第八章 キミを護りたい

1 戦う覚悟

 自分の運命としっかり向きあって生きていくことを、俺は途中で投げ出したわけじゃない。

 ――ただ、戦う覚悟をした。

 

 初めてキスした真実さんを何度も何度も抱きしめて、たくさんの幸せと喜びをもらったから、俺はその思いをそのまま、彼女を守る力に変えようと思った。

 

「じゃあ、また明日」

 いつものように小さな約束を残して、部屋を出た瞬間、決意を込めて歩き出す。

 本当は駆け出したいくらいの衝動を、やっぱりそうはできない自分の体調を慮って、力強い歩みに変える。

 

 以前村岡さんから教えてもらった住所を頼りに、必死にその部屋を探した。

 あの男――岩瀬幸哉の部屋を。

 

 初めて出会った夜。

 真実さんが傷だらけで歩いていた道を逆にたどって行けば、きっと行き着くんだろうってことは、あらかじめ予想ずみだった。

 

 でも白い鉄筋作りのこじんまりとしたそのマンションを目の前にしたら、やっぱり怒りなんだか嫉妬なんだかよくわからない感情で、息が上がってきた。

 

(落ち着け!)

 こんなところで発作を起こすわけにはいかない。

 絶対に。

 

 一度だけ偶然見てしまった真実さんの写真。

 ――おそらくあいつが意図的に置いていった、きっとこの場所で撮られた写真が、意識の底からぼんやりと浮かんでこようとする。

 だから俺は、それを必死に打ち消す。

 

(落ち着くんだ! 真実さんは今、俺の腕の中にいる。いるんだから!)

 自分の手をじっと見ていたら、優しい笑顔を思い出した。

 俺に向けられる――なんの見返りも求めていないような真実さんの笑顔を。

 

 大丈夫。

 身動きするたびに鼻をくすぐる甘い香りも、背中にまわされた腕の感触も、俺を呼ぶ優しい声も覚えてる。

 ――だから大丈夫。

 

 俺は毅然と顔を上げて、そのドアの前に立った。

 何度か鳴らしたチャイムに応答はなかった。

 部屋の中で誰かが動きだした気配もない。

 

 警察には、両親があいつの身元引受人としてやって来たと村岡さんが言っていたから、本当にここにはいないのかもしれない。

 ピンと張り詰めていた緊張が緩んで、思わずその場にしゃがみこみそうになる。

 

(あいつは、もう一度ここに帰って来るだろうか?)

 俺ならきっと、その答えはNOだ。

 でもあの男がどんな人間なのかを、俺は詳しく知ってるわけじゃない。

 

 ただ、ここには帰って来なくても、真実さんの周りにもう一度現われる可能性だったら、限りなく100%に近い気はした。

 

(そうはさせない……!)

 いくらチャイムを鳴らしても、ドアを叩いても応答のない部屋に背中を向けながら、こぶしを握りしめる。

 (もう一度、真実さんの前に現われたなら……その時は絶対に許しはしない!)

 俺にできることなんて何もないと悲観ぶる前に、俺はこれからは自分にやれるだけのことをやる。

 その結果何が起こったとしても――その時は、その時考える。

 

 行動にしたって、人とのつきあいにしたって、これまで慎重に慎重を重ねて生きてきた俺にとっては、まるでらしくない決断だった。

 でもそれは決して投げやりな思いなんかじゃない。

 

 ――確かにその時の、俺のせいいっぱいの決意だった。



 

 朝の柔らかな陽射しの中。

 真美さんの姿がドアの向こうから現われた瞬間から、俺の一日は始まる。

 

 それ自体は昨日までとまったく変わらないのに、どこかが――何かが違う。

 明らかに昨日から。

 そう――初めて彼女に触れたあの瞬間から、俺の中で何かが変わった。

 

 ふと目があった瞬間に真っ赤になって俯いてしまう顔を見ているだけで、嬉しい気持ちは同じなのに、思わず手を伸ばして引き寄せてしまいそうになる。

 

 朝の往来のど真ん中。

 しかも背後には文字どおりお目つけ役の貴子さんつき。

 それなのに恐いもの知らずというか、どこかのネジが緩んだとでもいうか、俺の頭の中はまるでピンク色だ。

 

「おはよう」

 ニッコリと笑って、俯く顔をのぞきこむと、真実さんはますます赤くなるから、性質の悪い悪戯心がどんどん加速する。

「どうしたの……俺の顔になんかついてる?」

 無意識なんだか意識的なんだか自分でもわからないままに、もっと真実さんに顔を近づけようとした瞬間、彼女のうしろから殺気を感じた。

 

(うっ……やっぱりダメか……)

 貴子さんは、俺がしばらく真実さんの傍を離れていたことを、まだ許してくれてはいない。

 昨日はかろうじて二人きりにはしてくれたが、今朝こうして一緒に出てきたところをみると、やっぱり全幅の信頼とは、まだまだほど遠いようだ。

 

(……やっぱり無理か……)

 内心ため息だらけの心を押し隠して、俺はキリッと背筋を伸ばし、まるで中学生か高校生が上級生にするみたいに、ハキハキと大きな声を心がけて、貴子さんに頭を下げた。

「おはようございます。貴子さん」

「おはよう少年。やっぱり今日から真実の送り迎えが復活だね」

「はい」

 

 眼鏡の奥の鋭い瞳が、値踏みするように俺の全身をくまなくチェックする。

 まるで警察で取り調べでも受けているような気分で、直立不動で立ち尽くす俺を、真実さんはちょっと不満そうな顔で見上げた。

 

(……ひょっとして情けない奴だって思ってる? でも俺は貴子さんにだけは、ちゃんと正面から、正々堂々と認められたいんだ……!)

 

 貴子さんは真実さんのことをとても大切にしている。

 真実さんが幸せになることを強く望んでいる。

 だから俺がこれからも真実さんの傍にいるためには、どうしても貴子さんの信頼を勝ち得なければならない。

 

 不審な思いを抱かせている部分も、きっと俺にはたくさんあるだろうから、せめてちゃんとできる部分では、誠意を見せたい。

 ちゃんとしておきたい。

 そうでなければ、たとえ真実さんが許してくれたって、本当の意味で、俺が真実さんの隣に居る資格はないと思う。

 

 貴子さんはしばらく俺を検分したすえに、眼鏡をぐっと人差し指で押し上げながら、ニヤッと笑った。

「じゃあ……真実と一緒にさっさと行け」

 

(やった!)

 ガッツポーズしたいくらいの気持ちを笑顔に変えて、俺は貴子さんに頭を下げた。

 さっと真実さんの手を取ると、急いで歩き出す。

 

「えっ? 貴子は? 一緒に行かないの?」

 ふり返りながら真実さんは叫んでいるけれど、貴子さんは、 

「誰がそんな野暮な真似するか……! 一人でゆっくり行くほうがいい」

 と返事しているようだ。

 

 二人の意志の疎通が終わった瞬間に、

「行こう」

 俺は真実さんの手を引き、駆け出した。

 

「え? なに? どうしたの? なんでこんなに急ぐの……?」

 問いかける真実さんをふり向いて、真っ直ぐに見つめながらニッコリと笑う。

 

「せっかく貴子さんからOKをもらったんだから、少しでも早く二人きりになろうと思って!」

 半分嘘で、半分本気だった。

 

 少しでも長く真実さんと二人きりでいたい――と同時に、絶対にあの男に捕まるわけにはいかないという思いが俺を急がせる。

 

 昨日の今日だからこそ、あの男がどこからか彼女を見張っているような気がしてならなかった。

 だから繋いだ手にぎゅっと力をこめる。

 

 この人は俺の大切な人なんだと――他の誰でもなく俺と一緒にいることを望んでくれたんだと誇示するように。

 

(世界中に聞こえたってかまわない……真実さん俺のものなんだって、叫びたい!)

 

 でもそうはできない現実をしっかりと自覚しながら、俺は小さな手を引き、人ごみの中を懸命に駆けた。



 

 走っている最中。

 小学生の頃、具合が悪いのに嘘ついて参加した長距離走のことを、ふと思い出した。

 

 もっともっとと、気持ちはどんどん先に進むのに、体が全然ついていかない。

 ――あの時のどうしようもないほどの焦燥感と絶望感。

 

(確か……前年の自分の記録を塗り替えたなら、賞状がもらえるんだったんだ……あの時はどうしてもそれが欲しくって……!)

 

 具合が悪いのに嘘ついて参加して、途中で心配してくれた先生にも「大丈夫です」って意地を張って、結局そのあと発作が起きて、俺はしばらく病院から出られなくなった。

 

(さすがにあの時よりは、俺だって大人になった……!)

 

 そう満足しながら、俺は舗道に人が多くなるに連れて、駆けていた足を歩みへと変える。

 呼吸を落ち着かせようと大きく息をくり返す。

 それでも――。

 

「待って……! ねぇ、そんなに急がなくても……!」

 息を切らしながらあとからついてくる真美さんに、

「ダメ。早く行ったほうがいい」

 ふり返りもせず答えて、早足を緩めることだけは決してしなかった。

 

 結局、大学の始業時間よりずいぶん早くに、俺たちは正門近くにたどり着いてしまって、近くの公園でしばらく時間を潰すことになった。

 できれば息の乱れた姿なんて見せず、平気なフリのまま真美さんを見送りたかったが、そうも言ってはいられない。

 

 誰より俺自身が、まだ真美さんと離れたくない。

 

 公園のベンチに並んで座ったら、俺は自動販売機で買ったペットボトルを片手に握りしめたまま深く俯いて、反対の手を胸に当てた。

(大丈夫、大丈夫だ……落ち着け! 落ち着け!)

 懸命に大きく深呼吸をくり返せば、乱れきっていた息だって次第に整ってくる。

 

(そう。あともう少し……もう少し……)

 一瞬でも早く、俺のヤワな心臓を元の状態に戻すためには、少しの動揺だってしてはならないと緊張していたのに、その時、真美さんが隣でぽつんと呟いた。

 

「そんなに急がなくて良かったのに……」

 俺を労わって、気遣ってくれているようなその口調に――ダメだ。

 気にしないようにしようとしたって、どうしても胸が痛む。

 

(ゴメン……余計な気を遣わせて……ほんとゴメン!)

 少しでも真美さんを安心させようと、俺は体勢はそのままに、せいいっぱい笑ってみせた。

「ダメだよ。あいつが真実さんを待ち伏せしてるかもしれない。ちゃんと安心できるまでは、俺は気を許さない……! 真実さんをあいつに会わせたりなんか……絶対しない!」

 

 笑顔のわりには言ってることがずいぶん辛辣だと、自分でも思った。

「しまった」と思ったとおり、真美さんの顔はみるみるうちにとても悲しそうな表情になった。

 

(なにやってるんだ……俺は!)

 ダメだ。

 自分で自分が嫌になる。

 

 それなのに真美さんは、俺の頬にそっと指を伸ばしてくる。

「ゴメンね。海君」

 

 自分に対する怒りを持て余したまま、俺もつられるように、そっと真美さんの頬に触れた。

 滑らかな肌の感触。

 そのまま小さな顔を上向かせて、自分のほうを向かせる。

 

 思わず頬を寄せそうになる邪念を必死に払いながら、俺は伸ばしっぱなしの自分の長い前髪をかき上げた。

 ――それは俺の小さな儀式。

 

 この行動で見えないものが見えるようになる時もあれば、暴走しかけていた感情が、すっと落ち着く時もある。

 俺は真実さんに向かって、せいいっぱいの意地で笑った。

 

「どうして真実さんが謝るの? 真実さんを守るって勝手に決めたのは……俺なんだから……!」

 必死に平静を装った俺の演技は、どうやら真実さんに通じてくれたらしい。

 ホッとしたように彼女が息を吐くのを指先で感じてから、俺は頬から手を放した。

 倒れこむようにベンチの背もたれにもたれかかる。

 

 本当はこれ以上は一秒だってもたなかったギリギリの緊張感を全部放り出して、空を見上げて息をついた。

「何だってやるよ……俺は!」

 

 それはまったくもって、俺の本心だった。



 

 冷たいペットボトルを額に押し当てて目を閉じていると、次第に本当に体調も落ち着いてくる。

 と同時に、心配させてばかりの真実さんに申し訳なくて、たまらなくなってくる。

 

 なんとか笑わせることはできないかと頭を捻って、俺は彼女と自分の共通の話題と成り得る、数少ない人物の話を持ちだした。

 

「それにしてもさ……貴子さんって凄いよね……」

 思ったとおり、真実さんはイキイキとその話題に乗ってくる。

 ――気配がする。

 

「凄いよ。勉強はもちろん、どんなことだって知らないことなんてないし……いっつも余裕だし……貴子から見たら私なんて、子供みたいなものかも……!」

 実に真実さんらしい素直な感想に、俺は思わずハハハッと笑いだした。

 

「それはそうかも!」

 あまりにもあっさりと肯定したために、意外と負けず嫌いな真実さんはムッとする。

 

 そんなことは最初から計算の上だ。

(なんでかって……それはやっぱり……俺は真実さんの怒った顔が、かなり好きだから……!)

 

 今頃、あの上目遣いのかわいい表情で、俺の顔を見上げているかもと思うと、とても目を閉じてなんていられない。

 

「海君だって! 貴子の前だったら、まるで従順な、普通の高校生じゃない!」

 唇を尖らせている表情さえ瞼に浮かんできそうな棘のある声に、俺はたまらず目を開けた。

 

「俺は、いつだって年上の人は敬ってるけど?」

 意地悪くとぼけてみせると、真実さんはますますムッとしたような顔になる。

 

「私は? 私のことはいつもからかってばかりでしょ!」

「ハハハッ。だって俺、真実さんを年上だなんて思ったことないもん……!」

 

 お腹を抱えて笑い出しながらも、そろそろ自重しようと考えていた。

 いくら怒った顔が好きだからって、あまりにもからかい過ぎて、せっかく二人きりなのに、プイッとどっかに行ってしまわれてはたまらない。

 

「年上だと思ってないんだったら、どうして海君は私のこと『さん』づけで呼ぶの?」

 正論で責め始めた真実さんに、俺は待ってましたとばかりに最終手段に出た。

 

「ああ、それはね……」

 ニッコリと笑いながら、真実さんの細い顎に手をかける。

 

「う、海君……?」

 思わず身を引こうとする真実さんの耳元にそっと顔を寄せて、小さな声で囁く。

 

「俺が真実さんの名前を呼び捨てで呼ぶ時は、どんな時かって、最初から決めてるから……」

 自分でも吹き出してしまいそうなくらい、もの凄く意味深な言葉。

 

 予想どおり真実さんは首まで真っ赤になって、ガチガチに固まってしまっている。

 

 俺は笑いだしてしまわないことだけに全身全霊をかけながら、ごく間近から真実さんの瞳をのぞきこんだ。

「なんなら、今からでもいいよ? ……そうする?」

 

 途端、今まで以上に真っ赤になって、真実さんは首をぶるぶると必死にふり始めた。

「いい! いいですっ! よ、呼ばなくていいからっ!」

 

 大慌てでぶんぶんと手まで振られて、もうどうしようもなく、愛しくてたまらなくなった。

 俯くその顔に斜めに顔を近づけて、そっとキスする。

 

「海君!」

 驚く真実さんに、本心のまま素直に頭を下げた。

 

「ゴメン、真実さん。でももう俺は、迷うのはやめたんだ。いろんなことを頭の中でグチャグチャ考える前に、自分が本当はどうしたいんだかをちゃんと態度で表すことにした。真実さんがそれを許してくれたんだって、俺は勝手に解釈したんだけど……違った? ……違ってたらゴメン……」

 

 どんな言葉が返ってくるのかと、半ば心配しながら、半ば期待しながら、笑って待つ。

 真実さんはただ、潤んだような瞳で俺を見つめた。

 その表情に、視線に、吸い寄せられるように手が伸びる。

 

 返事すら待てない、せっかちな俺。

 真実さんの頬に手を添えて、もう一度顔を近づけながら、

「違ってる?」

 間近で囁いたら、ようやく返事をもらえた。

 

 熱に浮かされたような、かすれた声。

「ううん……違わない」

 

 そして俺のすぐ目の前で、長い睫毛はぴったりと閉じられる。

 彼女の唇に触れる瞬間、俺の中では世界の何もかもが変わる。

 目を開いた次の瞬間にはきっとまた、さっきまでとは少しだけ違った世界になっているのだろう。

 

 全身を貫く甘く甘美な想い。

 それはきっと、もっと生きたいという俺の思い。

 いつだって心の奥深くでは、捨て去ることのできなかった願い。

 

 ――その全てを赤裸々に、俺の感情の表面へと浮かび上がらせてしまうこの小さな人が、たまらなく愛しくて、ほんの少し恐かった。

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