1-1.友情よ、永遠なれ
「どうして俺なんかが呼ばれたんだろ……」
背を丸めて項垂れるように座っていた俺は、深い、深い井戸の底から吹く不快な風のように、言葉を吹き零した。
「関係の深い人間であることには間違いない」
燕尾服に白の蝶ネクタイ。礼服に身を包んだ兄のユリアンが言った。彼は馬車に揺られながら欠伸を噛み殺している。
「うじうじするな、大男の癖に。らしくないぞ? お前に遺恨がある訳じゃないだろう」
喝を入れるように言い放たれた言葉に俺は頷く。
遺恨なんてあるはず無い。俺は気が済むまで殴り倒してしまったのだから、遺恨などあってはならない。
「なら良いじゃないか。バリア・ダットネルは執念深い男じゃない。お前は今日、あいつに会ってこう言えば良い。お誕生日おめでとう、バリア。今日とこれからが良き日になりますように、ってね」
そう言うと兄はヒッヒッと風を鳴らして笑った。相変わらず可笑しな笑い方である。大口を開けてガハハと笑えば良いのに。
「兄さんは当事者じゃ無いからそんなことが言えるのさ。招待を受けてから今までずっと胃が痛むんだから」
俺が腹の辺りを押さえると、兄は噴出しそうになるのを我慢した。
「ノアが心配していたな。お兄様がトイレから出てきませんって」
それは昨日の話だった。あまりの腹痛でトイレに閉じ篭っている俺のことを案じてくれていたらしい。しかし俺の兄二人はノアに変なことを吹き込んだのだ。
「だからって、ニナを逆様にして握っているんだろうとからかうのはどうかと思いますよ」
ニナってなんですか? 逆様に握るってニナをですか?
トイレを出るとすぐにノアの質問攻めを喰らった。何度もその言葉を聞いているうちに、妹に大変汚い言葉を口にさせていると気付いたときには、兄たちには呆れたものだ。
しかしユリアンは気にせず、俺の肩に手を当ててこう言った。
「月のものが来たと言うのに我らが妹は純真無垢だ。今はそれを喜ぼうじゃないか」
「兄さんみたいにならないことを祈りますよ」
ユリアンは大の女好きで大酒飲みだった。先ほどから欠伸を堪えているが、果たしてそれが夜遅くまで数式と睨めっこをしていた結果かは、兄のみぞ知ることだ。
俺が会話を切り上げると、兄は腕を組んで目を瞑った。
それから三十分程の時間で馬車は停まった。
御者がドアを開け、兄を揺り起こす。
「着きましたぜ、坊ちゃん方」
あ、ああ……と寝ぼけ眼を擦って兄は御者に言う。
「ありがとう、ボルス……。ええ、と。帰りは明日の昼ごろになる。迎えを頼むよ」
それを聞いてボルスはニッコリと笑った。
「分かっておりますとも。それでは、良い夜を」
そう言って俺たちを下すと、ボルスは馬に鞭を打ち、今来た道を戻っていった。
俺と兄は今日、この別荘で宿泊する予定だった。
他の参加者たちもそうなのかと言うと、そうではない。他の参加者は、十二時を回るまでには返してしまうという話だった。それが若衆だけで盛大なパーティーを開くための大人たち条件だったらしい。
ただその参加者の中でも、数人だけは宿泊の許しを貰ったのだ。それに兄も含まれ、何故か俺も含まれている。
なんで俺なんかが――、なんて暗くなっていても仕方が無いので俺は別荘の佇まいを拝んだ。
「ここがダットネル邸の別荘……」と呟く。
別荘という言葉の割には豪奢な造りをしていた。それが本邸であると言われても違和感は無い。柱の一本一本に、ダットネル家の象徴たる牡鹿が掘られていた。大層な額を掛けられて作られたであろうその別荘は、ダットネル家の財力を物語っている。
本館に宿舎、中庭には盛大な噴水もあるそうだ。
「今日はバリアが主宰だからな。おじさん、おばさんたちはいない。若者たちだけの社交場だ」
そう言って楽しそうに口元をニヤつかせる兄。それを横目に見ながら俺は釘を刺した。
「婦女子に手を出さないで下さいよ」
兄は俺の方を向いてばっちりとウィンクをして見せた。
「できない約束はしない主義なんだ」
鼻白む様子を見ることも出来ずに、俺は眉を顰めた。
勇み足の兄の後姿を溜息交じりで眺めるのだった。
●
パーティーは既に始まっていた。どうやら主宰のバリア・ダットネルの話は終わり、知り合い同士で固まって談笑しているようだ。皆の手に持っているグラスには朱色のワインが注がれている。
「出遅れたみたいだな」兄は寂しそうに眉を下げて言った。
それでも兄は自分のペースを崩すことなく、近くを通り過ぎようとした給仕からワインの入ったグラスを二つ頂いた。
「お前の分だ」そう言って兄は俺にグラスを渡してきた。
俺はグラスに鼻を近づけて、匂いを嗅いだ。呑んでもいないのに甘い渋みが伝わってくる。それに俺は口をへの字に曲げてしまった。
「ワインぐらい慣れろ。社交界のスタンダードだぞ」
赤ワインは苦手だった。葡萄の皮を何度も何度も咀嚼したような味がするからだ。俺はそれで昔、気分が悪くなって寝込んだことがあった。
もしこれが社交界のスタンダードなら、俺は二度とそんな場所に顔を出したくはない。
しかしそうも言っていられないので、一口だけ呑む。兄に言わせて貰えば、それは舐めるに等しいらしいが、俺は気にしない。兄のペースがある様に、俺のペースがある。恥かしいことなんて何もない。
「主宰に挨拶しに行かなくちゃな。さあ、弟よ。人海というこの大海原から、
ヒッヒッと可笑しな笑い声を挙げて、兄は人々の間を分け入った。
兄がバリアを探している間、俺はぼんやりとこの催しの参加者たちを眺めた。参加者たちは見知った顔ばかりだ。有名貴族の人々が、じゃない。俺と兄が通っていた寄宿舎学校の級友たちばかりだった。
これじゃあ、同窓会みたいなものだ。そう思うと、シーヴィスが来られなかったことを思うと可愛そうに思う。彼もまた級友の一人であったからだ。
「おお! 居たぞ。――バリア! バリア・ダットネル!」
兄はバリアに気付いてもらえるように声を張って言った。参加者たちの何人かも俺たちの方に注目したが、すぐ顔を逸らした。
そしてバリア自身は兄を見つけると、彼もまた大きな声でそれに応えた。
「ユリアン? ユリアン・クラレッドか! お前、変わらないな!」
白色のタキシードに青の蝶ネクタイ。礼服にしては明るいように思える装いだが、今の時代にあっているのかもしれない。身長は俺よりも低いが、それでも百八十を裕に越えている。顔は角ばっていて、それがバリアの逞しさも象徴しているようだった。
バリアの変わらないという言葉を聞いて兄はヒッヒッと笑う。その笑いに釣られる様にバリアもガハハと笑った。
「誕生日おめでとう、バリア」兄はバリアに屈託なくそう言った。
それに対してバリアは眉を曇らせて首を横に振る。
「社交辞令は必要ない」
「いいや、こういう場では必要だね」
兄はバリアにおどけて言って見せる。
するとバリアは兄に顔を近づけた。
「おいおい。こんな岩みたいな男に社交を説くなよ。今夜、親父たちはいない。無礼講だ」バリアは両手を広げて、自分たちの自由を謳った。
それに兄はグラスを挙げると抜けぬけとこう言った。
「それは安心した。では、ちょっと味見をしてこようかな」
兄の視線の先には女性たちの集団が移っている。煌びやかな今風のドレス。コルセットから解放された彼女たちは清々しい様子で談笑しあっている。
それに眉間を寄せて、四角い顔をますます角ばらせたバリアが兄に念を押す。
「それは、駄目だ。今夜起きる不祥事は俺の責任になるんだからな? 謹んでくれ」
そうかと兄は呟き、恨めしそうに女性たちの方を見た。しかし未練を断ち切ったのか、バリアの方をパッと見た。
「冗談だよ」と兄が言うと「当たり前だ」とバリアが言ってまた大きく笑いあった。
そして兄が俺の方を見て手招きする。
「おい! リカルドもこっちに来い!」
そう言われたら、行かなければならない。俺は噴出しそうだった溜息を押し込めて、バリア・ダットネルの前に出た。
そして、思い切って声を出した。
「ああ……、誕生日おめでとう」思っていたよりも声が出なくて俺自身も驚きだった。
けれどもバリアはそんなこと気にした様子もなく、角ばる顔に笑顔を浮かべてそれに応えてくれた。
「ああ、ありがとう。お前はまた、一段とでかくなったなぁ」
そう言ってバリアは俺を見上げる。
そこで空かさず兄が小言を挿んできた。
「こいつ、親父を越えちまったんだぜ。ランスター中を探してもこの大男を越える背丈の人間は中々居ないんじゃないか? こいつがぶっ倒れでもしたら、バリアでも運べるかどうか」
面白おかしいと言った口調で言うので俺も噛み付くように言ってやる。
「兄さんは背だけは伸びなかったからね」
「何を」と兄は勇んで俺をにらみつける。俺はそれを気にせず、堂々と胸を張った。
それを見ていたバリアは腹を抱えて笑い、俺の胸を叩いた。
「でかくなっても中身は変わらねえな。安心した」
何を安心させたのかは分からなかったが、棘棘したものを感じることも無かったので、俺はそれを良しとした。
昔のことを彼は気にしていないようだった。俺はそれに安心した。
「そういえば、聞いたぞ。お前、親父さんの会社、一つ譲ってもらうんだって?」
兄がふと思い出したかのようにバリアに話題を振った。
その話は俺も聞いていた。ランス大学を主席で卒業し、銀行員として働いていたバリアの評判は頗る良かった。それはダットネル家の家名だけでなく、間違いなくバリアの実力があってこそだと皆が分かっていたからだ。
そんなバリアが銀行員から一経営者になるという話は級友の間のみならず、大人たちも期待を掛けていたのだった。
バリアは照れくさそうに後頭部を摩る。
「ああ、そうだ。小さい会社だがお前にやるってよ。でかくして見せろと親父殿は仰せだ」
「期待されてるな」と兄はバリアの肩を叩いた。
それに苦笑いを浮かべながら、バリアは言う。
「期待に応えるのも一苦労だが、遣り甲斐はあるかもな。これをでかくして経営を学び、独立して自分の会社を作ることが俺の夢だ。その最初の一歩だな」
「それは大きな一歩だな」兄はおどけた様子もなく、珍しく真面目な顔で言う。心境は俺も同じだ。目の前の男は確りと自分の志を持っているのだ。半笑いでも失礼だ。
それにバリアは大きく頷いて兄に向かって言った。
「ああ。その為にはダットネルじゃなくて、バリアという名に付いて来てくれる奴らを探さにゃならん。お前はどうだ? ユリアン。お前は俺がダットネルじゃなくても友人で居てくれるのか?」
「当たり前だろ。会社を潰したら俺のところに来いよ。暫く食わせてやる」それに兄は笑って応えた。
すると遠くの方からバリアと呼ぶ声が聞こえてきた。見れば、見たことあるような顔をした男女が立ち並んでいる。かつての級友だろうか、名前はなんだったか……。
バリアは一呼吸付くと、俺たちに向かってこう言った。
「色んな奴らが俺のところに来る」
「お前の主宰のパーティーだからな。それじゃあ、落ち着いたら」
そう言うって兄が片手を挙げると、バリアは頷いて男女の方へと歩いていった。
きっと先ほどの兄の大きな声も、あんな後ろ姿を見せながら応えてくれていたのだろう。主宰というのも大変である。
しみじみそんなことを考えていると、兄は自分の持っていた空のグラスを俺に渡して、俺の持っていワイン一杯のグラスを取る。
「ここからは自由行動といこう」
「はいはい。羽目を外しすぎないでよ」
その目先にしっかりと女性が移っていることを俺は見逃さなかった。けれども兄を止めることは俺には出来ないので、ただ釘を刺すだけに留めておいた。
だから俺は俺でパーティーを楽しむために、会場の隅の方へと移動した。
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