2 束の間の夢

 もう真夜中に近いというのに、二階建ての小さな木造アパートの見慣れた窓には、明々と灯かりが点いていた。

 中から時折聞こえて来る賑やかな声に、

(ああ。みんなが真実さんのところに集まってるんだな……)

 と、なんだか安堵する。

 

 俺が傍にいなくたって、真実さんの日常は何事もなかったかのように、いつもどおりに過ぎている。

 ――そのことが嬉しかったし、寂しかった。

 

『もしも俺の人生が今日突然に終わったとしても、悲しみ過ぎる人なんていないように――!』

 

 その思いは、今でもずっと変わらずやっぱり俺の一番の願いだし、そのためにいつかは真実さんとも離れなければならないと、自分でも決めている。

 

 だから『しばらく会えない』と俺に言われても、真実さんが楽しくやっているのなら、それは良いこと以外のなんでもない。

 それは確かにそうだ。

 そうだけど――。

 

(あーあ。そっか……)

 やっぱり寂しく思ってしまう自分がいる。


(俺が真実さんを必要としているほどには、真実さんは俺のことを必要としていないんだな……)

 そんなふうに思うと、こんな時間にこんなところに立っている自分の行動が、とんでもなく愚かに思えてくる。

 

 見上げた空には、病室のカーテンのすき間から見えていたのと同じ月が、煌々と輝いていた。

 

(帰ったほうがいいかな……?)

 そう思うのに、足が動かない。

 笑い声に混じって時々聞こえてくる真実さんの声が、俺の足をこの場所に縫い止めてしまって放さない。

 

 目を閉じて意識を集中すれば、瞼の裏には彼女のいろんな表情までありありと浮かんできた。

 

(こうやって……しっかりと姿は思い浮かぶ……でもやっぱり会いたいな……)

 そんなことを考えた時、偶然にもアパートのドアが開く気配を感じた。

 

 閉じていた瞼をゆっくりと開いてみると、そこには確かに、俺があんなに会いたかった人が立っていた。

 すぐに俺を見つけてひどく驚いた顔が、見る見るうちに笑顔になるから、俺もついつい笑ってしまう。

 

「海君!」

 頭の中でくり返しくり返し思い出していた以上の飛びっきりの笑顔が、一目散に俺の腕の中に飛びこんできた。

 

「あんまり長い間会えないと、真実さんが寂しがると思って……」

 会いたくて会いたくて我慢できなかった自分の想いは棚に上げて、からかうようにそんなことを言うと、真実さんはちょっと怒ったように俺を上目遣いに見上げる。

 

 そこから始まるはずの

「そんなことは……!」

「あるんでしょ?」

 というやり取りは、俺たちの中ではすっかり習慣みたいになりつつある。

 それなのに――。

 

「うん、会いたかった」

 いつになく真実さんが、俺の言葉をあっさりと認めてしまった。

 

 ドキリと跳ねた胸とは裏腹に、俺の口は落ち着いて、すぐに返事をする。

「俺もだよ」

 その相変わらずの如才なさには、我ながら呆れてしまう。

 

 突然真実さんが、自分から俺の首に腕をまわしてくるから、

「……真実さん?」

 気持ちはどうしようもなく動揺しているのに、腕はすぐさまその華奢な体をしっかりと抱きしめる。

 自分の体ながら、その迷いのなさには、もう敬意を表したいくらいだ。

 

(どうしたの……? なんだかいつもと様子が違うんじゃない……?)

 笑い混じりに問いかけて、そのままキスしてしまおうかと思った時に、前方からこちらに向けられている、突き刺さるような視線を感じた。

 

 感じたままにゆるゆると目を向け、真実さんの部屋の小さな窓に、よく見慣れた顔が三つ並んでいるのを発見し、思わず吹き出しそうになる。

 

(貴子さん! 愛梨さん! それに花菜さんまで……!)

 

 おそらくついさっきまで真実さんと一緒にいたはずの友人たちが、そこには顔を並べて、俺たちの様子をじっと観察していた。

 

 そっちに顔を向けている俺はすぐに気づいたが、背中を向けて、その上俺の胸に頬を寄せてしまっている真実さんは、まったく気がついていないだろう。

 そう思うとちょっと可哀相な気がした。

 

「真実さん……別に俺はいつまでもこのままでもいいんだけどね……?」

 そっと耳元で囁く。

 真実さんはいかにも不思議そうに、俺の顔を見上げた。

 

 俺は吹き出してしまわないように必死に我慢しながら、視線だけで、うしろを見てみるように彼女に指示する。

 

 ふり返った真実さんは、きっとすぐに、自分の部屋の窓が目に入ったのだろう。

 小さく飛び上がり、声にならない悲鳴を上げながら、急いで俺の首にまわしていた腕を解く。

 

(ちぇっ!)

 教えなきゃよかった――なんて思いながら、せめて彼女を抱きしめている腕だけは解かずにおこうと思ったのに、真実さんが今にも泣きだしそうな顔で俺の体を必死に押しやろうとするので、ついつい放してしまった。

 

「ど、ど、どうしてっ……!?」

 友人たちに向き直った真実さんは、深夜の静かな住宅街に響き渡るほどの大声で、驚きと抗議の声を上げている。

 

 そのあまりにも予想どおりの素直な反応に、俺だけじゃなくって真実さんの友人たちも、すっかり満足しきったように笑いだした。

 

「真実……別に帰ってくるのが何時になったっていいけどさ……私の買いものだけは忘れるなよ」

 貴子さんが涼しい顔で告げれば、

「海君! 真実はまだいちおう試験中だから……! そこのところよろしくねー」

 愛梨さんがニコニコしながら俺に向かって手を振る。

 

「真実ちゃん……良かったね……!」

 花菜さんは笑ってるんだか泣いてるんだか微妙な表情で、声を震わせた。

 

(真実さんの友人たちって……なんかいいよね……)

 彼女を取り囲む温かい環境に、俺はホッとする。

 

 しかし当の真実さんは、

「な……何を……? なんで……?」

 上手く話すこともできないほどに、ただただ驚いている。

 

「海君……真実ってば本当に一生懸命がんばってるからさ……ちょっとだけ息抜きさせてあげてよ……ね?」

「……と言うよりも、真実ちゃんに元気を充電してあげて……かな?」

「だからって、試験が手につかなくなるほどのことはするなよ。少年!」

 

 三人から寄せられた確かな信頼が、嬉しくって誇らしくって、妙にくすぐったかった。

 俺にそんな資格があるのか――なんて自問自答するより先に、ついつい頬が緩んでしまう。

 

「はい。肝に銘じます」

 いつものように礼儀正しく、きっちりと頭を下げると、

「ちょっと、貴子!」

 真実さんがすぐに非難の声を上げた。

 

 耳まで真っ赤になった真美さんの、それは照れ隠しの叫びだってことが俺にはわかったから、なおさら嬉しくてたまらなかった。

 



 真実さんと手を繋いで歩く、真夜中のいつもの道。

 

 俺がどうしてしばらく来なかったのかとか。

 今日はどうして突然こんな時間に現われたのかとか。

 ――そんなことを、真実さんは決して尋ねたりしない。

 

 まるで答えることができない俺の事情を知っていて、わざとしらんふりしてくれているかのように、その手の話題にはいつも一切触れない。

 

 今夜だって、『いつからあそこにいたのか』なんて、あまり当り障りのない話をして、自分のことばかりいっぱい話して、俺のズルイ事情は見逃してくれようとしている。

 

 俺はそのことがありがたくって、――そしてやっぱりちょっとうしろめたかった。

 

 始めて会った頃からずっと、意識的にか無意識にか、真実さんは秘密だらけの俺の全てを許してくれている。

 それは彼女にとって負担ではないんだろうか。

 辛くはないんだろうか。

 

 考え始めると、

『早く俺から開放してあげたほうがいい』

 という結論にどんどん近づいていく。

 

 でもそうすることを誰よりも恐れているのは、俺自身だ。

 真実さんともう会えなくなるなんて、想像するだけでどうしようもなく辛いから、なかなか踏みだすことができない。

 

 良心の呵責と、彼女への想いと、自分のわがままと。

 いくつもの気持ちが重なって、心理的にはすでに一歩も前に進めないでいる俺に、ふと足を止めた真実さんが、唐突に問いかける。

 

「海君……どうしたの? ……何かあったの?」

 

 悪いけれど、それまで何の話をしていたんだか、俺はまるで思い出せなかった。

 ただ、どんな時だって、迷いだらけの俺の心理を巧みに感じ取ってしまう真実さんを、少し恐く、とてつもなく大切に感じた。

 

 まだ言いたくはない言葉を隠して、

「うん? 別に何もないよ……?」

 と笑った俺の偽物の笑顔に、真実さんが騙されてくれるとは、俺だって思っていない。

 

 だけど今はまだ嫌だった。

 本当のことを言って――俺はもうすぐきっと死んでしまうから、

 これ以上は一緒にいられないって告げて――彼女の前から姿を消す勇気は、まだ俺には持てない。

 

 そっと手を伸ばしてきた真実さんが、ぎこちなく笑う俺の頬に触れる。

 

「急にいなくなったりしないよね?」

 

 何も話してなどいないのに。

 気づかれるようなことさえしていないはずなのに。

 なんでそんなに俺の心がこの人には伝わってしまうんだろうと、泣きたいくらいの気持ちが湧く。

 

 泣き顔なんて、絶対に見られるわけにはいかないから、俺は、

「そんなことはしないよ」

 とせいいっぱい笑ってから、真実さんを抱き寄せた。

 

 もうこれ以上、気持ちを読まれてしまわないように、彼女の前から顔を隠す。

 

 声が震えていることを、悟られないように気をつけながら、

「いなくなる時はちゃんとそう言うよ」

 と嘘のない言葉だけを選んで、耳元で小さく囁いた。

 

 息をのんだようにこわばった真実さんの体をしっかりと抱きしめたら、不安に揺れる大きな瞳が、すがるように俺の顔を見上げてきた。

 

 もう一度飛びっきりの作り笑いをしてみせたら、腕の中の小さな体から、必死に張り詰めていたらしい緊張が抜けた。

 抜けた力と共に、真実さんが泣きだしたことがわかる。

 

(くそっ! 何やってんだ……俺は!)

 無我夢中で、その体を抱きしめた。

 

「ゴメン、真実さん」

 

 返事はない。

 さっきみたいに俺の顔を見上げてもくれない。

 今、目をあわせたら俺だって泣きだしてしまいそうで、そんなことは絶対に嫌だから、真実さんが俯いてくれているのはありがたい。

 

 ありがたいけど――違う。

 そうじゃない。

 わざわざここまで会いに来て、泣かせたかったわけじゃないんだ。

 

「ゴメン」

 何度も謝って、小さな頭に頬を寄せて、きつく抱きしめ続ける俺に、真実さんはコクコクと頷いてくれる。

 けれど、決して――決して顔を上げようとはしなかった。

 

 俯いたままでいつまでも顔を上げない真実さんに、俺は呼びかける。

「真美さん」

 せいいっぱいの想いをこめて、そっと呼びかける。

 

 俺の腕の中で身じろぎした真実さんが、ようやく顔を上げてくれた。

 涙で潤んだ真っ赤な瞳を見たら、申し訳なくて、かわいそうでたまらなかった。

 

「真美さんが寂しがってるんじゃないかって思って会いに来たのに……余計に悩ませちゃったね……」

 頭を下げる俺に、真実さんは涙の跡も乾かないままの顔で小さく笑う。

 

「ううん……本当に会いたかったから嬉しかったよ」

 こんな時でさえ俺の全てを許してしまう彼女に、俺はやっぱり甘えている。

 そんな自分が悔しい。

 でもどうすることもできない。

 

「うん。俺もだよ」

 自分で自分に許した唯一の言葉――彼女が思いを告げた時にだけ、それに同調する形で伝えることができる俺の本心を、俺は口にした。

 

 俺はこんなにズルイ。

 真実さんにだけ想いを告げさせて、自分では何ひとつ彼女に伝えてもあげられない。

 それなのに――。

 

 俺の顔を見上げた真実さんは、この上なく幸せそうにニッコリと笑う。

 まるで『愛してるよ』と告げられたかのように。

 どんなに心の中でそう思っていたって、決して口には出せない俺の本心を読んでくれたかのように。

 

 その顔を見ているだけで幸せだった。

 他には本当に、もう何もいらなかった。



 

 たった一度だけ、『真実さんに元気をあげないと……』と理由をつけて彼女にキスして、それから俺は自分がここまでやって来た目的を果たす。

 

「また会いに来るよ。真実さんが寂しくないように……」

 その小さな約束をするためだけに、俺は今夜、病院を抜けだしてきた。

 

(真実さんと約束した。だからその約束を守るために、何があったってがんばらなきゃ……!)

 

 自分の核となる想いを作るために、ここまで来た。

 おかげでようやく、今夜はぐっすり眠れる気がする。

 

 俺を見つめる、優しい――優しすぎる笑顔を思い出しながら、幸せな夢に落ちていけそうな気がした。

 それがたとえ束の間のものであっても――。

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