「賞」って一体、、、蓮實氏の三島由紀夫賞受賞会見を見て生じた疑問

蓮實氏の三島由紀夫賞受賞会見の件。


私は最初、蓮實氏の言動を「自分の様に老いた者よりも若者にチャンスを与えてやって欲しい」という様な受け取り方をしていた。


そして、それはそうなのかもしれないが、ノミネートの段階で打診があり、そこで断る事が出来るという事を私は後から知った。


そうであるならば、受賞会見であの様な発言をするよりも、ノミネートの段階で断る方がマナーとして、いい様には思った。


しかし、もし、ノミネートの段階で断ったら、その過程は我々一般人には知らされないまま「若者にチャンスを」というメッセージは伝わらないのかもしれない。


勿論、どの様な主張であれ、ルールやマナーまで破る事には疑問を感じはする。


だから、事前に打診があるのであれば、そこで断るべきだとは思う。


その上で主張すべき事があるのであれば、別の手段で主張すべきなのではないか。


あの様な場であの様な言動は、ちょっと大人げない様にも思う。


でも、そこで「賞」というもの自体に疑問が出てきた。


事前に「賞」を受ける気があるのかの打診がある事が、どうなんだろう。


「賞」を受ける気のある者にしか、「賞」を与えないというのであれば、それはある意味、出来レースだよね。


そんな出来レースの結果だけを知らされて、我々市民はその結果を鵜呑みにしていいのだろうか。


そもそも「賞」というのは成果に対する評価のはず。


その評価は評価する側の問題だろう。


評価を受ける側の意向に左右されるものではないと思う。


あくまでも「賞」を与える側の評価としての「賞」なのだ。


それを相手の意向に左右させてしまったら、自らの評価を否定する事にもなるだろう。


「賞」を与える側の評価は、それはそれでいい。


その上で評価される側が、その評価をどう受け取るか。


素直に「賞」を受け取ってもいいし、評価に対する異論や不満がある場合は「賞」を辞退する事も選択肢になる。


それが本来あるべき「賞」の姿なのではないか。


そして我々が見たいのは、決して出来レースの結果ではない。


それぞれの評価が見たいのだ。


「賞」を与える側の評価。


「賞」を受ける側は、その評価を評価する。


それらを見た上で、我々市民も一人一人、自分で評価をする。


そうあるべきではないのか。


少なくとも私はそう思う。


転載元URL(2016.5.19)

http://next.spotlight-media.jp/article/282336377639903334

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