2 病室のキャンバス

 翌日の朝、本当にひとみちゃんはいつものように、俺の病室にやって来た。

 

「今度はそう簡単に退院できるわけないんだから……美術室から取ってきてほしい物があったら持ってくるけど?」

 

 俺のほうを見ようとはせずに、テキパキと荷物の整理をする背中に、俺は遠慮なく申し出た。

 

「それじゃお言葉に甘えて……水彩の道具全部持ってきて……イーゼルも含めて、いつもひとみちゃんが描いてるくらいの用紙サイズで……」

 

 ピクリとセーラー服の肩が揺れた。

 

「私に一人で持ってこいって……? 学校からここまであのサイズのイーゼルを?」

「あ……無理ならいいんだよ?」

 

 途端、ひとみちゃんは長い髪を揺らしてこちらをガバッとふり返った。

 

「持ってくるわよ! 持ってくればいいんでしょ? ぜんっぜん平気よ!」

 

 負けず嫌いの性格をもろに発揮して胸を逸らす姿を目にしたら、お腹を抱えて笑わずにはいられなかった。

 

「なによ、バカ海里!」

 捨てゼリフを残して病室から去って行く背中に、俺は頭を下げた。

 

「ありがとう! ひとみちゃん!」

 心から下げた。



 

「まあ今回はちょっと無理をし過ぎたって自分でもわかってるだろうし……幸いひどい発作にはならなかったから良かったけど……もしまた今度こんなことがあったら、もう外出許可は出さないぞ……?」

 

 検診にまわってきてくれた石井先生は冗談めかしてそんなことを言ったけれど、その瞳はいたって真剣だった。

 

『もしまた今度』のあとが、本当は外出許可の話なんかではなくて、俺の命の期限なんだってことが、痛いくらいによくわかる。

 

「無茶をするなよ……」

 

 いつものように頭を撫でてくれる大きなてのひらが、先生のちょっと違った感情を宿して小さく震えていることに、俺は気づかないフリをする。

 微塵も気づいていないフリをする。

 

「はい。すみません」

「なんだ? 今日はやけに素直だな?」

「俺はいつだって素直ですよ……」

 

 浮かべた笑顔が上辺だけのものだと気がつかれないように努力した。

 

「お大事に……」

 病室を出て行く先生の背中を見送って、俺は目を閉じて自問自答する。

 

(後悔してるか……?)

 

 真実さんと出会って恋したこと。

 無理して彼女と会ってたこと。

 彼女のためにサヨナラを決めたこと。

 最後の最後にあんな別れ方をしたこと。

 

 胸に痛い想いはいっぱいあっても、後悔は何ひとつない。

 たとえその全てが俺の命を縮めるとわかってたって、もう一度その場面に立たされたなら、俺はまちがいなくこれまでと同じ道を選ぶだろう。

 

(だからいい……!)

 

 きっとこれが最後のチャンスだろうけど。

 もう一度大きな発作を起こしたなら、その時は命の保証はできないと先生に宣告されたようなものだけど。

 

 自分にできるせいいっぱいで、俺は残された日々を生きる。

 

 窓際の日当たりのいい場所に、ひとみちゃんが額に汗を浮かべながら、高校の美術室から運んできてくれた絵の道具はセットしてあった。

 

 本当は日陰で描いたほうがいいのはわかっているけれど、その絵だけはできれば青空の下で描きたかった。

 それがかなわないから、せめて空が見える場所で――。

 

 目を閉じれば色鮮やかに甦ってくる光景と、切ないばかりの彼女の姿。

 ――俺の頭の中のキャンバスに、あの日確かに焼きつけた物を、形ある物として残しておきたい。

 できるだけ早く。

 

 焦燥感にかられたこの思いは、確かに自分の命が残り少ないことを本能で嗅ぎ取っているからこそなのかも知れないが、そんなこと今はどうでもよかった。

 

 とにかく一刻も早く仕上げてしまいたかった。

 体が俺のいうことを聞いてくれているうちに早く――。

 

 ベッドの横の壁に貼られたカレンダーに目を向ける。

 もう八月も中旬。

 急がなければならない。

 

(確か九月……それも入ってすぐ……!)

 

 フェリーのターミナルで乗船手続きをしていた時、何気なく目にした彼女の誕生日。

 その日にこの絵を贈りたかった。

 

 自分に関するものなど、何ひとつ彼女に残さなかった俺だけど、俺の目に映った彼女の姿ぐらいは絵として残してもいいんじゃないだろうか。

 

 もし彼女がまたあの海を懐かしく思い出す時があったら、すぐに引っ張り出して見れるように、手元に置いてあげたい。

 

(それが最初で最後の、俺からのプレゼントだよ……)

 

 今だってすぐ身近に感じることができる彼女のことを想いながら、ずっと繋いでると約束した左手を空に透かし見た。

 照りつける太陽が眩しくて、空はあの日と同じように青が濃かった。



 

 半月間、絵筆を握る以外はベッドの上でおとなしく過ごし、俺はその夜僅かな外出時間を得ることに成功した。

 俺の希望するままに、こんな変な時間にも許可を貰えるなんて、もう自分には残された時間がないと宣告されたようなものだが、俺は敢えて気がつかないフリをし通している。

 

 以前はしきりと

「変じゃない? 変じゃない?」

 とくり返してひとみちゃんも、さすがに最近では、もうそれを口には出さなくなった。

 

 唇をギュッと噛みしめて何らかの感情を押し殺そうとしている姿を見ていると、俺自身もどうしようもなく胸が痛くなってくるから、そういう時はお互いに目をあわせないように努力している。

 どちらからともなくそうしている。

 

「そんな時間にどこに行くのよ?」

 なんて以前だったらまちがいなく怒鳴られたことも、もうひとみちゃんの中ではとっくに察しがついているらしい。

 

 だからこそなおさら、もう無理をしてはいけないような気がする。

 俺のわがままを許してくれている周りの人たちに、せいいっぱい感謝の気持ちを捧げるためにも、俺は目的を果たしたらさっさと帰ってこようと心に決めていた。

 なのに――。

 

 通い慣れた真実さんのアパートの近くにタクシーを乗りつけて、いつもの場所まで歩いて行ったら、もうその場所から一歩も動けなくなった。

 何度も何度も、彼女を待って朝ひと時を過ごしたその場所が、こんなに懐かしい。

 もう一度あの日々に帰りたいと俺の心が叫ぶ。

 

(でもそれは無理だ……!)

 

 諦めの思いを噛みしめて、仰いだ夜空に星は見えなかった。

 あの夜、真実さんの故郷で、二人で見上げた降るような星空はもう二度と見れない。

 だから――。

 

 準備していたプレゼントの袋をそっと玄関前に置いて帰ろうかとしたその時、ふいに真実さんの部屋の扉が開いた。

 慌てて隣の部屋の洗濯機の陰に身を潜めた俺の目の前を、他ならぬ彼女が通り過ぎていく。

 

(真実さん!)

 

 その場から飛び出して抱きしめてしまいたい衝動を、俺は必死にこらえた。

 

 およそ一ヶ月ぶりに見た彼女は、また少し痩せてしまったように感じた。

 けれど暗い外灯の下、少しきょろきょろしながら通りへと出て行く横顔は、やっぱり何度見ても恋せずにはいられないくらい綺麗だった。

 

(真実さん!)

 

 声をかけたくてもそうできない辛さを必死に我慢しながら、思いがけない邂逅が発作に繋がったりしないことだけを祈る。

 ドキドキとどうしようもなく脈打つ心臓を、落ち着けることに専念する。

 

(大丈夫……大丈夫だ……!)

 

 静かに言い聞かせながら、遠くなっていく小さな背中を見送った。

 妬けつくような気持ちで見送った。

 

 真実さんが帰ってこないうちにプレゼントの絵と花束が入った袋を彼女の部屋の前に置いて、俺はその名残惜しい場所に背を向けた。

 真実さんが外に出ているので、帰ってきた時にきっと気づいて貰えるだろうと思えることがありがたかった。

 

(どんな顔するかな? 喜んでくれるかな?)

 

 彼女の反応を予想しながら、ワクワクした気持ちで待たせていたタクシーに乗りこもうとした時、遠くで真実さんの声がしたような気がした。

 

 足を止めてふり返る。

 確かにもう一度「海君!」と俺を呼ぶ声がした。

 

 駆け出そうとした足を意志の力で踏み止めて、首を振る。

 何度も何度も振る。

 

(ダメだ! もう会わないって決めただろ! ダメなんだ……!)

 

 ドキドキと鳴り始める心臓を落ち着かせようと左手を胸に押し当てながら、断腸の思いでタクシーに乗りこむ。

 

 プレゼント見つけて、すぐに俺からだって気がついてくれた。

 そしてすぐに俺を探そうとしてくれた。

 

 きっと泣き虫な真実さんは、泣きながら俺を探してる。

 なのになんで俺は背を向けなくちゃならないんだろう。

 彼女から逃げるように帰らなくちゃならないんだろう。

 会いたい。

 本当はこんなに会いたいのに――! 

 

「くそっ……!」

 

 口の中だけで呟いて奥歯をギュッと噛みしめたら、涙が零れた。

 膝の上で握りしめたこぶしの上にいくつもいくつも、まるで彼女に伝えることはできない俺の本心のように、ポロポロと涙が零れ落ちた。

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