第九章 翳る陽

1 不安

 昼休みの美術室。

 今日は珍しく今坂先輩も来ていなくて、広い教室にはひとみちゃんが一人きりだった。

 

 その場に一歩踏みこんだ瞬間、俺はしまったと思った。

(ひき返そうか……?)

 

 なんて思考が働くよりも先に、彼女がこちらには背を向けたまま、唐突に口を開く。

「いくら用心のためだからって……なんだかおかしくない?」

 

「何が……?」

 本当はなんの話だかよくわかっていたのに、ドキリと跳ねた胸を懸命に押さえながら、俺はとぼけた返事をした。

 

 ひとみちゃんは大きな画布の前に座ったまま、長い髪をサラリと揺らしてこちらにふり向き、人の心を射竦めるかのような大きな瞳で、真っ直ぐに俺を見据える。

 

「もちろん海里の入院よ! ……だってついこの間退院したばっかりじゃない。発作が起きたんでもないのに……なんでまた入院しないといけないわけ?」

 

「ああ……そうだね……」

 俺はできるだけ明るい声で軽く返事して、窓際の自分の指定席に行き、いつもの椅子に腰を下ろした。

 

 最近どこに行くにも持ち歩いている、元はひとみちゃんのものだったスケッチブックを膝の上でパラパラとめくる。

 どこを開いても真実さんの笑顔だらけなことに我ながら苦笑して、パタリとそれを閉じた。

 

「でも……まあ、いいんじゃない? ……詳しく検査してもらって、しばらくのんびりしたら、またすぐに退院できるってことなんだからさ……」

 

「だって……それって……!」

 抗議するかのように、ひとみちゃんは確かに何かを言いかけたのに、その言葉をのみこんでしまった。

 

 俺のほうを向いていた体をもう一度画布のほうに向け直すと、らしくもなく、取ってつけたようにもごもごと口の中だけで呟く。

「おかしいわよ……」

 

 彼女がのみこんだ言葉がなんだったのか、俺にはわかるような気がした。

 

 いくら何も知らされていないからって、いいかげんひとみちゃんだっておかしいと思うはずだ。そして不安に思うはずだ。

 

『まるで海里の具合が良くないみたいじゃない!』

 

 ひとみちゃんが口にはしなかった思いはきっとそういう内容だったと思ったから、俺はことさら明るく笑ってみせた。

 

「学校休んでも誰からも咎められないし。こっそり美術室に忍びこまなくても、どうどうと絵は描けるし。しかも三食昼寝つき。やっぱこれ以上の待遇はないよ……幸いまたすぐ出れるってことだから……ちょっと満喫してくる」

 

「海里のバカ!」

 

 間髪入れずに怒鳴られてホッとした。

 不安に思われるより、悲しまれるより、怒られるほうがよっぽどいい。

 ひとみちゃんの怒りは、いつだって俺に向けられる時は、優しさの裏返しなんだから――。

 

「だって……いいの? 入院しちゃったら、学校サボって毎日通ってるところにだって、行けなくなるんじゃないの?」

 

 まさかひとみちゃんの口からその話が出てくるとは思ってもいなかったので、俺はかなりギクリとした。

「うん。まあ、それはそうだね……」

 

 ほんの一瞬、返事が遅れたことさえ、彼女は見逃してはくれない。

 ハアッと大きなため息を吐きながら、もう一度ひとみちゃんは俺のほうをふり向いた。

 

「私でよければ……代わりに行くけど?」

「へっ?」

 

 予想外の提案に、思わず自分の耳を疑う。

 

「ど、どこに……?」

 あまりにも間抜けに聞き返してしまって、顔を真っ赤にしたひとみちゃんに、思いっきりタオルを投げつけられた。

 これはまたもや、水洗いしたあとの絵筆を拭くためのものなんじゃないだろうか。

 

「うわっつ!」

 椅子に座ったまま大きく仰け反った俺に、ひとみちゃんは、

 

「もういいっ!」

 と叫んで、おそらくこの上ない善意で申し出てくれたはずの言葉を、さっさと撤回してしまった。

 

 俺はすぐさま「ゴメン」と頭を下げる。

 それからそのまま真っ直ぐにひとみちゃんに顔を向け、せいいっぱいの感謝をこめてお礼を言った。

 

「ありがとう。でもこれだけは……代わってやってもらうことはできないんだ……」

 

 真実さんを迎えに行って学校まで送る。

 その束の間の護衛役は、ひとみちゃんだからというわけではなく、他の誰にだって譲れない。

 ――譲りたくないっていうのが、俺の本心だ。

 

「どうしたって、俺が行きたいんだ……!」

 唇を噛みしめるような思いで呟いた俺を、不審な表情で見たひとみちゃんは、ふいっと目を逸らした。

 

「あっそ。だったらさっさと退院してきなさいよ」

 ぶっきらぼうな言葉づかいではあるが、あきらかに俺を激励する意味がこめられたセリフに、俺はもう一度お礼を言った。

 

「うん。ありがとう」

 真っ直ぐな謝辞に弱いひとみちゃんは、今日もまた耳まで真っ赤になって、なおさら俺に背を向てしまったのだった。



 

「ゴメン、真実さん……俺、またしばらく会いに来れないや……」

 

 その日の夕方。

 大学からの帰り道。

 繋いだ手はそのままに、突然手をあわせた俺の顔を、真実さんは目をまん丸に見開いて見つめた。

 

 自分の手を包みこむようにあわされた俺の両手を見ながら、確かに一瞬、どうしようもなく寂しそうな顔をしたのに、次の瞬間にはニッコリと笑う。

 

「うん、いいよ。私だって試験勉強しないといけないんだし……ちょうどいいよ」

 俺の全てをいつだって許してしまう、真実さんの優しい受諾が胸に痛かった。

 

(嘘だよ、なんて言って……喜ばすことができたらいいのにな……)

 

 でもそれはできない。

 俺が明日から再入院して、またしばらく会いに来れないのは本当のことだから。

 

 出会って二ヶ月。

 一緒にいれたのは最初の一ヶ月と、二週間の空白のあとの十日間だけ。

 今度は何日の空白のあとに、いったいどれだけの時間一緒にいることができるのだろう。 

    

 俺には見当もつかない。

 

 その間、真実さんに何も起こらないだろうか。

 この間のように突然あの男が現われて、ひどい目にあわされたりしないだろうか。

 それは俺でなくたって、誰にもわからない。

 

(本当は傍にいたい。いつでも。いつまでも……)

 そう思えば思うほど、一緒にいれる時間が短くなっていくというのは、いったいどういう意味なんだろう。

 

 俺に自分の立場を再確認させようというのか。

 身の程をわきまえろという警告か。

 それとも、いいかげん彼女を解放してあげろという勧告なのか――。

 

 悔しくて悲しくて、思わず手を伸ばした。

 いつだって手を伸ばせば引き寄せられるところにいる――いてくれる真実さんを、腕の中に捕まえる。

 

「ごめんね。俺に会えないと寂しいのに」

 

 真っ赤になって照れてしまうか、

「そんなことない!」

 と負けん気を起こされるに、きっと違いないセリフ。

 その言葉を敢えてこの時に選んだのには、ちゃんとわけがある。

 

 照れた顔も。

 怒った顔も。

 もっともっと真実さんのいろんな表情を、目に焼きつけておきたかったから。

 

 明日からしばらく会うことのできない間。

 俺はきっと、あのあまりにも見慣れた無機質な病室で、また何枚も何枚も、真実さんの絵を描くんだろう。

 

 瞼にくっきりと残っている笑顔ばかりではなく、いろんな表情を鮮明に思い出して描くことができたなら――そしてその絵をいつでも眺めることができたなら、俺自身が単純に嬉しい。

 

「そ、そんなことは……!」

 予想どおり大慌てして、俺の腕の中から逃げ出そうとする小さな体を、決して放すもんかと、俺は抱きしめる腕に力をこめる。

 

「海君……!」

 上目遣いに俺を見上げる、ちょっと怒ったような大好きな表情を、しっかりと目に焼きつける。

 

「ね。放して……?」

 道行く人々の視線を気にするかのように、真実さんが困りきった顔で小声で囁くから、俺はなおのこと意地になって、ますます彼女を抱きしめる。

 

「ちょっと……海君?」

 

(ごめん。今だけ……きっともうしばらくだけだから……こうしていて……!)

 

 一番伝えなければならない言葉。

 ――なのに一番伝えたくない言葉だけは、どうしてもまだ声に出すことができなかった。

 

(本当はずっとこうしていたいのに……!)

 これ以上ない本心をこめて真実さんの頭に頬を寄せると、彼女は口では抵抗しながらも、やっぱり俺の全てを許してしまって、優しく背中に腕をまわしてくれる。

 

 その優しさに深く感謝しながらも、いつだって結局自分のわがままばかりを押し通してしまう俺には、やっぱり彼女の傍にいる資格はないと思った。

 

 引き離されて当然なんだ、と自嘲した。


 

 

 幽閉するように放りこまれて、たくさんの機械をつけられた病院のベッドの上で、俺は今まで以上に明るく朗らかにふる舞った。

 日に何度も様子を見に来てくれる看護師さんたちにも、石井先生にも、冗談を言って笑う。

 毎日朝夕、病室に顔を出してくれるひとみちゃんには、余裕でからかうようなことばかりする。

 

 なのに毎晩。

 真夜中に一人きりになると、なかなか眠ることができなかった。

 

 夜勤の看護師さんに頼んで、少し開けたままにしてもらっているカーテンの隙間から、真っ暗な夜空を見上げる。

 星一つない暗い空が、そこに確かにあるということを目で確認しているほうが、瞼を閉じて目には見えない恐怖に怯えているよりは、ずっとマシだった。

 

 ほんの小さな頃から覚悟ができていたつもりで。

 誰よりも心の準備はOKだったつもりで。

 俺は自分の『死』というものをすっかり当たり前のように思っていたはずなのに、それがいよいよ目の前に迫ってきたと知った時のように、今はまた、安心して眠りにつくことさえできない。

 

 目を閉じたらもう二度と開くことができないような気がして、目を閉じることができない。

(どうして……?)

 

 入院する前までは、いったいどうやって眠りについていたのか。

 必死に頭をめぐらす。

 

(ベッドが違うから? 枕が違うから? そんなこと……俺に限っては有り得ないだろ……?)

 

 正直、病院のベッドと自分の家のベッドと、どちらがより多い回数眠りについたことがあるかと聞かれると、自分自身その答えがわからないくらいだ。

 だからきっと違う。

 

(じゃあ、やっぱりどこか調子が悪いとか……?)

 

 入院する前の憂鬱な思いとは裏腹に、経過は至って順調のはずだった。

 あくまでも石井先生の言葉を信じるならば、当初の予定どおり、短期間で退院できるほどには――。

 

(じゃあいったいなんなんだよ!)

 半ばやけくそ気味に、再びカーテンのすき間の夜空に目を向けた時、冴え渡るように輝く月の一部分が見えた。

 優しい光を投げかけてくれるようなその姿を目にした途端、ふいに俺にはわかってしまった。

 

(そうか……真実さんとの約束がないからだ……)

 

 夜、自分の部屋の冷たいベッドの上で眠りにつく一瞬。

 俺が無意識のまま、毎日宝物のように抱きしめていたのは、きっと、『また明日』という真実さんとの小さな約束だったのだ。

 

 未来を誓うことはできない。

 将来を一緒に夢見ることもできない。

 そんな俺にとって、真実さんと交わす日々の小さな約束は、確かに全ての支えとなってくれていた。

 

『また明日』と約束したから、それを破るわけにはいかない。

 だから行かなくちゃ。

 真実さんが待っているんだから、明日は行かなくちゃ。

 

 そんな思いが、一日一日を生きる俺の原動力となっていた。

 

(そうか……いつの間にか、こんなに支えられていたんだ。俺の力になってくれてたんだ……!)

 そう思うと、涙でどんどん視界が滲んでくる。

 そうすると、太陽に比べると儚い月の光がますます儚くなって、そのことが俺をよりいっそう不安にさせる。

 

(もう真実さんに会えないなんてことになったら……病気じゃなくってそれが原因で、俺……死ぬんじゃないか……?)

 

 自嘲気味に笑った次の瞬間、俺は起き上がっていた。

 パジャマを脱ぎ捨てて、たった一着、退院の時のためにひとみちゃんが持ってきてくれていた普段着に着替えて、滑り出るようにして、病室の扉から廊下へと出る。

 

(三時間おきの見回りがさっき回ってきたばっかりだから……大丈夫……きっと行ける)

 

 自分を勇気づけるように頷くと、俺は夜間の唯一の出入り口となっている看護師さんたちの通用口から、こっそりと外に出た。

 

 まだ眠ることをしらない真夜中の街に向かって、ゆっくり歩を進める。

 

(ほんの一目でいい……それが無理なら、真実さんがそこにいることを確認するだけでいい……! とにかく俺に……もう一度その場所に、きっと帰ってくるんだっていう強い決意をさせて……!)

 

 通い慣れた真実さんのアパートに向かうため、俺は大通りを走っているタクシーに手を上げた。

 ハザードランプをつけて目の前に止まった黒い車体に、滑りこむように乗りこんだ。

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