スズラン

久遠海音

スズラン

 祖母が亡くなりました。私の十六歳の誕生日を幾日か過ぎた日のことでした。

 祖母にはもっと生きていて欲しかったのに。神様は酷いです。

 祖母は厳しいけれど面倒見もよく、身内でも目を背けたくなるような厄介事にも自ら進んで首を突っ込んでいく人でした。その為他人からの信頼は厚く、急な葬式だと言うのに親戚や近所の人達は勿論の事、それ以外の人々も沢山来てくれました。くすには実に惜しい人でした。

 部屋中に響く木魚。黒縁の中で祖母は輝くばかりの笑顔を振りまいており、とても心筋梗塞で亡くなってしまったとは思えません。あれほど塩分を控えるようにと言われていたのに。悔やまれて仕方ありません。

 喪主として叔母樣が挨拶を行いました。ハンカチで目頭を押さえていますが、それでは追いつかないほど涙が溢れています。急な祖母の死に、この場に居る多くの人が瞳に涙を浮かべていました。

 ふと隣を見てみると、従弟のよっちゃんは顔を下に向けています。叔母様の子であるよっちゃんとは小学生ぐらいまではよく遊んでいました。週末には我が家に泊まりに来ていたので、私たちはまるで姉弟のような関係でした。今ではよっちゃんが部活で忙しくなったのもあり、以前のように遊ぶことはなくなりました。

 そんなよっちゃんと半年ぶりに再会したのですが、よっちゃんの背は高校生である私の背と同じくらいの高さになっていました。昔は私より低かったのに。よっちゃんとの様々な記憶が脳裏に巡ります。

 私が小学校一年生の頃の話です。叔母様と祖母とよっちゃんの四人でお祭りに行きました。その時、私とよっちゃんの二人で輪投げが出来る屋台に行きました。その店の景品には、なんとおもちゃの弓矢がありました。おもちゃなので吸盤がついている事は残念ですが、丁度アニメで弓を使った戦闘物のアニメが流行っていたのもあって、私もよっちゃんもおもちゃの弓を狙っていました。

先によっちゃんが輪っかを投げることになりました。よっちゃんは狙いを定め、慎重に投げます。しかし当たったのは駒でした。よっちゃんはすごくガッカリしていました。次に私が投げたのですが、一投目で見事おもちゃの弓を当てることができました。羨ましそうに私を見るよっちゃん。よっちゃんがとても可哀想に見えました。けれど私も欲しかった物ですから、簡単には譲れません。そこであることを思いつき、私はよっちゃんの耳元で囁きました。

「私と家でゲームしよう。よっちゃんが勝ったら、これ、あげる」

 よっちゃんは元気良く頷きました。よっちゃんの機嫌が直り、その後は皆で楽しくお祭りを過ごすことができました。家に着くと、早速二人は子供部屋に行きました。祖母も叔母様もリビングで寛いでいるため、部屋に居るのは二人だけです。私はゲームのルールを説明しました。

「私がこの弓で射るから、よっちゃんが矢を素手で捕るの。捕れたらよっちゃんの勝ち。捕れなかったら交代して、よっちゃんが射った矢を次は私が捕るの。私が捕れたら私の勝ち。これを二人の内どちらかが捕れるまで繰り返すの。公平でしょ?」

 よっちゃんは叔父様のように考えるポーズをとりました。そして、「わかった」と返事をしました。私はよっちゃんが承諾することを分かっていました。なぜなら、そのアニメには主人公が矢を素手で捕る場面があるからです。よっちゃんはいつもその場面になると目を輝かせて観ていました。

「よし。じゃあ、矢の先の吸盤は取った方がいいよね? 吸盤付いてると、ほら、手に吸盤が当たって捕り辛いし」

 わざと捕りづらそうに実演してみると、「あーそうだね」とよっちゃんは納得してくれました。そして私は吸盤を取り外してよっちゃんから離れると、弓を引きました。よっちゃんの左目を狙って。

「さあ、こーい!」

 準備満々のよっちゃん。私の心臓はドキドキしていました。以前から目が潰れたらどうなるのか興味を持っていました。瞳に突き刺さったままなのか、それとも風船みたいに目が弾けるのか。そのことが今、目の前で分かるかもしれないという思いがけないチャンスに体中の血が脈打ちました。

「いくわよ!」

 私は深呼吸をして高揚する気持ちを抑えつけながら狙いを定めて弦から手を離しました。

「イタッ!!」

 よっちゃんは叫び、左目を押さえています。刺さったのかと思いきや、矢はよっちゃんの横にありました。残念ながら刺さってはいないようです。しかし、よっちゃんは大きな声で泣きじゃくり出しました。

「大丈夫!?」

 どんな風になったのか気になり、堪らず駆け寄りました。どうやら瞼を怪我しただけのようです。左目の瞼から血が流れ出ていました。よっちゃんの泣き声に、祖母と叔母様が子供部屋に駆け、何が起こったのか問い詰めてきました。私はゲームの内容とよっちゃんが矢を捕れず・・・に怪我をしてしまったことを簡潔に話しました。二人はこっぴどく叱られ、罰として弓矢を取り上げられてしまいました。それに加えて、祖母は「二つも年上なのに危険なことが分からなかった罰だ」と言って、私だけ次の夕飯まで食事を抜きにされました。

 今現在中学生となったよっちゃんの左瞼には、まだあの時の傷が残っています。神様はよっちゃんの左目を奪いたくはなかったようです。その代わりに瞼の皮膚と肉と血を少しだけ奪いました。潰れた目玉を見たかったのですが、仕方ありません。これが神様が選んだ運命だったのだと潔く諦めました。それに、あの時のドクドクと真っ赤に染まるよっちゃんの手や血に濡れた顔の半分。十分面白いものが見られました。

 古き良き想い出に浸っていると、お焼香をあげる番が来ました。私は静かに立ち上がり、祖母だったもの・・に近づきました。

 死化粧をしてもらい、綺麗な姿で眠っている祖母。3歳から今まで私の親代わりをしてくれた大恩ある人です。私が3歳くらいの頃に交通事故で死んでしまった両親の代わりに____。

 私の記憶にはたった一つ、両親とどこか公園みたいなところで遊んだ記憶があります。しかし、その記憶はかなりうろ覚えで、彼らの顔はありません。そのため、両親の顔は写真の中でしか知りません。きっと良い人たちだったのだろうと、唯一の記憶と祖母たちの話からわかりました。『両親が生きてさえいてくれればどんな人生だったのだろう?』と全く考えなかったとは言いません。『母と父がいる生活はどんな風なのだろう?』想像し妄想するが、それを叶えることは絶対にできないと悟った時、くだらない事だと気が付きました。起こってしまったことはもう変えられない。全ては運命。神、否、神”様”が決めるものです。私如きのくだらない感情と行動で運命が変わることは決してないと出来事・・・により完全に理解できました。

 また自分自身が不幸な存在だと少しも思わなかったのも幸いとしているのでしょう。なぜなら引き取って世話をしてくれる人物___そう祖母がいたからです。

 祖父はもう既に亡く、祖母は若い頃に溜めた貯金と年金を上手く遣り繰りをしながら私を育ててくれました。私が立派な人間になるようにと、マナーを幼い頃から叩き込まれ、少しでも悪い言葉遣いをしたり、マナーを間違えたり、反論しようとすれば罰として暗い物置に閉じこめられ、機嫌が悪い時に声を掛ければ平手打ちを受けました。またどんなテストでも満点以外は認められることは無く、満点から実際にとった点数を引いた数だけ、棒で叩かれました。そして将来の為だといい、掃除洗濯料理などのほとんどの家事を任され、放課後に誰かと一緒に遊ぶこともできませんでした。ですが、そのおかげで顔の良くない私が「お淑やかだ」という理由で男の子からモテたり、友人がほとんどできない私でも同級生から尊敬の眼差しで見られ、先生からは一目置かれる人になれましたし、地元で一番頭の良い高校に入ることが出来ました。祖母には感謝しても足りないくらいの恩があります。しかし、最終的に祖母は何も恩返しをさせてくれませんでした。

 私の後にも次々と弔問客がお焼香をあげていきます。近所のおばさんから知らないおじさんまで多くの人があげていきました。その中には、見覚えのある大きな背中もありました。彼は振り返りお辞儀をすると、私と目が合いました。幼馴染の祐樹君です。高校は別々となったため今では偶にメールを送る仲でしかありませんが、中学まではカップルに間違われるくらい非常によく一緒にいました。一緒の委員をやったり、一緒に勉強したり。あの頃の記憶全てに祐樹君がいると言っても過言ではありません。

その中でも印象的だった出来事はとある夏休みの時に一緒に自転車で図書館まで勉強しに行った時の事です。普段の休みだと、祖母に家の事などで色々言われましたが、夏休みなどの長期休み中は図書館など勉学に関係のある外出だったら許され他ので、あの時も例外なく許されました。

 Tシャツが肌に張り付くほど蒸し暑く、早くクーラーのある図書館まで行きたいと二人で愚痴りあっていました。祐樹君が先頭を走り、その後ろを私が走っていて、自転車では登ることができないタイプの歩道橋が架かった十字路に出ようとしていました。とても開けた道で、手前にある車線は渋滞で埋まっているのが分かりましたし、その反対の車線はガラガラだったことも一目瞭然でした。手前の車線にいる車は、車が通れるようにルールを守って道を空けています。そのため、私達のような自転車でも通り抜けられるスペースは十分と言っていいほど空いていました。

「行けるかな?」

 祐樹君が言いました。どうやら彼は、そこを通る気満々のようです。私は確認のために逆の車線を見ると、車が見えました。その車はゆっくり走っていました。つまり、祐樹君は「その車がいるけど通れるよね」ってことを言いたいのだと理解しました。

「んー? どうでしょう? 行けるかもしれませんね?」

 と私が言った瞬間に、その車が猛スピードをあげました。祐樹君はのろい亀が兎に変化したことに気付いていないのか、立ち漕ぎしはじめました。

 その瞬間、私の脳裏には人が轢かれる姿が過りました。鼻息が荒くなっていくのが自分でも判ります。私はさりげなく距離をとり、何も知らない彼はどんどんスピードを上げて道路に出ようとしています。ただ遠足前日の幼稚園児のようにワクワクして、その時を待っていました。

 すると、甲高いブレーキ音と鈍い衝突音が辺りに響き渡りました。その瞬間、祐樹君の体は勢いよく車と衝突し、跳ね上がりました。くるくるとスローモーションのように横回転していきます。人形のように見えるその物体は、歩道橋と同じ高さまで舞い上がっていました。私の顔中に三日月形の笑みが広がるのが触らなくても分かりました。そして舞い上がった物体は鈍い音をたてながら地面に激突しました。心臓はまだドキドキしています。もしかしたら本当に意志・・ない・・物体になったのかもしれないと期待を抱きましたが、そんな期待は祐樹君が自力で起き上がろうとしている姿によって打ち砕かれました。どうやら肉塊になった訳ではなかったようです。私は左右をしっかりと確かめてから祐樹君の元へ駆けつけました。祐樹君は吃驚するほど正常でした。足が逆に折れ曲がっていることもなければ、頭から脳みそも飛び散っていません。まるでただ転んで怪我をした少年のような佇まいでした。

 一気に落胆しました。もっと面白いモノが見られると思ったのに、これではあんまりです。しかしそんな私の様子を見て、祐樹君は慰めてくれました。

「そんな顔すんなって。俺なんて逆にいい経験できたとか思ってんだからさ。人が横に回転するなんてなかなかできねーだろ」

 強がっているのか、本心なのかは量りかねますが、祐樹君はぽんぽんと私の頭を優しく撫でました。どうやら慰めてくれているようで、また彼の言う事は一理あると素直に感じられる説得力のようなものもありました。確かに人間があんな風に飛ぶ姿はなかなか見れるものでもありません。そして、あんなにも飛んだのに無事だったことの方が逆に奇跡珍しいです。十分私は事故素敵なショーを見ることが出来ました。それ以上を望むのは贅沢というものです。神様が祐樹君を死なせたくはなかった。ただそれだけの事です。

全ての人がお焼香を済ませ、葬儀が無事に終わりました。次は火葬場に行かなくてはなりません。死を弔う儀式が長過ぎだと辟易していると、祐樹君が話しかけてきました。

「久しぶりだな、あかり」

 祐樹君は私とは別の高校の制服に身を包んでいました。結構似合っています。

「まさか久しぶりの再会が、こんな風になるとはな」

 私は黙ったままでいました。なんと声を掛ければ良いのか分かりません。

「今は無理だと思うけど・・・早く元気になれよ」

 そんな日が来るのでしょうか。失ったものが大き過ぎます。私はスカートをギュッと伸ばしました。

「・・・辛い事があると、そうする癖があんの、お前、知ってた?」

 哀しそうに祐樹君は言いました。

「お前、ドジだからよく足とか怪我してたよな。最初は見られたくないからそれを隠しているだけだと思ってた。けど・・・そうじゃなかったんだな」

 まさかそこまで見られているとは。祐樹君の観察力には驚きです。

「もう・・・癖になってるみたいです・・・」

 ぼそりと呟いた言葉は上擦ってしまいました。自分が思っている以上に、祖母の死に動揺しているみたいです。祐樹君はあの時と同じように優しく頭をぽんぽんと撫でてくれました。

「なんかあったら、俺がいるから。遠慮なく頼れよっ!」

 私は頷きました。その反動で涙が溢れそうです。急に祖母がいなくなり、不安でたまらない私にとっては正に救いの言葉。

 もっと彼に慰めて欲しいという想いもありましたが、もうそろそろ火葬場に向かわなければなりません。それを伝えると、祐樹君は名残惜しそうに帰っていきました。


 霊柩車の後を追い、火葬場に着きました。すぐに竈に入れられた祖母は、焼かれている最中です。

 煙になり、灰になり、魂だけでなく、この世から祖母の肉体までもが消えかかっていますが、こんな火葬場のロビーでは全く実感が涌きません。只刻一刻と過ぎていく時間を無意味に過ごしていました。

 その時、叔母様が今後どうするか訊いてきました。正直全く想像できません。黙ったままでいると、叔母様は自ら切り出しました。

「よかったら、家で一緒に暮らさない?」

「え?」

 私は驚きました。てっきり祖母の家で一人暮らしすることになると思ってたからです。

「私、女の子が以前から欲しいと思ってたのよ。けど、できたのは息子だけだし。あかりちゃん知ってると思うけど、もう子供を産めない身体になってしまったし・・・」

 叔母様はよっちゃんを産んだ後、女の子を妊娠しましたが、残念ながら流産してしまいました。またその時の後遺症で子宮がダメになったと以前祖母から聞いていました。

「私、昔から娘と一緒にショッピングしたり、料理をしたりしたかったのよね」

 そう言えば叔母様は昔から女の子が欲しいと言っていました。私が6歳になったばかりの頃も嬉しそうにお腹の中の赤ちゃんの話をしていました。

「―やっと女の子が授かった」

 あの時の叔母様は本当に嬉しそうでした。

「大事にしなきゃ。流産なんか絶対しないようにね」

「りゅうざん?」

 難しい言葉に、私は首を傾げました。

「お腹の中から赤ちゃんがいなくなることよ」

 叔母様は幼い私に、言葉の意味を丁寧に教えてくれました。

「以前、陽太のときになりかけたのよね。だから今回は気を付けて、コーヒーは一日一杯までにしなきゃ。じゃないと、いなくなっちゃうからね」

「ふぇー」

 幼い私には摩訶不思議なことでした。女の人のお腹に別の命が宿ることも不思議でしたが、それ以上にその命が生まれる前に無くなってしまうことに強烈に惹きつけられたのです。

 ある時私は熱を出したのですが、状態が酷かった為、点滴をすることになりました。祖母が付きっきりで世話をしてくれましたが、食事のために一回離れており、その間にお医者様が様子を見に来てくれました。話好きのお医者様で、診察をしながら雑談を混ぜてくれ、話の流れで私はもうすぐ叔母様に赤ちゃんが生まれることを話しました。そして叔母様が好きなものを食べれなくて残念そうにしていたことも。

「妊娠中はコーヒーが一杯しか飲めないから残念だって言ってた」

「赤ちゃんには毒だからねー」

 お医者様は笑っていました。

「他にもダメなものってあるの?」

「んー、そうだね。基本的に体を冷やすものがダメなんだけど。意外と知られていないのがアロエかな?」

「アロエヨーグルトのやつ?」

 私もよく食べてる美味しいやつです。

「まあ、そうなんだけど」

 お医者様は苦笑しました。

「けどアロエヨーグルトは大丈夫だよ。逆に便秘中のお腹に良いぐらいだ。なんていうか、市販のアロエ食品って言ってもわかんないよな」

 私は首を縦に振りました。

「お店で売っているようなアロエ食品は大丈夫ってことだよ」

「なるほど!」

「アロエの皮が妊婦さんの体にダメで、流産の危険性を高めてしまうんだ。まあ、大抵お店のやつしか食べないから大丈夫だとは思うけど」

 お医者様は丁寧に説明してくれました。

「へー。じゃあ、お店・・売って・・・いる・・アロエ・・・安全・・お腹・・良い・・んだ」

 私はわざと改めて言い直しました。

「そうそう」

 お医者様はその言葉に頷きました。

 すっかり元気になった頃、祖母と一緒にお花屋さんに来ました。そしてお店・・売って・・・いる・・アロエ・・・を見つけました。

「おばあちゃん、アロエを買おう! 妊婦さんのお腹に良いんだってお医者さんが言ってた」

「お医者様が? じゃあ、一鉢買ってあの子に贈ってあげましょう」

 祖母は叔母様にアロエを鉢ごとプレゼントしました。叔母様は喜んでいました。「これで便秘が良くなるかも」とにこにこしていました。私もにこにこしていました。もっと面白いものが見られることを期待していました。

 その日は雨でした。祖母が電話を取ると、祖母の顔が急に強張りました。そして電話を切ると、祖母は私と目線を合わせて言いました。

「あかり。落ち着いて聞くのよ。あの子の赤ちゃんなんだけど・・・いなくなってしまったの」

「え?」

 それはとても突然のことでした。叔母様が昨日まで笑顔で話しかけていたモノが無くなった、と祖母は言うのです。

 祖母と共に病院に駆けつけると、今まで笑顔に溢れていた叔母様の顔が、瞳には何も映していない、全くの無でした。しかしお腹の膨らみは以前と同じで、赤ちゃんはまだいるように見えました。

「本当にお腹にいないの?」

 素朴な疑問を訊いただけでしたが、叔母様の目からじわじわと涙が滲みました。そして私を睨みつけると、枕を投げつけてきました。

「ア ン タ の せ い で !」

 叔父様は他にも投げようとする叔母様を必死で抑えつけようとしていました。私は野蛮だ、と思いました。人に物を投げつけるとは、もはや猿並みの知性です。そう思われても可笑しくないくらい、叔母様は錯乱していました。

「ちょっと、あかり! ごめんなさい。フォロー、お願いね」

 祖母に頼まれた叔父様は頷き、叔母様の身体を押さえ続けました。私は祖母に車の中に連れて行かれ、「ああいうことは言ってはダメだ」と懇々と説教されました。

「いい? 赤ちゃんはね、神様のもとへ行く運命さだめだったの」

「かみさま?」

「きっと赤ちゃんも神様の元で元気にしてるわ。だから、気にしちゃだめよ、あかり」

 祖母の目からは悲しみが伝わってきました。どうやら祖母は私の真意・・に何も気が付いていないようです。しかし祖母の言葉は、幼い私にも不思議とすんなりと心の中に落とし込まれました。いくら私がアロエを渡したといっても、それを叔母様が本当に食べるのかは分かりません。またアロエは流産の可能性が上がるだけの食べ物で、本当にそうなったからといって全てを私のせいにするのはお門違いというものです。叔母様にも選択肢は存在していたのだから、恨むとしたら自分自身か神様しかいません。だから祖母の言ったことは正しい・・・と幼いながらに思いました。両親が事故で死んだのも、赤ちゃんが死んだのもそう。『この世界は神様が全て決めている』だから私が何をしようともそれは覆らないことであり、何もしなくてもそうなっていたに違いありません。人間の些細な行動で運命が決まる訳が無かったのです。

 それにしても、流産・・とはとてもつまらないものでした。見た目には何にも変化がありません。ただ、優しかった叔母様がここまで乱れる姿は滑稽ではありましたが。しかし流産する瞬間が見たかっただけなのに、それが見れなかっただけでなく、痛い思いもするなんて最悪です。これも神様のお導きなら仕方がないと言えばそれまでですが、納得のいかない結果であり、一番つまらない結果でもありました。

 叔母様はそれからしばらくの間は祖母の家には寄り付きませんでした。しかし吹っ切れたのか、再び我が家に訪れるようになり、私にも笑顔を向けてくれるようになりました。そして今では私を娘の代わりとして育てると言うのです。『娘』というのはそんなに欲しいものなのでしょうか。有難いことではありますが、叔母様の思惑がどういったものなのか私には判断しかねます。

「ほら、特にあかりちゃん、料理上手じゃない? 絶対楽しそう」

「・・・小さい頃から教えられましたので」

 祖母に「女はやっぱり料理が出来なきゃ一人前ではない」と言われ、幼稚園の頃から包丁を握っていました。最初は「塩辛い」「味が濃い」とか言われましたが、段々と言われなくなりました。

「でも、おばあちゃんは最近、味が薄いって。自分の分だけ醤油や塩を勝手に入れてたんです。私がもっとちゃんと止めていれば・・・」

 涙が再び込み上げてきました。しかし、叔母様は力強くそれを否定しました。

「おばあちゃんが死んだのはあかりちゃんのせいじゃないのよ! あかりちゃんは充分努力してたじゃない。この間、あかりちゃんの料理食べたけど、ちゃんと減塩していて、それにもかかわらず美味しく出来てたわ。まだ十六歳なのに立派なもんよ」

 私は俯きました。少し照れます。

「おばあちゃんも困ったものだわ。昔は薄味嗜好だったのに。なぜか最近濃い味が好きになった様で、外食に行っても調味料を必ずかけるし。死んだ人の事を悪く言うつもりはないけど、自業自得ってやつよ。昔のまま薄味好きだったら、今も元気だったのに」

 叔母様も涙が堰を切ったように再び流れ出しました。

 確かに祖母は昔から薄味が好きな人でした。そのため幼稚園の頃に教えられた料理は、薄味になる様なレシピばかりでした。しかし、その頃の私は濃い味も好きでしたので、醤油や塩などの調味料を多めに使っていました。祖母はそれに対し、「濃すぎる!」と厳しく非難しました。けれど捨てる様な勿体無い事はしませんでした。「どんな食べ物も決して無駄にしてはいけません。世の中には今日食べるものさえない人たちもいるのだから」と言って、戦争で苦労した祖母はどんな料理も残さず食べました。

 そこで良い考えを思いつきました。どうしても祖母にも濃い味の料理を好きになってもらいたかった私は、段々と味の濃い食事にしたり、偶に祖母好みの薄味の食事を挟むことで、祖母の味覚をコントロールしようとしました。すると最初は「濃い」と言っていた味付けも中学生になる頃には何も言わなくなりました。

 逆に以前祖母が大好きだった薄味にすると、「薄すぎる!」と文句を言い、自分で調味料を足していきました。とうとう祖母を濃い味好きにさせることができたのです。

 しかしその後に受けた健康診断で、「高血圧気味だから、塩分を控えるように」とお医者様に言われてしまいました。とても残念なことだけれども、私はそれに従い、薄味の料理ばかりを作るようになりました。しかし、それでも祖母はその料理に調味料を追加していきました。予想・・とはいえ、とても哀しいことです。せっかく私が作った料理をそんな風にしてしまうなんて。けれど仕方ありません。祖母に恩返しするには必要な過程だったのですから。

「それにしても、心筋梗塞だなんて。前は健康が自慢の人だったのに」

 涙を流しながらも叔母様は話し続けます。まだ祖母が死んでしまったという事実が信じられないとでも言いたげでした。

「そうですね。私も今でも信じられません・・・」

 なぜ心筋梗塞なんかを起こしたのでしょうか。私の予定では今ごろベッドで横たわる祖母がいたはずなのに。

「塩分ばかり摂るからあんなことに」

 塩分ばかりを摂れば、脳梗塞になるとテレビで言っていたのに。

「私は、おばあちゃんに何の恩返しもできませんでした」

 熱いものが込み上げてきます。私は半身不随になった祖母に、今までの恩を返そうと思っていました。

 脳梗塞を起こし、半身不随になった祖母。そんな祖母にご飯を食べ差してあげたり、リハビリの手伝いをしていきたいと思っていました。ご飯を溢したら、怒ってあげ、綺麗に食べるように罵倒し続けたり、リハビリがノルマ通り出来なかったら、できるまで折檻し続けてあげたりと、祖母が私にしてくれたように、私も祖母をそのように扱うことで、今までの恩を返すつもりでした。それなのに、祖母は心筋梗塞を起こし、そのまま亡くなってしまいました。なぜこんな死に方をしなければならなかったのでしょうか。こんな急すぎる死に方では納得の出来ない人も多いでしょう。どうせなら、もっと劇的な死に方をしてくれたほうが面白かったのに。退屈すぎる。

 しかし、これは神様が選んだ裁きでもあります。無理にでも受け入れなければなりません。それでも大きな存在を失った悲しみは、私の涙を止めてくれませんでした。

 


 叔母様もまだ泣きじゃくっています。私はさっきの叔母様の提案について考えました。叔母様の真意は窺い知れませんが、叔母様の家は今の家より通っている高校が近く、とても通いやすいところに位置していました。それに叔母様は三人家族で、叔父様も気の良い人だし、よっちゃんとまたあの頃みたいに仲良くできるかもしれません。とても好条件です。

 また何より祖母という大きな存在を失った今、早急に頼れ人物を探さなければなりません。

 どう考えてもこれが一番ベストでした。

「あの・・・えっと、その、叔母様のお家に、厄介になってもいい・・・ですか?」

 恐る恐る叔母様に聞いてみました。すると、叔母様の涙でぬれた顔が、一気に満面の笑みに変わりました。

「もちろんよ!」

 これも神様のお導きか、これからは叔母様の家族と仲良く・・・暮らしていかなければなりません。十分に気を付けて生きていこう愉しもうと思います。

 そうこうしている内に、祖母が焼けたようです。こんがりジューシーな焼き加減、というのが本当の望みですが、ここは火葬場。そういう訳にもいきません。それでも人が灰になった姿でさえ、私は今まで見たことがないのです。私は逸る気持ちを抑えてはいましたが、つい誰よりも早く祖母遺灰の元へ行こうとしてしまいます。

 この時、ロビーに残った人たちが何かを言ったようでした。しかし小さい声だったため、ロビーからはるか遠くに離れた私の耳には残念ながら届きません。少し気になりはしたけど、それよりも灰が見たい。にやけそうな顔を必死で抑え、祖母だったものの元に向かいました。



 あかりは颯爽と遺灰の元に向かった。誰よりも早く。その他の親戚類も重い腰をあげながら、あかりと同じ場所に向かう。叔母も同様に。しかし先程まで満面の笑みであかりと話していた彼女の顔は見る見る内に真顔、否、嫌悪感の満ちた顔付きになっていく。そして、強く噛み締めた唇から血と言葉が零れ落ちる。

「この、悪魔が」

 ギラギラとした眼が見つめる先には、あかりがいた。その眼差しと言葉に気づくものは誰一人としていなかった。

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スズラン 久遠海音 @kuon-kaito

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