2 初めての『海』

「海に行きたい」

 という真実さんの意見に従って、俺は彼女を一番近い駅まで歩いて連れていった。

 

「俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車しかないんで……」

 冗談交じりで言った言葉に、彼女は屈託なく笑って、

「やっぱり高校生なんでしょ?」

 と、好奇心いっぱいの表情で俺の顔を見上げる。

 

 もちろんイエスもノーも答えるつもりはないから、俺は笑ってごまかして、まともな返事をしない。

 

 本当ならそこで愛想をつかして、もしくは腹を立てて、この場からいなくなってしまってもおかしくないのに、彼女は決してそうはせず、笑顔のまま俺の身勝手を許してしまう。

(なんでなんだろう?)

 俺にはそれがかなり疑問だったし、大きな謎だった。

 



 駅の構内に掲げられた沿線図と次の発車予定を見比べて、なるべく早く海へ着くには、どちらの方角に行ったらいいのかを考える。

 その結果、今丁度ホームに停車している普通列車に乗って、南へと向かうのが一番いいと、俺は判断した。

 

(ちょっと急がないとまにあわないかな……)

 さっさと二人ぶんの切符を買って、まだ沿線図の前でウロウロしている真実さんをふり返る。

 

「真実さん、こっち」

 呼びかけるとパッと笑顔になって、素直に俺に向かって走ってくる一生懸命な姿に、ふと昔飼っていた仔犬のことを思い出した。

 俺の後ろをいつも追いかけていた、コロコロとした茶色い雑種の犬。

 

 どちらかといえば痩せ過すぎに近いような真実さんと、丸々と太っていた仔犬とじゃ体型はあまりに違いすぎるが、黒目がちの大きな瞳は、よく見ると似ていると言えなくもない。

 

 一人でふき出しそうになったのを必死にこらえながら、俺は急いで改札に一番近い電車のドアに飛びこんだ。

 目についた空席をすぐに確保してから、ふり返って真実さんを手招く。

 

「どうぞ」

 彼女が俺の隣に腰を下ろした瞬間、ジリリリリリリと発車のベルがホームに鳴り響き、俺はようやく一息つくことができた。

 

(よかった……まにあった……)

 乗り遅れて、次の電車が来るまで待つなんてことにならずに、本当に良かった。

(せっかく一緒にいるんだから、時間は有意義に使わないとな……)

 彼女のために、自分のために、懸命にがんばる自分の姿はとっても滑稽で、今までにはない新鮮なものだった。

 今まで知らなかった、愛しい姿だった。

 



 ガタタンゴトトンとリズムよく響く線路の音に耳を傾けながら、窓際の席で、俺は飛び去っていく外の景色をただ眺めていた。

 オフィス街を抜け、住宅街を抜け、景色はいつの間にかのどかな田園地帯へと変わろうとしている。

 

 電車に乗ってからかなりの時間が過ぎたが、俺はいつまでも、隣の真実さんに上手く話しかけるタイミングをつかめないでいた。

 あまりにも近過ぎるからだろうか。

 それとも隣に座ってるせいで、表情がよく見えないからだろうか。

 

(ちぇっ。こんなことなら向かいあって座ればよかった……)

 心の中で舌打ちした瞬間、列車がトンネルに突入し、見えなくなってしまった窓の外の風景と入れ替わりに、まるで鏡に映っているかのように、車内の様子が俺の目の前に映し出された。

 

 隣に座る真実さんの姿に、ドキリと心臓が跳ねた。

 

 彼女は深く俯いていた。

 長い髪で顔の表情はほとんど見えなかったが、背景の暗さと相まって、昨夜俺が見つけたばかりの時の、今にもいなくなってしまいそうなあの雰囲気を、また全身から醸し出していた。

 

 ほんのさっきまで、あんなに明るい笑顔で俺に笑いかけてくれていた人と、とても同一人物には見えない。

 

(どうしたの?)

 尋ねることはできない。

 古い布製の座席のシートを、指先が真っ白になるくらいギュッと力をこめて握りこしめている――それが彼女の答えだと思うから。

 

(誰のことを……何のことを考えているの?)

 心の中だけで呟いた質問に、自分自身が傷ついた。

 

 みっともない一人相撲が悔しくて、腹立たしくて、俺は被っていたキャップを取る。

 

 列車がサアッとトンネルを抜けると同時に、眩しいくらいの明るさで窓いっぱいに広がった景色に目を細めながら、俺は隣で俯く真美さんの頭に、乱暴にそのキャップを被せた。

 

「何?」

 当然ながら驚いて顔を上げた彼女に、

「貸してあげる」

 とだけ言って、目は窓から動かさなかった。

 

 いきなりの突飛な行動なんだから、真実さんは怒ったっていいんだ。

「なんで? どうして?」って、しつこくわけを尋ねたっていいんだ。

 

 だけどその頃にはもう、彼女がそうはしないだろうことは、俺にはわかっていた。

 

「ありがとう」

 この上なく優しい調子で返ってきた言葉に、不覚にも涙が浮かびそうになった。

 

 そんな様子を彼女に悟られるのは絶対に嫌だったので、俺は不自然なくらいに窓の外を見つめ続ける。

 けれど内心では、彼女が与えてくれる無条件の優しさに、深い深い感謝の気持ちを感じていた。

 

 俺がどんなに身勝手な行動をしても、彼女は静かに受け止めてくれる。

 俺の全てを許してくれる。

 

 だからすっかり安心してしまう。

 怖いもの知らずの本性が、つい顔を出す。

 

 無理やり自分の帽子を被せてからは、なぜだか真美さんのほうにも向き直ることができるようになった。

 

(もともと無理に決まってる……一目見た途端、目を放すことができなくなって。どうしようもなくて。思わず車を降りてまで声をかけた人に、いつまでも背を向けたままでいられるわけがない……!)

 

 さっきまでとは真逆に今度は窓に背中を預けて、彼女のほうを向いて座ることにした俺に、真実さんはかなりうろたえているようだった。

 じーっと見られていることにも、きっとかなり困惑している。

 

 そう思うと、わざとふてぶてしく、遠慮なしに眺めるようなポーズを作ってしまうところが、俺の自分でもよく自覚している底意地の悪いところだ。

 

 とうとうこらえきれなくなったようで、真実さんは俺の顔を見上げた。

「何?」

 

 尋ねられて、俺は待ってましたとばかりに、今朝初めて彼女の姿を見た時から、くり返し心の中で思っていたセリフを口にする。

「うん、今日の真実さんは昨日より可愛いなと思って」

 

 途端に頬を真っ赤に染めて、

「年下のくせに、生意気言わないでよ」

 慌てて俯く真実さんの様子は、冗談抜きに可愛いかった。

 

 可愛い女の子が俺の帽子を被っているんだから、かなり嬉しい。

 俺という人間は、嬉しいと強く思うと、どうやら笑わずにはいられないらしい。

 

「ハハハハ」

 と声に出して笑いながら、どさくさに紛れて彼女の頭をポンと叩いた。

 俺の帽子を被った小さな頭に、初めて触れてみた。

 

 どうやらそれだけのことにも、やっぱり俺はこんなにも嬉しいらしい。

(もうずっとこのまま、二人で電車に乗ってるだけでもいいや!)

 

 さっき感じた悔しさもどこへやら、俺は能天気にそんなことを考えていた。

 

 しかし、なんといっても真実さんのご所望は『海』だ。

 

「どこに行きたいか?」と聞かれて迷わず答えたお気に入りの場所と同じ名前で、彼女は俺のことを『海君』と呼ぶ。

 単純な俺は、そのことが嬉しくて誇らしくて、どうしようもなかった。

 

「真実さん。このへんに荷物置いとくからね」

 

 本格的な海水浴シーズンには、まだずいぶんと早い。

 けれど砂浜には予想以上に人が多かった。

 

 海岸に到着するとすぐに、俺は彼女が準備してきてくれた、おそらく手作りのお弁当を砂浜に下ろした。

 当然波打ち際に行くだろうと思っていた真実さんを、エスコートするような気持ちで、早々にスニーカーを脱ぎ捨て、ジーンズの裾を捲る。

 

 しかし真実さんは遥か遠くに佇んだまま、一向にこちらにやってくる気配はない。

 

「真実さんもおいでよ」

 試しに声をかけてみたのだが、逆に砂浜に腰を下ろされてしまった。

 頬杖をつきながら、ちょっとテンション下がりぎみに「やめとく」なんて言われるから、心配になる。

 

「え? どうして?」

 どうやら彼女から見ると俺の姿は逆光になっているらしくて、眩しそうに目を細めながら、真実さんは言った。

 

「だって、絶対私に水をかけるでしょ?」

 ちょっと拗ねたような口調で言われても、一瞬なんのことだかわからなかった。

 

 波打ち際に来て、足を濡らしてみようという気持ちがあったのは確かだが、なにも、海水をすくって彼女にかけようとまで思っていたわけではない。

 わけではないが――それを真実さんが望むのなら、たとえそれがどんなことだって、俺にはできる。

 きっとやってみせる。

 

「ハハハハ」

 声に出して笑いながら、俺はふくらはぎあたりまでを濡らして、寄せては引いていくまだチョッピリ冷たい海水の中に、両手を差し入れた。

 

「それは……絶対するね!」

 いっぱいにすくい上げて放り投げたその先制攻撃は、真実さんの肩をかすめて落ちて、砂浜へと吸いこまれていった。

 

 驚いた顔の彼女。

 けれどすぐに、負けん気を発揮する可愛い人。

 

「うーみー君!」

 自分で名づけた俺の名を恨みがましく呼びながら、真実さんはすっくとその場に立ち上がった。

 

「何するのよーっ!」

 スニーカーを脱ぎ捨てながら、一直線に俺へと向かってくるその様子がおかしくて、可愛くて、俺は大きな声で笑いながら、次々と海水をすくっては、彼女に投げた。

 

「ゴメンゴメン」

 口先だけは謝りながら、しつこく何度も投げ続けた。

 

「この悪ガキ!」

 何を言われたって腹なんか立たない。

 それどころか嬉しくってたまらない。

 

 走りながら応戦し始めた真実さんに、俺はそれでも笑いながら水をかけた。

 何度も何度も、知らない人から見たらおかしいのかと思うくらい、俺達はふざけあって、水をかけあって、ずぶ濡れになった。

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