2-1.内なる獣に啓蒙せよ
俺はバリアの後を付いて歩いた。二階の会場から下に降りて、東側の廊下を歩き、裏口から中庭へと出た。そして大きな噴水の裏に回った。
石造りの噴水は所々、大きく欠けていてその破片が散らばっていた。
静けさを紛らわすためにバリアにそのことを言うと、なんでも噴水に嵌められた真珠を盗もうと破壊されたらしい。今度、宝飾を取り外した噴水に立て替えるようだ。
バリアはその血アックにあった腰掛に座った。
彼は俺にも座れと言うので、少し彼と間を開けて腰を下した。
時節は秋から冬へと変わろうとしている。吐く息が少し白く見えた。
「冷えるな。コートでも持ってくればよかったか」首を竦めるバリアは苦笑いだ。岩の様な男が身を縮ませているのを見ると少し面白い。けれども、俺も同じような姿勢に違いなかった。
「話って、何か、俺に用があるのか?」
不躾だっただろうか――、しかしバリアも言葉を紡ぐのを逡巡していた。話を切り出す勇気が彼に足りないらしい。俺も同じ立場だったら、勇気は奮えずに居ただろう。
俺とバリアの間に気まずい沈黙が流れる。
遠く、会場の階から漏れるぼんやりとした薄明かりだけが、俺たちを照らしている。暗闇に暈ける俺たちの姿ははっきりしない。
そこで、バリアが息を吸って吐いた。彼は意を決したらしい。果たして俺に同じことが出来るか、些かどころではない疑問符が浮かぶだろう。俺は言葉を待った。
「昔の話だ。俺と、お前の因縁に対する清算だ」真剣な表情でバリアは言う。
俺は言った。「つまり、俺がバリアを殴り倒したことに関することだろう?」
「そうだ」バリアはゆっくりと頷いた。
俺の中では終わっていたことなのだが、バリアの中ではそう言うわけではないようだ。
だから俺は言葉を搾り出そうとした。
「あの時は悪かった。俺も自分を制御出来ずに――」と言い掛けたところでバリアは俺の言葉を制する。
「いや、そう言うことじゃない。お前は既に、俺に清算しているだろう?」
バリアは苦々しい顔でその言葉を口にした。
「バリアが清算していると思っているのなら、そうなのかもしれない」俺は言った。
「なら、お前は清算済みだ。でも、俺は違う。俺はお前に清算できていない」
その言葉に俺は驚いた。バリアからそんな言葉を聞けるとは思わなかったからだ。けれど俺は首を横に振った。
「……いや、バリアだって清算を終えている。あの顔の腫れ以上のことを望むのはきっと間違いだ」
そう言うとバリアは苦笑いを浮かべた。「あれは、まあ、痛かったけどよ……。あれは因果に対する結果だろ。自業自得だ」
バリアは俺の方を向いて言う。
「俺は因果を、清算したいんだ」
詩的なその言葉を、俺は笑わなかった。
「俺は、気にしてないが……。バリアがしたいと言うのなら、構わない」俺は照れ隠しに顔を俯かせた。
それにバリアは嬉しそうな声を上げて言う。「ああ、ありがとう」
バリアは遠い昔を思い出すかのように、目を細めた。
七、八年も前の話になるはずだ。まだ十ニか十三か――。
「あの時、俺はお前の親父さんを侮辱した。白昼の中庭で、衆目の中、俺は言ったんだ」
バリアの言葉でそうだったと俺は頷く。何が切欠でバリアが俺の親父を侮辱したのかは覚えていない。けれども、邪悪に顔を歪めたバリアが、俺に向かって大声で叫んだのだ。
そして俺は――。
「それで、俺は人が変わった様にバリアを殴り倒してしまった。級友たちの制止も聞かず、何度も、何度も――」
俺はその時の記憶が余り無い。俺の認識の中では白昼夢の出来事のようにしか思えなかった。けれども、気が付いたときの拳の痛みは、今でも覚えている。
「お前はあの後、色んな大人たちから叱られた。お前は、お前の親父さんと共に俺の家に来て、謝罪した。俺の親父は許し、ダットネル家とクラレッド家の親交は保たれた。でも、それで終わっちまったんだ」
バリアは唇を噛んだ。「俺はお前に謝罪の言葉を一度も口にしなかった。それが、今日までの後悔だ」
そう言ってバリア・ダットネルは立ち上がり、俺の方を向いて頭を下げた。
「お前の親父さんを馬鹿にして、すまなかった。お前にだけ謝らせて、すまなかった」
すまなかったと何度も頭を下げるバリアに俺も立ち上がって言った。
「頭を上げてくれ、バリア。俺は気にしてなかったし、今の言葉を聞いて、なおさら恨みなんて抱けない」
俺ははっきりと言う。「これで、終わりだ」
そう言うと、バリアの表情は柵から解放され様に明るくなった。
白いタキシードを着る男はこうでなくてはと、俺は笑う。
「お前は大切な友人の一人だ。これからも、よろしく頼む」
そう言ってバリアは照れくさそうに右手を前に出した。俺はそれを握った。
「もちろん。俺の方こそ、よろしく」
篤く握手が交わされた。これで遺恨は本当になくなった。俺はそれに心を安堵させて、小さく息を吐いた。
そこでバリアは再び腰掛に腰を降ろした。
「戻らないのか?」俺はバリアに尋ねると、彼は首を振った。
「しばらく、ここに居る。少し、頭を冷やすのさ」そう言ってバリアが笑ったので、俺も無理に連れて行こうとはしない。
「風邪には気をつけろよ」俺は言う。「風邪を引くように見えるか?」バリアは口を開けて豪快に笑った。
それを見届けると俺は会場に戻ろうと裏口から中に戻った。
館内に戻ると、空気の暖かさと安堵が俺に齎される。そして尿意も。
俺は廊下の途中にある御手洗いを使い、用を済ませた。そして会場に戻ろうとエントランスに向かう。
その中腹に差し掛かろうとしたところで、俺は後ろから誰かに飛び掛られた。
バリアの悪戯かと思案したが、彼よりも一回り細い腕が俺の首に回ったとき、それは違うと判断できた。その腕には飛び掛ってきたものの体重と力が掛かっている。
首が絞まり、思うように呼吸が出来ずに俺はじたばたと暴れた。細い腕を振り解こうと手を伸ばすが、外すことは出来ない。右に左に体を揺らし、それでも解けずに俺の視界は黒く、黒く――霞んでいく。
耳に強く響く心臓の鼓動。けれども直ぐにそれを聞くことはなくなった。
すとん――、意識が落ちたのだ――。
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