第2話 悩める女子大生
演習の講義が終わり、みんなが三々五々に教室から出て行く。
私は落ち込んだ気分のまま、教科書を閉じてショルダーバッグにしまった。バッグに自分で縫い付けたガーベラの刺繍も、いつもが元気をくれるのに、今日は元気なさげに見える。
「ね、京子。今日はもう講義ないでしょ? 気分転換に喫茶店に行かない?」
「あ、うん。そうだね」
気乗りがしないままに返事をすると、ぽんっとキッコに肩を叩かれた。
「……そんなに落ち込むことはないと思うよ」
微笑みつつも器用に真剣な目をしているキッコを見て、心配かけちゃったと申しわけなく思う。
わざと明るく、
「大丈夫。大丈夫だって! ただ、ちょっと自分が情けないなって思っただけだから」
と言うと、キッコは「さっさと行くぞぅ!」と、強引に私の腕を引っ張りながら教室を出て行こうとした。
キッコの明るい強引さに、「なはは」と苦笑いしながら教室を連れ出される時に、ふと啓一くんと目が合った。
何か言いたげな顔。だけど声をかけてくることもなく、キッコによって私は教室から強制的に連行されていく。
今日はもともと雨の予報だったけれど、外に出てみると想像以上のどしゃ降りだった。
激しい雨の中をキッコと二人で傘をさしながら駅に向かい、雨から逃げるように途中の『南風堂』という珈琲店に入る。
ここはよくキッコと一緒に来ているお店で、アルコール類はなく、珈琲と紅茶、そして、ビーフシチューがおいしいお店として、知る人ぞ知るお店だ。
傘の水気を切って傘立てに入れる。しっとりと雨露にぬれている肩を軽く払うと、ちょうどいいタイミングで女性の店員さんがやってきた。
スタイルのいい店員さんに案内されて、奥のテーブル席にキッコと向かい合わせて座る。
今日の女性スタッフは美人の2人組。私と違ってスタイルも良くて、実は密かに憧れている。
通ううちになんとなくわかったことだけど、どうやら一人は厨房の男性と付き合っているらしい。たまにその二人が楽しそうにおしゃべりしているのを見ると、その甘い空気が店内に漂ってきて思わず砂糖を吐き――、いやいや実にうらやましいわけであります。
「ええっと、私はブレンドにチーズケーキ。京子は何にする?」
キッコの声に、私はメニュー表を見ながらちょっと考える。
ここってね。珈琲もケーキもおいしいから迷うのよね。今日は……、嫌なこともあったし一番好きなモンブランにしよう。
「じゃあ、私はキリマンジャロにモンブランで」
注文を確認して店員さんが戻っていった。
もう季節は9月。どういうわけか、今年は秋雨前線が活発に活動しているみたいで雨が多いような気がする。
お店に来るまでの打ちつけるような雨に、すっかり体も冷えてしまった。
ため息をつきながら店内を見渡すと、シックでどこかレトロな落ちついた雰囲気に、ようやく人心地がついた気分になる。
キッコも「ふうぅぅ」と長いため息をして、
「すっごい雨だったね」と苦笑いした。
窓から外を見ると、今も激しく降っている雨の中を色とりどりの傘が行き交っていた。小学生らしい小さい子もランドセルまで覆うカラフルなカッパを着て、足早に通り過ぎていっている。
「――しっかし、あいつももっと優しく言えばいいのにさ」
窓の外をぼんやりと眺めていたところを、キッコの言葉で我に返る。
どうやら演習の講義のことらしい。口を尖らせているキッコに、思わず苦笑いが浮かんでくる。
私は首を横に振って「ううん。キッコいいのよ」と言いながら、ショルダーバックから『国宝 上杉本 洛中洛外図屏風』と書かれた、薄く大判の図録を取り出した。
『上杉本 洛中洛外図屏風』。六曲一双の美しい屏風で、京都の洛中と洛外の風景と様々な職業の人々が生き生きと描かれたもの。
室町幕府第13代将軍の足利義輝があの有名な狩野永徳に描かせたもので、後に織田信長の手に渡って、天正2年(1574)に信長から上杉謙信へと贈られたという。
いくつかある洛中洛外図の中でも、個人的には一番魅力を感じている。
図録を開いて屏風の写真に視線を落としながら、
「ほら、私は卒論をこれにしようと思ってたからさ。余計に落ち込んじゃった」
なんとなく写真に指を這わせて、
「――もう3年生になって半年過ぎたのに、まだテーマを絞れていないのよね」
と独り言のようにつぶやく。
キッコが私の手をツンツンと突っついた。思わず顔を上げると心配そうなキッコが、
「そんなの私だって大同小異よ。だって、こないだの指導を受けたときに、なんとなく決めたわけだしさ」
「ふふふ。ありがとう。……でもそれだけじゃないのよ」
私がこんなにも憂うつなのは、卒論のことだけじゃない。
3年生も後半になり、早い人はもう就職活動の準備に入っている時期だ。ついこないだ成人したばかりなのに、環境がどんどんと変化していくのをひしひしと感じるの。
就職したら結婚、結婚したら出産、出産したら子育て……。このまま決められたレールに乗っかって、どんどん運ばれていくような錯覚を覚える。
もちろん子供が嫌いなわけじゃない。結婚が嫌なわけじゃない。
といっても、まだ彼氏すらいないわけで。もしかしたらお見合い、結婚と流されていくような気もする。
つまりだ。もう自分の未来が半ば見えてしまっているのよ。それも遊園地の乗り物のように、レールに乗って自動的に運ばれていくような人生。
――そう思うと、ますます気が滅入っていく。
そう話したら、キッコが呆れたように、
「ちょっと京子。あんたは料理も裁縫もできるからいいけどさ。私はどっちも壊滅的なんですけど。――そんなに悲観することないわよ。ただ、少なくとも卒論はそろそろ真剣に始めた方がいいかな」
と諭してくれた。ま、そうなんだけどね。
そこへ珈琲とケーキが運ばれてきた。
珈琲の香りが私を優しく包んでくれる。その芳しい香りに疲れた心が癒やされるみたい。
一口飲んで、思わず口元をほころばせると、ようやくキッコが安心したように微笑んだ。
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