま身動きも取れずに火達磨となって、絶命した。だが幸いにも、それはタツキの座る座席が固定されていた残骸ではない。

 やがて遂に、バラバラになった輸送機の残骸は次々と、地上へと到達し始める。

 ある残骸は平地に垂直落下して粉々に砕け散り、ある残骸は何度も回転して避難民達を遠心力でばら撒きながら地面を転がり、ある残骸は業火に包まれて黒煙を吹き上げながら、それぞれが永遠とも思われた自由落下に終止符を打った。

 そしてタツキの座る座席が固定された残骸もまた、切り立った斜面へと、比較的滑らかに着地する。そして盛大な火花を散らして機体の外壁を破損させながらも、傾斜地を滑り降りた後に、大きく岩場に激突して一回転してからその動きを止めた。荒れた地表との摩擦熱で白煙を噴き上げてはいるものの、幸いにも炎上はしておらず、落下した残骸の中では比較的原形を留めている。

 落下による震動が収まった事を確認したタツキは、固く瞑っていた眼を恐る恐る開けると、眼前の光景を凝視した。自分の周囲の二十席分ほどの座席が固定された輸送機の残骸が、岩と砂に覆われた荒野の中央に転がっている。そして何よりも驚いた事に、自分はまだ、死んではいない。生きている。全くもって信じられない事だったが、自分は航空機事故に遭遇して遥か上空から落下しながらも、万に一つの幸運に見舞われて助かったのだ。その奇跡に感嘆の声を上げたタツキは、隣の席に座る父と喜びを共にしようと、首を巡らせながら言う。

「父さん、奇跡だよ。僕達助かっ……」

 しかしそこに座っていたのは、下顎から上が存在しない、元は父親だった筈の物言わぬ死体だった。そして残された下顎に生えた白髪髭が、その死体が間違いなくタツキの父親であった事実を証明している。

「ひっ! あっ! ああああぁっ!」

 声にならない、奇妙な悲鳴を上げるタツキ。そんな彼の着ているジャージの肩口を、ほんの数分前まで生きていた筈の父親の死体の首から噴き出した鮮血が、見る間に真っ赤に染め上げて行く。そこで改めて周囲に眼を向ければ、眼前の座席に座っていた筈の大柄な白人男性もまた、頭部の上から四分の一ばかりが失われている。そしてその、身長が五㎝ばかり縮んだ白人男性の死体の首がカクンと後ろに仰け反ったかと思えば、残されていた脳髄の下半分が脳蓋から零れ落ちてタツキの足元にベチャリと落下した。

 更に横を見遣れば、落下途中で衝突したと思われる輸送機の機体の断片によって、十数人分の座席が座っていた人間ごと切断されて消え失せている。その切断された死体の上半分は落下途中でどこかに投げ出され、残りの下半分は下半身だけになっても尚、座席に礼儀正しく腰掛け続けていた。

 その他にも、一見無傷そうに見えても、頭に空いた親指大の穴から脳漿を垂れ流している者。身体の左半分が地面との接触によってすりおろされて、ミンチ肉と化した者。頭の前半分だけが綺麗に切断された者。もはや原形を留めない、血まみれの肉塊と化している者。とにかくタツキの周囲は、輸送機の座席に固定されたままの死体の山だった。

「――! ――! ――!」

 もはや声どころか、音にすらも成り切らない悲鳴を、タツキは喉から吐き出し続けた。彼は半狂乱になりながらもシートベルトを外すと、一瞬だが躊躇した後に、隣の座席の下半身だけになった死体を乗り越えて、輸送機の残骸から文字通り転がり落ちるかのようにして脱出する。そして無様に這いつくばりながらも、まるで認めたくない現実から逃避するかのように這う這うの体で逃げ出すと、輸送機の残骸から可能な限り距離を取ろうと努めた。

「はーっ! はーっ! はーっ!」

 やがてタツキは、息を荒げながら、背後を振り返る。自分ではもう何百mも逃げたつもりでいたが、実際には、ほんの十数m程度しか残骸から遠ざかってはいなかった。そしてふと見れば、逃げ出して来た残骸に固定された座席の中では自分から一番遠く離れた位置の一つに腰掛けた人物が、まだ動いている事実に気付く。それは若い白人の女性であり、全身が血まみれだが致命傷にまでは至っていないのか、もしくは全てが他人の返り血らしく、どうやらシートベルトを外そうと奮闘しているようにも思えた。自分以外にも生存者が存在した事実に、タツキは地獄の中に一筋の光明を見出した思いで、安堵の溜息を漏らす。

「おーい!」

 タツキが、白人女性に向かって呼びかけた。その声に気付くと同時にシートベルトを外す事に成功したらしき女性は、座席から立ち上がると、タツキに向かって手を振って応える。その顔には恐慌と狼狽と、そして僅かばかりだが、タツキと同じく自分以外の生存者を見つけた事に対する安堵らしき色が浮かんでいた。

 だが次の瞬間、燃え盛る炎の塊が直上から落下して来て、白人女性ごと残骸を包み込む。黒煙を噴き上げながら炎上する、輸送機の残骸。どうやら空中で発火したジェット燃料が燃えながら周囲一帯に降り注いでいるらしく、タツキの眼前の残骸以外のそこかしこからも、次々と火の手が上がっていた。

 基本的には灯油と同じ成分で構成されたジェット燃料は盛大に燃え盛り、そこから発された放射熱に身を焼かれるかと思い、後退りするタツキ。彼の眼前で、つい先程まで彼が腰を下ろしていた座席が固定された輸送機の残骸が、父の死体ごと業火に包まれる。その中から火達磨になった人間が一体、ゆっくりよたよたとタツキの方角に向けて歩いて来たかと思うと、途中で力尽きて地面へとくずおれた。おそらくそれは先程の白人女性だったのだろうが、今は焼けた脂肪と筋肉が煮えて泡立つ、物言わぬ人型の肉塊に過ぎない。

「ああ……あああ……あああああ……」

 天高く黒煙を噴き上げる火柱を見つめながら、その場に膝から崩れ落ちたタツキは、嗚咽とも驚嘆ともつかない悲痛な声を上げた。そして改めて周囲を見渡した時に、自分の視界がクリアな事から、あれだけの衝撃に巻き込まれながらも奇跡的に眼鏡が無事であった事実に彼は気付く。おそらくそれは、落下中にもずっとデイパックに眼鏡ごと顔面を押し当てていたおかげであろう。そしてその恩人であるデイパックも、パニック状態で残骸から脱出する最中にもしっかりと胸に抱えたままだった。

 とりあえずは自分の所有物、特に眼鏡が無事であった事を確認したタツキは、何故かは分からないが少しばかりの冷静さを取り戻す。だがそんな彼の周囲では大小合わせて何十か、それとも何百かと思われる程の数の輸送機の残骸が落着しており、そして今も尚、降り注ぎ続けていた。

 それはまさに、地獄さながらの惨状。上空からは絶える事無く輸送機の残骸が、ある物はその構造材を剥き出しにして、ある物は生きた人間を縛り付けたまま、またある物は業火に包まれながら、次々と落下して来ては砕け散る。また同時に、時にはバラバラと、生きた人間が剥き出しの生身のままで落下して来る事もあった。そしてそれら輸送機の残骸と死体の山の中で呆然と立ち尽くしながら、タツキはようやく、その原因までは分からないが自分の乗った輸送機が墜落した事実を実感するに至る。

「何だよ……何なんだよこれ……。一体何が、どうなってるんだよ……」

 凄惨極まる光景を前にして、素朴な疑問がタツキの口から漏れた。だが当然ながら、その疑問に答えてくれる者はこの場には存在しない。それでも彼は、自分以外にも生存者が存在しないかとの僅かな希望を胸に抱きながら、比較的大きな残骸を確認して回った。

 しかしその全てから発見されるのは、見るも無残に破壊された、元は人間だった筈の血と肉の残骸ばかり。生存者は一向に見つからず、それどころか探索中にも周囲には輸送機の残骸や燃え盛るジェット燃料が降り注いで来るばかりで、これではタツキ自身も命を落としかねない。一度などは、歩いていた彼のほんの数m眼前の地表へと輸送機の機体を支えていたフレームと思しき鉄柱がドスンと落下して来て、危うく潰されかけて肝を冷やした。

 もはや、生存者の探索を諦めつつあるタツキ。だが彼の耳に、か細く途切れ途切れながらも、自分を呼ぶ男の声が届く。

「……おい。おい、そこの少年。こっちへ。こっちへ来なさい」

「え?」

 驚きながらも声のした方角を見遣れば、おそらくは輸送機の機首付近と見られる残骸の中からこちらに手を振る人影を、タツキは見つけた。

「そう。こっちだ、こっち。こっちに来てくれ」

 タツキが自分の存在に気付いた事を悟った人影は、そう言いながら手招きをする。遂に念願の生存者を発見した喜びに少しばかり安堵したタツキが人影に近付くと、それはアスタナの空港で、彼に搭乗許可証を手渡してくれた黒人の軍人だった。

「良かった。キミは、無事なんだな? 怪我は無いか? 他に生存者は? 無事なのは、キミだけなのか?」

 近付いて来たタツキに手を伸ばし、彼の無事を確認しようとする軍人。だがしかし、この距離まで近付いた事によって、タツキは気付いてしまった。輸送機の残骸に背中を預けて座る軍人の左側の腰から下が、既に存在していない事に。そして彼の下腹部に空いた穴から、腸を中心とした内臓の半分がたが、地面に直径一m程の血溜まりが出来る量の鮮血と共にまろび出てしまっている事に。

 どこからどう見ても、それは既に致命傷であった。だがそんな事はまるで二の次の事の様に、軍人はタツキに向けて語る。

「いいか、少年。俺はもう、助からない。だからこれから俺が言う事をよく聞いて、それを実行するんだ」

 相当の激痛に耐えながら、言葉を並べているのだろう。軍人は呼吸を荒げながら、途切れ途切れに続ける。

「俺達が乗った輸送機は、地上からのミサイル攻撃で撃墜された。だが撃墜したのは、新ソ連の正規軍じゃない。避難民を安全に輸送する事は、新ソ連との間でも、事前に話をつけてあった筈だ。それに今、新ソ連の上層部は世論を味方につけるために民間人への攻撃には特に敏感になっているから、こんな馬鹿な真似はしない。だからおそらく、撃墜したのは地元の民兵ゲリラ組織か、もしくは野盗の類だろう」

 ここまで言い終えたところで、軍人はゴボッと、血の塊を喉から吐き出した。そして少しばかり咳き込んだ後に、タツキの手をギュッと握り締めると、最後の力を振り絞るかのようにして忠告する。

「だから少年、キミは自力で逃げなさい。おそらくはもう少しすれば、その民兵の連中がここへとやって来る。そして生存者であるキミを発見したら、間違い無く身代金目的で誘拐されるだろうし、その場合はたとえ金を払ったとしても、命の保証は無い。だからその前に早くこの場を離れて、なんとか自力で、身柄を保護してくれる公的機関を探すんだ。公的機関であれば、たとえ新ソ連側の勢力であったとしても、キミを保護してくれるだろう。とにかく、北へ行くんだ。ここから北へ進めば、大きな街道に辿り着ける筈だ。だから少年、キミは生き延びるんだ」

 そう言うと軍人は、再びゴボリと血の塊を吐き出した。そして眼を見開くと、ハッハッハッハと急に呼吸を荒げだした後に、最後に一度大きく息を吸い込む。やがて彼はゆっくりと最後の一息まで吐き出し、それを終止符とするかのようにして、その呼吸を永遠に止めた。

 タツキの手を握っていた軍人の手からは握力が失われて、ズルリと地面に落ちる。そして、タツキは再び気付いた。自分の手が、べっとりと軍人の血にまみれている事に。いや、手だけに限らない。いくつもの死体を乗り越えながらここまで辿り着く過程において、彼の身体は多くの血を浴びており、着ているジャージもまた血まみれである事に。

「うわああああああっ!」

 突然恐ろしくなり、血まみれのジャージを脱ぎ捨てると、Tシャツ姿になるタツキ。彼は更にそのTシャツも脱ぐと、それをタオル代わりにして手や顔に付着した血を拭い去り、血で汚れたそれもまた放り捨てた。そして同時に、自分の身体に怪我が無いかを改めて確認する。だが幸いにも付着していた血は全て他人のものであり、タツキ自身の身体は、奇跡的にも全くの無傷であった。

 痩せ細った貧弱な上半身をさらけ出す格好となったタツキは、唯一の荷物である自身のデイパックを漁る。すると幸いにもその中には、避難する際に手近にあったと言うだけの理由で詰め込んでいたインターナショナルスクールのロゴとエンブレムが刺繍されたパーカーが入っていたので、急いでそれを素肌の上から羽織った。そして着替えながら、彼は二つの事に気付く。一つは、落下して来る輸送機の残骸が、眼に見えて減り始めた事。そしてもう一つは、地平線の向こうから、何かがこちらに向かって近付いて来ている事。

 降り注ぐ輸送機の残骸ばかりに気を取られていたが、改めて周囲を見遣れば、ここは見渡す限りの荒野の中心。いや、荒野と言うよりは、砂漠と言った方が正しいのだろうか。とにかく岩と砂以外には地平線に至るまで何も眼に付く物が存在しない、不毛の地である。そしてその地平線上に、何かが土煙を上げながら、こちらに向かって来ていた。

「あれは……何だ?」

 そこでタツキは、つい先程彼の眼前で息を引き取った軍人の言葉を思い出す。輸送機を撃墜した民兵組織か野盗が、もう暫くすればここにやって来て、生存者は身代金目的に誘拐されるだろうとの言葉を。

 身の危険を感じたタツキは、急いでデイパックを背負うと、近付いて来る何者かとは反対の方向へと駆け出した。そして輸送機の残骸が観察出来るギリギリの距離まで離れると、窪地にその身を隠し、接近者の正体を探るべく待ち続る。

 やがてその姿を鮮明にし始める、接近者の影。それは総勢十台前後の軍用の装甲車輌と民間のトラックの混成部隊であり、その編成はどう見ても、正規軍のそれではない。特にトラックは民間の車輌でありながらも、後部の荷台には対空銃座や地対空ミサイルの発射台が強引に設置された、いわゆる「テクニカル」と呼ばれる急ごしらえの戦闘車輌である。そしてそれら車輌の車体各所には、三日月と何かの動物、おそらくは狼か狐と思われる面長な獣を簡略化したエンブレムが描かれていた。と同時にそれ以外には、国籍や所属を証明するような印章は一切描かれてはいない。

 やはり軍人が言っていた通りに、輸送機を撃墜したのは、民兵組織か武装した野盗の類に間違いは無かったのだろう。ぞろぞろとトラックから降りて来た武装した男達の集団の装備が、全く統一されていない事もまた、それを証明する。

 そしてタツキは民兵組織の車輌の後方に、とりわけ巨大な鉄の塊を二輌発見して、ゴクリと唾を飲み込んだ。一見すると鋼鉄で出来た巨大な蜘蛛か蟹の様なシルエットのそれは、近年になってからM3《エムキューブ》によって主力の座を奪われはしたものの、それでも尚最前線で活躍し続ける機動歩行兵器。つまりは歩行戦車ウォーカータンクそのものである。やはり他の車輌と同じく三日月と獣のエンブレムが描かれたそれに、タツキは恐怖を覚えた。

「逃げよう」

 そう呟いたタツキは、ふと思い出す。自分のジーパンのポケットの中には、便利な文明の利器である携帯端末、Pウェアがあるではないかと。これでどこかしらの公的機関に連絡が出来れば、今すぐにとはいかないまでも、救助を要請する事が充分に可能だ。それにGPS機能によって、こちらの現在位置も把握してくれるに違いない。そう閃いた彼は、さっそく自身のジーパンのポケットを探る。だがそこに、ある筈のPウェアは存在しなかった。

「無い。Pウェアが、無い。そんな、どこにやった?」

 狼狽しながらジーパン以外のポケットも、デイパックの中までも探るタツキだったが、彼のPウェアはどこにも無かった。輸送機の残骸から逃げ出す際にポケットから転がり落ちたのか、それともズボンではなくジャージのポケットに入れていたのを、ジャージごと脱ぎ捨ててしまったのか。とにかく通信手段を失ってしまったタツキは、絶望で頭を抱えながらも、これから自分がどうするべきか逡巡した。

 視界にギリギリ入る距離では、民兵組織の男達が、輸送機の残骸を漁っているのが見える。果たして生存者を身代金目当てで誘拐するためか、荷物から金品を奪うためか、それとも輸送機を撃墜する事自体なのか、彼らの真の目的はタツキには分からない。だがどちらにせよ、もはやPウェアを探しにあそこまで戻る道が残されてはいない以上は、とにかく自力でここから脱出する他に選択肢は無かった。

 タツキはデイパックを背負うと姿勢を低くし、可能な限り岩陰や窪地等の周囲からは発見され難い場所を選びつつ、輸送機の墜落現場を後にする。我が身に降りかかった不幸を、只々忌まわしく思いながら。

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