第13話 学ぶ喜び、知る喜び
そこへ厨房のあの男性スタッフが、突然、珈琲とチョコレートケーキを持ってやってきた。
「これ、試作品のサービスです。よろしかったらどうぞ」
え? 本当? と思いながら、男性スタッフを見上げると、その横に彼女さんスタッフも微笑んで立っている。
啓一くんは、
「あ、すいません。いいんですか?」
といいながらも、飲み終わったカップなどを彼女さんスタッフが片付けやすいように端に寄せた。
男性スタッフはニコリと微笑み、
「頭を使ってるとチョコレートが欲しくなりますからね。頑張っている様子ですし、どうぞ遠慮なさらずに」
とケーキの皿を私たちの前に並べた。
そして前の時と同じように、人差し指を立てて、
「一つ、アドバイスをよろしいですか?」
と言い出す。
思わずその顔を見上げる啓一くんと私。
「迷ったら現場にかえれといいますね。……もう一度『上杉本』の絵をご覧になってはいかがでしょう」
そういって一礼すると、彼女さんスタッフと寄り添うように厨房に戻っていく。
二人を見送った啓一くんが、
「……ここってすごい喫茶店だな」とぽつりとつぶやいた。
私はちょっとだけ身を乗り出して、小さな声で、
「あの二人ね。付き合ってると思うよ」
というと、啓一くんも「ああ。それはわかってる」とうなづいた。
煮詰まっていた雰囲気もなぜか和らぎ、とりあえずサービスの珈琲とチョコレートケーキをいただくことにする。
中がしっとりとしたザッハトルテ。一口食べると濃厚のチョコレートの味が口の中に広がる。
おいしい!
思わずにんまりして珈琲を飲むと、これがまたケーキとぴったりのブレンドだ。
啓一くんが微笑みながら、
「これうまいな。……ブレンドも、前に飲んだときとは配合を変えているね」
という。
すごいね。私にはそこまで味がわからないよ。わかるのは、ただおいしいってことだけ。
ちらっと厨房を見ると、私たちを見てマスターのおじいさんをはじめとするスタッフ一同が満足げにうなづいていた。
そんな素敵な休息を終えて、私は『上杉本』の図録を取り出した。
「迷ったら現場にかえれか。……まるっきりミステリーだな」と言う啓一くんと一緒にのぞき込む。
すると啓一くんがすぐに、
「おい。これって……」
といいながら、
「ここが妙顕寺、そして、道を挟んだ向かいが妙覚寺じゃないか。すぐ近くだよ」
言われてみれば、確かにセットのように描かれている。こんなに近くだから描いたのかな?
……いやまてよ? そういえば、頂妙寺と本満寺は雲の隙間から屋根の一部が見えているくらい小さくしか描かれていない。それに対して、他の4ヶ寺はいかにも大寺院というように描かれているわね。
つまり、描き方から扱い方が違っている。お寺を囲む塀まできちんと描いて……、塀?
私はがばっと『上杉本』を見入った。
ふたたび思考の海に潜っていく。
周りの景色が暗くなり、目の前には光り輝く『上杉本』が現れた。
それも法華宗の寺院以外は陰が入ったように暗くなり、相対的に、まるでスポットライトでも浴びたように寺院が浮かび上がって見える。
どこからともなく啓一くんの声が聞こえる。
「諸寺代の3ヶ寺」
その声とともに暗くなっていく、妙顕寺と本能寺と本国寺。
残る3ヶ寺を見比べると、やはり妙覚寺だけは立派に描かれていて、ちょっと異質だ。むしろ諸寺代の3ヶ寺に近い。
私はそう思いながら、
「妙覚寺は諸寺代の3ヶ寺に準じる価値のある寺院」
というと、スポットライトが落ちたように妙覚寺が暗くなる。ただしその価値が画師狩野永徳の存在か、塀のある防衛拠点としてのものかは特定はできない。
残るは頂妙寺と本満寺の2ヶ寺だ。
ふたたび啓一くんの声がする。
「将軍足利義輝の意向――」
この屏風は足利義輝が依頼したもの。
何かが心のどこかに引っかかる。
もしかして――。
すうっと夢から覚めるように現実に戻ってきた私は、啓一くんにいった。
「将軍義輝を調べるべきだわ」
とりあえず、すぐにipadを起動し概略だけでも調べよう。
足利義輝。室町幕府第13代将軍で、幼少の頃は父に従って主に近江の坂本で暮らすなど、不遇の時を過ごしていた。
永禄元年に帰洛し、三好長慶・義長親子を後援として政治を執り行った。積極的に各地の戦国大名間の争いを調停しようとし、永禄7年に長慶没後、さらなる政治改革に乗り出そうとしたという。
しかし、傀儡としての将軍を求めていた松永久秀と三好の有力な三人衆らによって、翌年の5月に二条御所に攻められて、勇戦むなしく没している。
こうしてみると、将軍としての在るべき姿を模索しようとしつつも、ついに無念の死を遂げた人物として評価してもいいような気がする。
私のipadの画面を見ていた啓一くんが、
「ちょっとまてよ。義輝って、近衛家とものすごく姻戚関係が深くないか?」
それは確かにそうかも。なにしろ、母は近衛
「この尚通は日記があっただろう。……これは要調査だな」
あ。そ、それは確かに。
今までこの『上杉本』と先行研究を主に見てきて、『本能寺史料』以外には関連する資史料を調査していなかったわ。
……でも、古文書とか古記録って、白文の和製漢文だから読む自信がないんだよなぁ。
そう思うと、啓一くんの「要調査」に返事をすることもためらってしまう。
そんな私の自信なさげな顔を見た啓一くんは、やれやれといったようにため息をつくと、
「わかった。日記は俺も調査する」
と言ってくれた。
思わず、
「やったぁ。さすがは啓一くん。……大好き!」
とどさくさに紛れていうと、啓一くんが突然、ごほっ、ごほっとむせた。気のせいか、顔が赤くなっている。
「京子ぉ。突然、変なことをいうなよな」
という啓一くんの表情をうかがう。
……う~ん。これは脈ありなのかどうなのか、恋愛偏差値が低すぎる私には判断がつかない。キッコがいるときにやってみればよかったかも。
結局、そのまますぐに学部の図書館に直行することにして『南風堂』を出た。
会計をしてくれた彼女さんスタッフが、
「がんばってくださいね」
と応援してくれるのが、すごくうれしかった。
学部の図書館に入り、二人で分かれて調査をする。
今度は最初っからレファレンスに行き、近衛家関係の日記を調べてもらうと、『後法興院記』『後法成寺関白記』の二つが参考になりそうだとわかった。
早速、日本史のコーナーから取り出して、閲覧スペースで二人並んで読み始める。
が、
「うう、やっぱり私には無理だよ」と泣き言をいうと、啓一くんが、
「しょうがないだろ。今度、俺がおごってやるから頑張って読めよ」
……おお! その言葉に、なんだかしらないけどやる気が出てきたよ!
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