第十二章 残したいもの、護りたい人

1 目覚め

 誰かが俺を呼んでいる。

 遠く聞こえる声は誰のものなのかわからない。

 けれど確かに、必死になって俺を呼んでいた。

 

「もういいよ……」

 と思う気持ちと、

「戻らなきゃ……」

 と思う気持ちが拮抗する。

 

 ほんの少し前だったらまちがいなく、俺は持てる気力の全てを、目を開けてもう一度起き上がることに費やしていただろう。

 ――でも今は、その気持ちが薄い。

 

(だって……もう会えない……!)

 

 自分から背を向けてしまった人のことを思うと、胸が痛い。

 

(だから、もういいんじゃないかな……?)

 

 ついつい全てを諦めてしまうほうに、心が傾く。

 でも――。

 

「海君!」

 

 俺を見て微笑む彼女の面影が、まだ記憶に新しすぎた。

 俺を呼ぶ声もまだ耳に残っている。

 繋いだ手の感触も、抱きしめた華奢な体の柔らかさも、まだあまりにも鮮明すぎるから、まだ全てを捨てきれない。

 諦めてしまうなんてできない。

 

 ゆっくりと目を開こうと努力する。

 体のどこの部位に力を入れたら、もう一度起き上がれるのか――今は記憶さえもあやふやだけど、とにかく動こうと心を決める。

 

 気持ちのほうが固まると、不思議とさまざまなことが思い出された。

 

「どうやったら真実が幸せになるのか、ちゃんと考えてくれ……」

 貴子さんの忠告と、

 

「真実のとっておきの場所を教えてあげる……だから、真美のことをよろしくね」

 愛梨さんとの約束。

 

 そして――。

 

「朝になってこの手を放す時が来ても、俺はやっぱり繋いでるから……いつまでも……心の中でだけは繋いでるから……」

 まだ真実さんと繋がっている俺の左手。

 

(そうだ……まだ終わってなんかいない……彼女のためにできることが、俺にはまだきっとあるはずだ!)

 その思いが俺の力となる。

 

「海里! 海里!」

 誰のものかわからなかった声が、兄貴の叫びだと認識できた。

 

「海里……!」

 涙混じりのひとみちゃんの声も聞こえる。

 

(ああ……心配させてるなぁ…)

 

 俺なんていついなくなってもいいと、自分で勝手に決めていた命だけれど、周りの人の気持ちを考えるなら、そんなに簡単に諦めていいはずがないんだ。

 たとえかっこよくなくたって、みっともなくたって、もっともっと生にしがみついていいんだ。

 

 真美さんと出会ってから、俺はそう学んだ。

 

 だから努力する。

 俺を呼ぶ人の所に帰れるように。

 少しでも長く生きれるように。

 

 ゆっくりと瞼を開いた先に見えたのは、見慣れた病院の天井と、涙でぐちゃぐちゃになった兄貴とひとみちゃんの顔だった。

「…………」

 

 しゃべろうと思って口を開いたけれど、声にならない俺の口元に、

「何?」

 ひとみちゃんが耳を近づける。

 

 ふっと小さく笑いながら、

「ひとみちゃん……すごい顔……」

 告げた俺に、ひとみちゃんはカアッと赤くなって二、三歩後ろに飛び退った。

 

「バ……バカ海里!」

 いつもと同じ怒鳴り声が嬉しくて、俺は微かに笑った。



 

 フェリーのターミナルで倒れてから、三日が経過していた。

 三日間も昏睡状態だった俺を、ほとんど眠らずずっと見守ってくれていたひとみちゃんに、開口一番口にした言葉が『すごい顔』っていうのは、さすがに申し訳なかったと、あとで思った。

 

「別にいいわよ! あんたはしょせんそういう奴よ!」

 

 プリプリと怒りながらも、ひとみちゃんが毎日学校の行き帰りに立ち寄ってくれるようになる頃には、俺は集中治療室からいつもの病室に移動させられていた。

 

「ごめん……ご心配おかけしました……」

 率直に頭を下げても、

 

「ふん!」

 あまりに怒りが大きすぎたのか、ひとみちゃんがいつものように照れて動揺してくれない。

 

「心配かけすぎなのよ! フェリーに乗ってたなんて、私だけじゃなくって、陸兄だって、石井先生だって知らなかったっていうじゃないの……! いったいどういうつもりなのよ! ……ほんとにバカじゃないの!」

 

 まさしくグウの音も出ない。

 みんなに内緒で勝手な行動を取って、その挙句に発作を起こして倒れてたんじゃ、確かに周りの人たちはやってられないだろう。

 

「ゴメン……」

 何度目か頭を下げた俺に、ひとみちゃんははあっと大きなため息を吐いた。

 

「別に隠しごとしたっていいけど……せめて行き先ぐらいは嘘つかないでよ……お願い……」

 いつになく静かな口調で言われるから、かえって心にグッと来る。

 

「うん……ゴメン……」

 神妙な顔でもう一度頭を下げた俺に、ひとみちゃんは真っ直ぐ向きあった。

 

「ねえ海里……」

「うん……?」

 

 何かを言いかけてはやめ、また口を開こうとしては思い止まり。

 ひとみちゃんはなかなかその先に続くはずのセリフを口にしない。

 

 何を聞かれるのか先を読もうにも、もうあまりにも心当たりがありすぎて、俺のほうから切り出すのも難しい。

 

 静かに待ち続けるだけの俺をじっと見ながら、ひとみちゃんはらしくもなく小さな声で囁いた。

「やっぱり好きな人がいるでしょ……? 倒れる前……フェリーでその人と一緒だった?」

 

 かろうじて、一番して欲しくない質問をぶつけられることは免れたが、その質問だって答えにくいことには変わりなかった。

 

 でも真剣なひとみちゃんをこれ以上ごまかすのは悪い気がしたし、何より、俺の真実さんへの想いが、そんなに隠しだてしなければならないものだとは思いたくなかった。

 

「うん」

 隠しもごまかしもしないで頷いたら、ひとみちゃんはギュッと両目を閉じた。

 

 てっきりいつものように「バカじゃないの!」とでも怒鳴られると思っていた俺は、ハッとした。

 

(ひとみちゃん……?)

 

 そしてその驚きは、次の瞬間、彼女の頬を伝ってぽたぽたぽたと零れ落ちた大きな涙を見て、さらに大きくなった。

 

「ひ…とみちゃん……?」

 

 呼びかけた俺になんの返事もせず、ひとみちゃんは自分の手の甲で涙を拭いながら、全速力で病室を出ていく。

 

 走って追いかけることのできない俺は、必死になって声をかける。

「ひとみちゃん!」

 

 彼女はまったくふり返りもせず、俺の病室を出ていった。



 

『ひょっとしてひとみちゃんは、単なる従兄妹として以上に、俺のことを想ってくれているんじゃないか』

 

 そう考えたことは、これまでにだってある。

 でもそのたびに俺は、その考えを全力で否定してきた。

 

(そんなはずない! そんなはずはないよ!)

 

 無視してごまかし続けてきたツケが、今、全部俺にのしかかる。

 

(くそっ! こんな状態じゃ追いかけることだってできやしない!)

 

 いっそのこと、腕についた点滴を引き抜いて追いかけようかなんて、とんでもないことを考えた時、天の助けが現われた。

 

「よっ! 海里! どうだ? 調子は?」

 何の気なく、いつものように笑顔でひょっこり病室に顔を出した兄貴に、俺は夢中で訴えた。

 

「兄貴! ひとみちゃんが……!」

 どうしたとも、どうして欲しいとも言わないうちに、

「わかった!」

 と叫んで、兄貴が駆けだしていく。

 

 その頼もしい背中を、俺は苦しい思いで見送った。

 

 

 数十分後。

 病室に帰って来たのは兄貴のほうだけだった。

 

「ひとみちゃんは……?」

 なんて俺が問いかけるより先に、兄貴は笑顔で語りだす。

 

「今日はもう帰るってさ……明日また来るって言ってたぞ……」

 心からホッとした。

 

 ひょっとしたらもう俺のところには来てくれないんじゃないかなんて、――それをとても心配していた自分を自覚する。

 

「わかった。ありがとう……!」

 俯いた俺の頭を、兄貴がポンと軽く叩いた。

 

「気にすんな……! お前がいつもどおりじゃないと、ひとみが気まずいだろ?」

「う、うん……」

 

 いったいどこまでわかってて話してくれているのか、見当もつかない。

 兄貴には俺たちの何もかもが筒抜けな気がする。

 

「あいつだって、本当はとっくにわかってる……いつまでもお前を卒業しないままじゃダメなんだって……大丈夫……そのうちお前のほうが寂しくなるくらい、呆気なく他の男のところに行ってしまうよ……!」

 

「そ、そうかな……?」

 それはそれで、なんだか嫌だと思ってしまうこの心境はなんなのだろう。

 

 小さな頃から一番身近にいた存在が、遠くに行ってしまうような寂しさ。

 自分とは関係ないところで、新しい関係を築き上げていくことに対する焦燥感。

 

 ひょっとしたらひとみちゃんが俺に感じていたのも、こんな感情なのかもしれない。

 

 複雑な心境で考え続ける俺の耳に、思いがけない言葉が飛びこんでくる。

 

「まあ……ひとみの場合は大丈夫だよ……お前が大好きだって部分も含めて、ずっと見守ってる男がちゃんといるから……」

 

「あ、兄貴……?」

 ハッとして顔を上げた俺に、兄貴はいつもどおりの笑顔で、パチリと片目をつむってみせる。

 

「海里が大好きなひとみが、俺は大事なんだから……」

 

 本当に頭が下がる思いだった。

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