2 懸念

 真実さんと会える朝のひと時は、一日の中でも俺の一番好きな時間だと言っても過言ではない。

 でも大学の正門が長い舗道の向こうに見え始めると同時に、自然と胸が痛んでくることにだけは、いつまでたっても慣れなかった。

 

(また夕方まで会えない……)

 寂しいばかりではなく、今日はことさらに複雑な心境で、俺は繋いだ真実さんの手をぎゅっと握りしめる。

 昨日あんなことがあったばかりだから、本当はその手を放したくなんかなかった。

 

「海君?」

 俺の顔を真っ直ぐに見上げてくる黒目がちの大きな瞳は、案外相手の心理を読むことにも長けているから、今だってきっと、俺の身勝手なわがままくらい聡く察知してしまっているんだろう。

 なのに――。

 

(あーあ……俺って本当に格好悪いよなぁ……)

 俺は心の中でため息をくり返すばかりで、手を放すつもりにはまだ全然なれない。

 

「うん。何?」

 なんでもないように笑って、すました顔で問いかけることが、こんなに苦しい時もあるんだってことを、俺は真美さんと出会ってから初めて知った。

 

「ううん。なんでもない……」

 きっと気を遣わせて、言いたいことだってのみ込ませてしまっているんだろうに、どうすることもできない。

 

 自己嫌悪に苛まれる俺を救ってくれたのは、背後からかかった明るい声だった。

 

「真実ちゃん! 学校来たんだね」

 ふり返って見てみたら、そこには真実さんの親友の花菜さんが立っていた。

 

「うん」

 真実さんはちょっと照れ臭そうな様子で、花菜さんに向かってニッコリと笑う。

 

 大きな丸い目をさらに丸くして、俺と真実さんの顔を見比べていた花菜さんも、そんな真実さんに負けないくらいにニッコリした。

 どことなく雰囲気の似ている二人のほほえましいやり取りを見ていると、自然と俺まで優しくてあったかい気持ちになる。

 

「それに海君も帰って来きんだ……よかったね……!」

 ふいに話を振られて、俺は急いで頭を下げた。

 これがちょうどいいチャンスとばかりに、繋いだままだった真実さんの手を、花菜さんの前に差し出す。

 

(ここから先は花菜さんにお願いするんだって思えば……少しは自分を納得させて、割り切ることができる。少しは……!)

 

 俺の意を汲んでくれたかのように、花菜さんは真実さんの手を大切そうに受け取ってくれた。

 「うん。ここから先は私が責任を持って預かる……絶対に真実ちゃんを、昨日のような目には、もう会わせない……!」

 

「……花菜」

 抱きあう二人の様子にひと安心して、俺は一歩後退る。

 

「じゃ。帰りに待ってるから」

 手を振りながら笑顔で二人を見送ろうとしたのに、花菜さんがおもむろに俺を見ながら、ふと呟いた。

 

「真実ちゃん……海君ちょっと顔色悪いよ? ……大丈夫?」

 

 ドキリと俺のヤワな心臓が大きく跳ねた。

 

 自分では全然そんなつもりはなかったのに、少し見ただけで感づかれてしまうくらい、今日は顔色が悪かったんだろうか。

 いつもと同じように、出かける前には念入りに鏡の前でチェックして来たつもりだったのに――ダメだ。

 その時自分がどんな表情をしていたのかだって思い出せない。

 

 からだ全体が心臓になったかのように、ドクドクと大きな音を立てて、俺の心臓が鳴る。

 

(落ち着け! 落ち着け!)

 必死に自分の体に命令を下しながら、俺はそっと真実さんの表情をうかがった。

 

 息をのんだように俺の顔を凝視している。

 今まで気づかなかった――ひょっとしたら気づいていたのに気づかないフリをしていた――ことを、白日の下にさらされたようなどこか痛々しげな表情。

 

 自分が今どんな顔色をしているのかは俺には見えないが、真実さんだって今にも倒れそうなくらい真っ青な顔色だと思った。

 

(くそっ!)

 

 悔し紛れにいつものように前髪をかき上げる。

 それからせいいっぱいの笑顔で花菜さんに

「大丈夫です」

 と告げる。

 

 花菜さんも、それから真実さんだって、俺の悔し紛れの言い逃れに納得したようにはとても見えなかった。

 もっと何かを言おうかと口を開きかけた時、俺にとってはまさに天の助けとも言うべき声が、背後から聞こえた。

 

「真実ー! 花菜ー!」

 ふり返って見てみなくたってわかる。

 それは花菜さんと同じように真実さんの親友の愛梨さんの声だった。

 

 いつも元気で明るい愛梨さんは、俺の姿を見て歓声を上げる。

「うわっ、海君が復活してる! 真実、良かったねえー!」

 

 その勢いとパワーに、俺はホッとした。

 愛梨さんが来てくれたら、きっと真実さんの気分だって変わるだろう。

 なぜなら――。

 

「すっごく寂しがってたもんねえー」

 なんて言葉を包み隠さず言ってしまう愛梨さんに、もしそれが本当だとしても、それを素直に認めてしまうような性格の真実さんではないからだ。

 

「な、何言ってるのよ……! 私はべつに……そんなこと……!」

 

(ほら……やっぱり顔を真っ赤にして大慌てしてる……!)

 そんなことを思ったら自然に笑顔になれて、そんな自分にホッとした。

 

「ため息ばっかり吐いてたもんねー……」

「いっつもキョロキョロして、ずっと探してたんだよね」

 

 愛梨さんと花菜さんとの間で交わされる会話におたおたして焦りまくる真実さんの様子を、ゆっくりと楽しむ余裕まで出てきた。

 

(どうしよう……嬉しい! 嬉しいけど……!)

 真実さんはおしゃべりな親友たちの口を塞ぐことはどうやら難しいと判断したらしく、俺が思ったとおり、二人の腕をつかんで引っ張って大学に向かって歩き始めた。

 

「じ、じゃあ行ってくるね……」

 動揺しまくりの真実さんに、 

(ちぇっ……なんだもう行っちゃうのか……)

 と内心失望しながらも、俺はニッコリ笑って

「行ってらっしゃい」

 と手を振った。

 

 実際のところはどうなのかわからないが、自分では花菜さんに指摘された顔色の悪さだって、この頃にはすっかりいつもどおりに戻っていたつもりだった。



 

 真実さんたちが大学の正門の向こうに見えなくなったら、俺は今来た道をあと戻りして、昨日探しだしたあの男の部屋にもう一度足を運んだ。

 数回インターホンを鳴らしてみてもドアをノックしてみても、やっぱり今日も応答はなかった。

 

(やっぱりここには帰ってきてない……?)

 用心のために建物の裏側に回って、そこから見える小さな窓を見上げてみたが、部屋の中の様子はまったくうかがえなかった。

 駐車場に、あの男の黒い車がないことも確認して、ほんの少し小さく息を吐く。

 

 これが本当に役にたつのかどうかはわからないが、俺は毎日この場所をチェックに来ることを自分のやるべきことと、昨日決めた。

 

(俺にできることなんてたかがしれてる……だけど真実さんのために何かがしたい! 今はとにかく思いついたことを片っ端からやってみるしかないんだ……!)

 

 真実さんを守りたいと強く願ったあの瞬間から、確かに俺の頭の中では、自分の体調のことなど二の次になっていた。



 

「一生君……ひさしぶりりだね」

 あいかわらずおっとりと声をかけてくれる今坂先輩に、無言のまま笑顔で頭を下げて、俺は窓際の自分の指定席に腰を下ろした。

 

 昼休み中の美術室。

 他の生徒たちがお昼を食べているはずの教室や、有り余る元気で走り回っている校庭なんかからは遠く離れているから、あまりここが高校の中の一区画だという気はしない。

 しないけれども――確かにそうには違いないのだ。

 

「海里……あんたねえ……学校に来るんだったらせめて制服ぐらい着てきなさいよっ!」

 すっかりお決まりとなっているひとみちゃんの怒鳴り声を聞くことだって、ずいぶんとひさしぶりな気がして、思わずクスクス笑ってたら、黒っぽい服を投げつけられた。

 

「なにこれ?」

「なにって……! あんたの制服でしょうっ!!」

 

 美術室どころか特別棟全体に響き渡るようなひとみちゃんの大声に、慣れきっている俺はともかく、今坂先輩までまったく動じないのは凄いことだと思う。

 ――たまたま今日ここにいた他の部員たちは、みんな両手で耳を塞いでいるんだから。

 

 みんなのお昼の楽しい時間をこれ以上ぶち壊しにしてしまうのは申し訳なかったので、俺はもっとひとみちゃんをすました顔でからかっていたい気持ちをこらえて、すぐにそのまだ真新しい上着に袖を通した。

 

「ありがと、ひとみちゃん」

 

(わざわざ俺の家に朝寄ってから、取ってきてくれたの? なんてことは、夕食の時にでも聞けばいいっか……)

 

 クククと笑いをかみ殺す俺を、ひとみちゃんがもの凄い目で睨んでいることをひしひしと感じていたので、俺はもうその話題には、ここではこれ以上触れないようにしようと決意した。

 

 その代わり、他の人にはとても聞けない質問をひとみちゃんにぶつけてみる。

「ねえ、ひとみちゃん。俺って顔色悪い?」

 

 ひとみちゃんはいかにも

「何をいまさら!」

 というような顔で、しげしげと俺の顔を見た。

 

「当たり前じゃない! 昨日の朝まで入院してたんだから……!」

「だよね」

 あっさりと同意すると、ひとみちゃんにとっては尚更腹立たしいようだった。

 

「何? ……誰かにそんなこと言われたの?」

 あまりにも鋭く言い当てられて、俺はスケッチブックの上で忙しく動かし続けていた鉛筆を思わず止めた。

 

「すごい……! ご名答!」

「海里!」

 

 あまりふざけすぎてはいけない。

 でもふざけてでもいないと、とてもこんなことは話題にできない。

 

「……別にあんたの顔色が悪いのなんて今に始まったことじゃないわよ……」

「そう?」

「そうよ。小学生の頃なんて、真夏でもあんたは真っ白なのに、私は色が黒くって、よくみんなに『男女逆なんじゃないか』ってからかわれたじゃない……!」

「ハハハハッ! 確かにそうだった!」

 

 大きな声で笑ったら、なんだか本当の意味で気持ちがスッキリした。

 

「だから別に……そんな事は今に始まったことじゃないのよ……!」

 

 ひとみちゃんは気がついているんだろうか。

 まるで自分に言い聞かせるかのように、何度も何度も自分がその言葉をくり返していることを――。

 

 俺は気がついていたけれど、きっと彼女は無意識なんだと思ったから、あえて指摘はしなかった。

 その代わり、俺が欲しかった答えをそのまま返してくれたひとみちゃんに、素直にお礼を言っておく。

 

「ありがとう。ひとみちゃん……」

「な、なんなのよ、急に!」

 

 あいかわらず真っ直ぐな謝辞には照れてしまうひとみちゃんの様子がおかしくって、俺はまた忙しく鉛筆を動かし始めながら、ハハハハッと声に出して笑う。

 笑うことができた自分と、そうさせてくれたひとみちゃんに、本気で感謝していた。



 

 放課後。

 校門のところで真実さんを待つ俺に、こっそりと近づいてくる人の気配を感じた。

 

 一瞬「まさか!」と思ったが、それが他ならぬ真実さんであることがすぐにわかったので、俺はそのまま気がつかないフリをした。

 

(何をしてるんだろ……? これはやっぱり……俺の様子をうかがってるんだよな?)

 そう思ったらわざとふり返って、

「そんなところで何してるの? 真実さん?」

 と問いかけずにはいられなかった。

 

 真実さんは本当に、飛び上がるほどに驚いた。

 その様子に俺は不謹慎にもひどく満足する。

 

「なんで? なんでわかったの?」

「わからないわけないじゃない」

 

 笑顔で答えたら、真実さんは何度か頭をぶるぶると左右に振って、それから泣き笑いみたいな表情になった。

 

(こんなに心配させてたんだな……!)

 そう思うと申し訳なくって、愛しくってたまらない。

 

 俺は彼女にそっと歩み寄り、大好きなサラサラの短い髪に指を伸ばした。

 髪をすくように何度か頭を撫でると、真実さんはまるで安心しきったように目を閉じてしまいそうになるから、慌てて呼びかける。

 

「真実さん」

 彼女の背後に近づいている人たちのことをこのまま黙っておくのは、俺の良心が咎めた。

 

「えっ、何?」

 俺が視線で示したままにふり返った真実さんは、文字どおり、もう一度飛び上がった。

 

「…………!」

 愛梨さんと貴子さんと花菜さんがみんな揃って、真実さんの真後ろにちょうど到着したところだった。

 

 慌てて飛びのくように俺から離れる真実さんの姿を見ながら、

「校門前で、イチャついたらダメだよー」

 からかうように笑った愛梨さんが、ポンと真実さんの肩を叩いて通り過ぎていく。

 

 じっと俺の顔を見た花菜さんが、

「顔色良くなったみたい……うん。もう、いつもの海君だね。……よかったね、真実ちゃん……」

 と真実さんに言っているのを聞いて、俺は心底ホッとした。

 

 これでとりあえずは、真実さんの不安を拭い去ることができたはずだ。

 

 貴子は真実さんには目もくれず、真っ直ぐに俺に向かって歩み寄ってきた。

 思わず身構える俺に向かって、すれ違いざま、

「岩瀬は退学したぞ」

 と短くそれだけを告げる。

 

 まさか俺があの男を探していることを貴子さんが知っているとも思えなかったが、その知らせをもらえたことは嬉しかった。

 誰よりも真実さんのために――。

 

 俺は歩き去っていく貴子さんの背中に深々と頭を下げた。

 

 うしろ姿のまま貴子さんは、

「真実……門限は六時だからな」

 なんて会話を真実さんと交わしている。

 

「な、何言ってるの!?」

 真実さんは大慌てでそんな言葉を返しているけれども、真実さんの隣に俺がいることも、貴子さんが許可してくれたような気がして、俺は天にも上るような気持ちだった。

 

「どうしてそんなことを、貴子が決めるのよ!」

 必死に叫んでいる真実さんには悪いけれども、嬉しくってたまらなくって、もう笑わずにいられない。

 

「ハハハッ」

 青空の中に俺や愛梨さんや花菜さんの笑い声も、真実さんの叫び声も、みんな吸いこまれていく。

 

 束の間の幸せをみんな閉じこめたような、眩しいほどの夏の午後だった。

 

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