千鶴さんと智哉くん -アラサーOLと男子高校生の、 -

長月東葭

01:アラサーOLと男子高校生の、“日常”

 季節は6月。次第に日差しがきつくなり、新緑の色が目に鮮やかになっていく季節。


 高校の夏服を着た少年が1人、かばんを肩に斜め掛けにして、朝の通学路を歩いている。


 少年は部活動には所属しておらず、朝早くに登校し、日が暮れる前に帰宅する。友人は何人かいるが、どちらかというと休日は1人で過ごす方が好みな性格をしている。とりとめのないことを、頭の中で延々ぐるぐると考え続けるのが癖の、口数の少ないタイプの人間だった。


 別段秀でている才能もなく、身体的特徴も特にない小市民の少年であったが、彼には少しだけ奇妙な関係の知人(その関係に「知人」という名詞を当てることが正確なのかは、彼自身にもまだ分からない)がいた。



智哉ともやくーん、いつも早いねぇ」



 通学路を歩いていた少年の頭上から、智哉ともやという彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。


 声のする方を見上げると、年季の入ったコンクリート作りのアパートの2階の一室から、1人の女性が顔を出していた。


 女性は白いTシャツ1枚にショートパンツというラフな服装で、窓際のさく気怠けだるそうに顎と腕を乗せて、口の端にタバコを1本くわえていた。



「それに相変わらずの正確さだねぇ。今日も7時ぴったりじゃーん」



 2階の窓辺の女性が、左の手首に内向きに巻いた小さな腕時計をのぞき込みながら言った。



「……え? 藤沢ふじさわさん? どうしたんです、今日平日ですよ?」



 だらけきった姿を窓辺にさらしている女性に向かって、智哉ともやが戸惑った様子で話しかけた。



智哉ともやくん、君は何を言っているのかね。今日が平日だなんてことは、私も当然知っているよ。社会人は曜日感覚に敏感なのだよ、智哉ともやくん。君たちのような若き高校生たちよりもずっとね。この粘つく、いやーな感じは、まぐれもなく火曜日のそれだ」



 藤沢ふじさわと呼ばれた女性が、ふーっとタバコの煙を吹き出しながら言った。



「いや、そういうことじゃなくて……」



「社会人が、平日の朝っぱらからアパートのベランダでだるそうにタバコを吸っているとしたら、それは有給で休んでいるか、仮病でサボっているか、色んなことがダメになって壊れかけているか、その内のどれかだよ」



「……藤沢ふじさわさん? 何かあったんですか?」



「んー? べっつにー? 『名前で呼べ』って言ったのに、全然約束を守らない若造に話す問題なんて、どこにもないけどー?」



 藤沢ふじさわが少年から目線を外し、そっぽを向いて再びふーっとタバコの煙を吹き出した。



「あ、その……すみません、千鶴ちづるさん」



 少年が不慣れな様子で、気恥ずかしそうに女性の名前を口にした。



「ふむ……まぁいいよ、気にしないで。よし、約束を守ってくれるうら若き少年には、是非とも話さなければならない問題がある。とりあえず上がってー」



 藤沢ふじさわ改め、千鶴ちづるがベランダのさくにもたれ掛かったまま、左手の親指で室内の方を指差し、「鍵開いてるから入れ」と無言のサインを智哉ともやに送った。



「え? 今ですか?」



「ん」



 くわえタバコをしている千鶴ちづるが、くいっと再び親指で室内を指さす。



「僕これから学校なんですけど」



「ん!」



 千鶴ちづるがさらに、ぐっと力強く室内を指差した。


 窓辺に居座って、タバコをくわえたままこちらをじっと見ている千鶴ちづると目が合って、智哉ともやがはぁとめ息をついた。



***



「……お邪魔、します」



 千鶴ちづるに押し負けた智哉ともやが、彼女の部屋におずおずと上がる。



「はいよー。あ、鍵ちゃんとかけといてねー」



 部屋の奥から千鶴ちづるの声が聞こえた。


 智哉ともやが部屋の奥に足を運ぶと、Tシャツにショートパンツ姿の千鶴ちづるがあぐらをいて座っていた。



「その辺テキトーに座りなー」



 背後に立つ智哉ともやの気配を察した千鶴ちづるが、振り向きもせずに言った。



「えーっと……千鶴ちづるさん」



 智哉ともやが気まずそうな声を出す。



「んー? なにー?」



 千鶴ちづるはまだ振り返らない。



「これ……」



 千鶴ちづるがようやく振り返ると、智哉ともやが目線を横にずらしながら床を指差していた。


 その先には、千鶴ちづるの下着が放り投げられていた。



「……あ。はは、悪り悪り」



 その光景を見て、千鶴ちづるがプッと一瞬笑った。それから床に転がっていた下着を摘んで、洗濯籠に向かってひょいと放り投げた。



「散らかっててごめんねー。そこ智哉ともやくんの定位置だもんなー」



 智哉ともやがばつが悪そうに、あぐらをいている千鶴ちづるの右後方、彼女が「定位置」と呼ぶ位置に腰を下ろした。



「えーっと……それで、どうしたんです? 千鶴ちづるさん?」



「うむ、そのことか。まぁこれを見てくれたまえ、智哉ともやくん」



 千鶴ちづるが人差し指でびしっと前方を指差した。


 その先には、大型の液晶画面があって、そこには「PAUSE」と文字が表示されたCGの静止画が表示されていた。そこには禍々まがまがしい姿の怪物が映し出されている。端的にいうと、据え置きゲーム機のとあるタイトルの戦闘シーンの一時停止画面が表示されていた。



「コイツに全っ然勝てねーの。マジヤバイ、詰みそう」



 そう言いながら、千鶴ちづるはゲーム画面から一時も目を離さず、智哉ともやに状況を説明する。口にくわえられた火のいていないタバコが、不機嫌そうに上下にぷらぷらと揺れていた。



「……まさか千鶴ちづるさん、徹夜でゲーム……?」



 よく見ると、千鶴ちづるの目元にはうっすらとクマが浮かんでいた。



「後学のために教えておいてあげるよ、智哉ともやくん。夜中の3時を過ぎると、大抵のことはどうでもよくなってくるのさ」



 そう言いながら、千鶴ちづるがタバコを端にくわえたままニッと笑った。



「またそんな無茶苦茶むちゃくちゃな……あ、懐かしいタイトルですね、これ。中学のときよくやってましたよ」



 千鶴ちづるのプレイ中のゲームソフトのタイトルを確認しながら、智哉ともやが言った。



「懐かしいなぁ」



「そうか、君にはこれが懐かしいのか……私にとっては、まだこの辺は準新作に見えるよ。さすがは現役の高校生だ。アラサーの私との間に、時間の感覚について著しい隔たりを感じるねぇ」



 千鶴ちづるが無関心そうに感想を述べる。



「――みたいなことを、よく言う同期のやつがいんだけどさー。心底どーでもいいわ、ははっ」



 そして千鶴ちづるが、ようやく智哉ともやの方を振り向く。


 智哉ともやの方に差し出された手には、ゲームの無線式コントローラーが握られていた。千鶴ちづるの頭越しに見える液晶画面には「Game Over」の字が大きく表示されている。



「ほい。というわけで、これクリアするの手伝ってちょうだい、智哉ともやくん」



千鶴ちづるさん……いくら会社休んでるからって、自由すぎますよ……」



 智哉ともやあきれた様子で言葉を漏らした。



「んー? 今日仕事あるよ? 私」



 千鶴ちづるが不思議そうに言った。



「え? 夜勤か何かです?」



「いんや? 昼勤よ? 9時始業」



「ちょっ、それまずくないですか?」



「あぁ、その通り。察しがいいね、智哉ともやくん。事態は非常にまずいことになっている。私たちは一刻も早くコイツをぶっ倒して、すぐにでも出勤と登校をしなければならないのだよ」



「それ……今日の夜とかにすればいいじゃないですか……」



智哉ともやくん……君なら分かるはずだ……今私は完全に、このゲームの世界の最終決戦を見届ける覚悟を固めてしまっている。こんな半端な状況で出勤なんてしたら、頭の隅っこにすっごく気持ち悪い引っかかりができて、気になって気になって仕事が手につかなくなってしまうよ。そういうこと、君にもあるだろ?」



 千鶴ちづるが全身を智哉ともやの方に振り向かせ、頼むと手の平を合わせた。



「はぁ……多分僕、すっごく馬鹿なことしてますよね……」



 智哉ともやが、右後方の「定位置」から、千鶴ちづるの真隣に移動して、千鶴ちづるの手からコントローラーを受け取った。



智哉ともやくんのそういうとこ、私は良いなぁと思ってるよ」



 火のいていないタバコをくわえたまま、千鶴ちづるがニッと笑った。


 それから、出勤・登校時間をかけた、智哉ともやの死闘が始まった。



「え? あれ? コイツこんなに強かったっけ?」



 智哉ともやが困惑した声を出した。



「しっかりしてくれよー、智哉ともやくん。君このタイトルクリアしてんだろ?」



 千鶴ちづる智哉ともやの隣で膝を抱え込み、じっとモニター画面を見ながら言った。



「おっかしいな……なんか記憶のと違う感じが……千鶴ちづるさん、もしかして設定何かいじってません?」



「キー配置とかはいじってないよー。難易度だけ変えたけどさー」



「あー、だからかぁ。難易度いくらにしたんです?」



「エクストリームに決まってんじゃん」



 さも当然のような口振りでそう言った千鶴ちづるを見やって、智哉ともやが目を丸くした。



「……すみません、無理です。それって周回プレイで解放される最高難度じゃないですか……。というか千鶴ちづるさん、周回限定のモードで遊んでるって、これ最低1回はクリアしてるじゃないですか……エンディングもう見ちゃってるじゃないですか……」



「エンディングがどうとかじゃないんだ、智哉ともやくん。難易度エクストリームのコイツを倒せないという事実が、問題なんだよ」



 智哉ともやの顔をじっと見つめて、千鶴ちづるが真剣な顔で言った。



***



 その後も最高難度のボス戦で、智哉ともやは何度もコテンパンにたたきのめされた。あまりの難易度の高さに、智哉ともやは思わず手からコントローラを落としてしまうほどだった。


 それを見て、しびれを切らした千鶴ちづるが、もうひとつコントローラーを持って来た。



「仕方ない。協力プレイといこうじゃないか、智哉ともやくん」



「……お願いします」



 何か大事なことを忘れている気がしたが、難易度エクストリームの前に心折れかけていた智哉ともやにとって、千鶴ちづるの助け船は何よりもありがたいものに感じられた。


 隣同士で床に座っている2人の肩の距離は、先ほどよりも近くなっていた。



「……って、千鶴ちづるさん、僕よりかよっぽど上手うまいじゃないですか……」



 千鶴ちづるの巧みなコントローラー裁きに、智哉ともやあきれた声を漏らした。



「僕が千鶴ちづるさんの代わりをやる意味、ないじゃないですか」



「私さー、自分でゲームするのはもちろん好きなんだけど、誰かがプレイしてるのを横で見てるだけっていうのも結構好きなんだー。だから見てた」



 画面に目線を集中させたまま、千鶴ちづるがぽつりとつぶやいた。



「君の一生懸命なプレイスタイル、ヘタクソだけど嫌いじゃないよ、智哉ともやくん」



「……出勤と登校がかかってるんです、本気でやってください、千鶴ちづるさん……」



「はいはーい」



***



 それから2人は、無言で肩を並べて、モニターを見つめ続けていた。



「よ、よし……あと少しですよ、千鶴ちづるさん!」



「そうねー、がんばろうぜ、智哉ともやくん」



 難易度エクストリーム、最強のボスの残り体力表示はあとわずかとなっていた。


 次の一撃で、勝負が決まる。



「よし、これは行けますよ……!」



「……」



 千鶴ちづるが口をとがらせて、口にくわえた火のいていないタバコをぷらぷらと揺らしたが、ゲームに集中している智哉ともやの視界に、それは映らなかった。



「これで決着……!」



 ザシュっと、最後の攻撃音が響いた。



「あ! ちょっと千鶴ちづるさん!」



 勝利を目の前にして高揚した声を出していた智哉ともやだったが、その声が途端に悲鳴に変わる。


 千鶴ちづるの方を振り向いた拍子に、智哉ともやの肩が千鶴ちづるの肩にぶつかった。


 液晶画面には、とうに見飽きた「Game Over」の文字が表示されていた。



「なんで僕を攻撃しちゃうんですか! あと一撃で決まったのに!」



「おっとっと……ごめんごめん、手が滑っちゃった」



 千鶴ちづるがとぼけた口調で言った。



「くそぉ……あとほんのちょっとだったのに……でも大分パターンが分かってきましたよ、次こそ行けます」



 悔しそうにしている智哉ともやの肩を、隣に座っていた千鶴ちづるがちょいちょいとつついた。



「それは頼もしいな。ところで智哉ともやくん、今何時なんじか分かってるかい?」



 ゲームに夢中になっていた智哉ともやだったが、千鶴ちづるのその一言ではっと我に返り、千鶴ちづるの左手に巻かれた腕時計に目をやる。


 時刻は既に10時を回っていた。



「え……しまった……遅刻だ……」



 智哉ともやががくりと肩を落とした。



「私も無断欠勤だなぁ」



 千鶴ちづる呑気のんきそうに言った。いつの間にか、くわえていたタバコには火がいていて、千鶴ちづるの口元からふーっと煙が吹き出された。



「……千鶴ちづるさん」



 智哉ともやが顔をうつむけた状態で口を開く。



「んー? なにー?」



 智哉ともやの隣で、千鶴ちづるがタバコをぷかぷかと気怠けだるげに吸っている。



「……もう1回協力プレイ、お願いします。こうなったら徹底的にやってやりますよ!」



 もうどうにでもなれと開き直った智哉ともやが、覇気のある声で千鶴ちづるに言った。



「さっすが智哉ともやくーん、そうこなくっちゃねー」



 千鶴ちづるがタバコを灰皿に押しつけて、智哉ともやにもらった腕時計を左腕に巻いたまま、ニカッと笑った。

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