第三章 深く長い因縁

「藍ちゃん、御幸の奴、何を怒ってるの?」

 夕食がすみ、台所で洗い物をしている藍に食器をお盆に載せて来た裕貴が尋ねた。藍は濡れた手をタオルで拭いながら、

「怒ってなんかいないと思うよ。恥ずかしがってるんだよ」

 藍の返答に裕貴はキョトンとした。

「恥ずかしがってる?」

「裕貴君、御幸の事が好きなんでしょ?」

 藍がニッとして小声で言う。たちまち裕貴の顔が真っ赤になった。

「ち、違うって! あいつは妹みたいなもんで、あいつだって俺の事、兄貴のように思っているだけから、そういうのやめてよ、藍ちゃん」

 裕貴が思った以上に動揺したので、藍はクスクス笑い、

「ごめんごめん。でもね、御幸が裕貴君にきつく当たるのは、裕貴君の事をお兄ちゃん以上だと思っているからだよ」

「え?」

 裕貴はギクッとしたようだ。藍は優しく微笑み、

「私がからかったせいでギクシャクされるのは嫌だからさ。御幸は、裕貴君が私の事ばかり話すって言ってたでしょ? あれ、ヤキモチだよ」

「あ……」

 裕貴はハッとしてあれこれ思い出しているようだ。

「もう少し、御幸に対する接し方、考えてみて、裕貴君」

 藍は裕貴から食器を受け取り、また洗い物を始めた。

「はあ……」

 ドンドン高鳴る鼓動を感じ、裕貴は溜息とも返事ともつかない声を漏らした。


 鳥取分家の邸には、日本各地から小野一門の人間が集まっている。宗家である仁斎はそう思っていた。ところが、そこに来ていたのは、仁斎の他は茨城分家の道斎、神奈川分家の善斎、京都分家の丞斎だけであった。それどころか、邸の中には明斎しかおらず、家族も使用人の姿もない。

「明斎、他の分家の者達はまだ来ていないのか?」

 人気のない邸の様子を妙に思った仁斎が尋ねた。明斎は神社の拝殿の飾り付けをしていたが、手を休めないままで、

「皆様方だけです。他の分家は取るに足らない存在ですので、連絡もしておりません」

 それを聞いた丞斎がムッとして、

「何をバカな事を! 各分家の当主の葬儀には、一門が集まるのが昔からの習わしだぞ」

「その通りだ。分家に優劣をつけるとは何という思い上がった考えだ。すぐに全ての分家に連絡しろ。我らは皆が集まるまで待つ事にする」

 善斎も語気を荒げて言った。すると明斎はようやく手を休めて振り返り、

「そのような事をするつもりはありませんし、する必要もありません」

 仁斎が一歩前に踏み出し、

「どういう意味だ?」

 明斎はニヤリとして、

「小野一門は今日を限りに滅ぶからですよ」

 その言葉に仁斎達は目を見開き、前年の六月に現れた源斎を思い出した。

(雅の言った通りなのか?)

 仁斎は明斎の顔を睨(ねめ)つける。

「貴様、まさか黄泉路古神道を!?」

 道斎が身構えて明斎を睨む。しかし明斎はフッと笑って、

「黄泉路古神道? そのような下等な呪術など興味がありませんね」

 その言葉に道斎と善斎は唖然としたが、仁斎と丞斎はビクッとした。

「それはどういう事だ、明斎?」

 仁斎が更に一歩前に出て尋ねる。すると明斎は仁斎を睨み返し、

「言葉通りだよ、老害ども。俺は黄泉路古神道はおろか、姫巫女流すら凌ぐ力を手に入れたんだ」

 仁斎の額に汗が伝った。丞斎も目を見開いている。道斎と善斎には明斎の言った意味がわからないらしい。二人は仁斎と丞斎を見た。

「姫巫女流を凌ぐ力だと? たわけた事を!」

 善斎が怒りを露にし、その右手に光り輝く剣を出した。

「小野一門を滅ぼすなどと、貴様如きにそのような事ができるものか!」

 善斎は剣を上段に構えた。

「やめよ、善斎。明斎は見つけてしまったようだ」

 丞斎が善斎の肩に手をかけて止めた。

「見つけてしまった?」

 それは善斎と道斎の口から同時に発せられた。明斎はニヤリとして丞斎を見た。

「ほう、さすが元宗家の家系ですねえ、丞斎様。知っていましたか」

「その言い方、儂を挑発しているつもりか、明斎?」

 丞斎は道斎や善斎と違ってごく冷静だ。明斎の言葉に動揺はしていたが、熱くなってはいない。

「そんなつもりはないよ、ジジイ共。てめえらを挑発してみても何の面白味もないからな」

 明斎は鼻で笑って言い放った。道斎が前に出ようとするが、仁斎がそれを遮った。

「そこまで言うからには、それなりの覚悟をしているという事だな、明斎?」

 仁斎は右手に光り輝く剣を出した。明斎はそれに気づいてニヤリとし、

「ほお。いきなり十拳剣を出すか、宗家のジジイ? 余程俺が怖いと見える」

「いや、お前など怖くはないよ、ヒヨッコ。儂が怖いのは、お前が起こそうとしているものだ」

 仁斎は目を細めて言い返した。明斎は高笑いをして、

「強がりを言うな、ジジイ。本当はチビリそうなくらい怖いんだろう、俺の事が?」

 その挑発にまた道斎がいきり立ちそうになるが、

「どうやらお前は自分が何を起こそうとしているのかわかっていないようだな」

 丞斎が横から進み出て言った。明斎は目を見開いて丞斎を見る。

「わかっているさ。俺が見つけたのは、闇の最高神の起こし方だ。この世の全てを消滅させる、な」

 明斎は血走った目で仁斎と丞斎を睨みつつ、右の口角を吊り上げる。

「そこまでわかっていながら、何故起こそうとする? お前も死ぬ事になるのだぞ?」

 丞斎は眉をひそめて尋ねる。

「俺は死など恐れてはいない。むしろ歓迎するくらいさ」

 仁斎は明斎の狂気ぶりを知り、唖然とした。

「死を恐れないだと? 何を戯けた事を」

 善斎は剣を消して明斎を罵った。明斎は善斎をチラッと見てから、

「人が死を恐れるのは、死の先に何があるのか、あるいは何もないのか、わからないから恐れる。俺は死の何たるかを知っている。だから恐れるなどあり得ないんだよ、ジジイ」

「貴様、先ほどからあまりにも無礼な言動! 許さん!」

 仁斎達四人の中では一番年少の道斎が丞斎の横をすり抜けて右手に出した光の剣で明斎に斬りかかった。

「道斎!」

 仁斎と丞斎が止める間もなく、道斎は明斎に剣を振り下ろしていた。

「おせえよ、おっさん」

 明斎はスッと道斎の太刀筋をかわし、鼻で笑った。

「うう!」

 道斎は剣を構え直して明斎を睨みつける。明斎はカッと目を見開き、

「てめえ達を相手にしている暇はねえんだよ。俺はこれから闇の最高神を呼び出すんだからよ」

 道斎はギリギリと歯軋りして、

「ならば何故我らをここに呼んだ!?」

「決まってるよ。てめえらをにえにするためだよ。神がこちらにおわすためにはたくさんの供物がいるんだよ」

 明斎の目がますます狂気を帯びて来た。

「何!?」

 仁斎が剣を下ろして眉を吊り上げた。明斎は仁斎達を順番に睨みつけ、

「だが、その前に儀式をけがそうとする奴を成敗する!」

と叫ぶと、漆黒の剣を右手に出し、誰もいない空間を斬りつけた。

「ぬう!?」

 明斎はそれが罠だと気づき、剣を引いた。そこに転がったのは死体ではなく、長さ一メートルほどの角材だった。

「うお!」

 明斎は次の瞬間背後から現れた漆黒の剣に背中を斬り裂かれた。

「ぐうう……」

 明斎は大量の血を流しながらも素早く雅から離れ、拝殿の脇に回り込んだ。仁斎達に対しても真正面を向けるようにしたいのだろう。

「おのれ、雅、俺を騙したな!?」

 明斎は肩で息をして叫んだ。雅はスウッと異空間である根の堅州国から姿を現した。

「お前は俺が根の堅州国から戻る位置を正確に知る事ができるからな。まともに戻ったら斬りつけられるのはわかっている」

 雅はフッと笑って明斎を見た。


 藍は御幸と裕貴が風呂に入ったのを確認して風呂場に向かう途中だった。

「何!?」

 藍は身震いしてしまうような気を感じた。

「お祖父ちゃん!」

 彼女は咄嗟に仁斎の危機を知った。

(何が起こっているの?)

 するとそこへ半乾きの髪を揺らせて御幸が現れた。

「藍姉、何、今の? お祖父ちゃん達に何かあったのかしら?」

 彼女も祖父善斎の危機を感じて部屋を飛び出して来たようだ。更に、

「藍ちゃん、今何があったんだ?」

 裕貴もやって来た。御幸は濡れた髪を裕貴に見られたのが恥ずかしいのか、俯き、裕貴も御幸のその仕草を見て顔を赤らめた。

「はっきりとはわからないけど、あっちで何か起こったみたいね」

 藍は神妙な顔で二人を見た。そして、

「ごめん、留守を頼むわ」

「え?」

 裕貴と御幸はドキッとして互いの顔を見た。藍は二人の間をすり抜けるようにして廊下を進み、自分の部屋に戻ってしまった。

「えええ?」

 藍が出かけるという事は、二人きり? 御幸も裕貴も顔を真っ赤にした。

「ちょっと藍ちゃん、困るよ」

「藍姉、ちょっと!」

 すると藍はライダースーツに着替えて来た。

「これから鳥取に行くわ」

「だったら、俺も」

「私も」

 裕貴と御幸が口を揃えて言う。しかし藍は首を横に振り、

「飛行機で行ったのでは間に合わないわ。私一人で行く」

「え、それって……」

 御幸が探るような目で藍を見る。藍はそれには答えず、

「そういう事だから、ごめんね!」

と言うと、廊下を走り去った。

「待ってよ、藍姉」

 御幸が追いかける。裕貴もハッとして、

「藍ちゃん!」

と走り出した。


 二人が追いついた時、すでに藍は庭で祝詞を唱え始めていた。

「高天原に神留ります、天の鳥船神に申したまわく!」

 藍が柏手を二回打つと身体が金色に輝きだし、辺りを照らす。

「うわ……」

 裕貴も御幸も、噂には聞いていたが、実際に藍が姫巫女流の飛翔術を使うところを見た事はない。二人共口をポカンと開き、飛び去る藍を見上げていた。

「あ」

 そして、本当に二人きりにされたのを思い出し、互いを見た。

「えっとさ……」

 裕貴が頭を掻きながら口を開いた。すると御幸は、

「ここじゃ寒いから、中に入って話そうよ」

「あ、うん」

 二人は妙な距離を保ったまま、家に入って行った。


 明斎は血を滴らせたままで雅を睨んでいる。雅はそんな明斎の怒りの形相を受け流すかのような無表情な顔をしていた。

「お前がそこまで馬鹿だとは思わなかったぞ、明斎」

 雅は静かに言った。すると明斎は、

「貴様に馬鹿呼ばわりされたくはない!」

 仁斎は雅が現れてからの明斎の変貌ぶりに驚いていた。

(こいつ、何と執念深いのだ。まだ雅を恨んでいるのか?)

 仁斎は宗家の養子を雅に決めた日から何日も続けて明斎が電話をかけて来た事を思い出した。

(あの執念、藍に対する歪んだ愛情のせいかと思っていたが、雅に対する対抗心もあったのだな)

 仁斎は燃えるような怒りを露にしている明斎と氷のように冷たく落ち着いた雅を見比べた。

「では大馬鹿だ。闇の神を呼び出すために自分の父親を手にかけ、小野一門の主だった当主達を集めたのだからな」

 雅は蔑んだ目で明斎を見て言った。すると明斎は突然笑い出した。

「さすがだ、雅。その通りだよ。親父にはジジイ共を集めるために死んでもらった」

「外道が!」

 善斎が怒りを露にして怒鳴った。明斎はフフンと鼻を鳴らし、

「一門の嫌われ者だった親父を殺した事に腹を立ててみせるなんて、呆れ果てた偽善者だな、てめえらは」

「何だと!?」

 今度は道斎が怒鳴った。明斎は道斎を見て、

「そうだろうが? 何かにつけて一門の会合で難癖をつけ、昨年の源斎の事、小山舞の事、椿の事、全てにおいてあんたらに食ってかかった親父が死んだんだ。感謝されても怒鳴られる筋合いはねえよ」

 雅と丞斎は「椿の事」と言われた時、一瞬だが怒りの表情をした。

「お前と令斎は不仲ではなかっただろう? たったそれだけの理由で実の父親を殺したというのであれば、お前は外道どころか魔物だ」

 仁斎は丞斎の気持ちを察したように彼の前に出て言った。

「それだけじゃねえよ。親父は全くの役立たずだった。宗家との養子縁組の件もそう、椿との事もそう。万事において、間が抜けていた」

 明斎は仁斎を見てニヤリとして言う。

「椿との事とは何だ?」

 丞斎が初めて気色ばんだ表情になった。雅もキッとして明斎を睨む。

「宗家との養子縁組が破談に終わった後、親父は京都の椿に連絡を取り、俺との仲を取り持とうとした。それも俺に何の断わりもなく、だ」

 明斎は忌ま忌ましそうに拝殿を見上げる。拝殿の奥には彼の父である令斎の遺体が安置されているからだ。令斎が椿に連絡を取っていたという話は、丞斎にも雅にも初耳だった。

「親父にしてみれば、第一分家の島根分家を吸収し、実質的に一門の第二位になったと思ったんだろう。だから、それに更にはくをつけるために、京都と直接繋がりを持とうと思ったのさ。愚かとしか言いようのない浅知恵だ」

 明斎は鬼の形相で仁斎達を見た。

「そのせいで俺は完全に椿に嫌われ、連絡をしても電話に出てもくれなくなってしまった。宗家の小娘をいただけると思っていたのを横からさらわれ、その上昔から好きだった椿まで貴様に!」

 明斎は雅を指差し、荒々しく息をした。興奮度合いが極限に達したようだった。仁斎は藍の事で、丞斎は椿の事でムッとしたが、拳を握り締めて感情の爆発を堪えた。

「被害妄想だ、明斎」

 雅はまた蔑んだ目で明斎を見た。そして、

「自分のして来た事を棚に上げて父親や一門を罵るような男はどんな女にも好かれはしない」

「黙れェッ!」

 大声を出した事と出血が激しい事が合わさったのか、明斎はふらついた。

「む?」

 雅は明斎の出血がすでに致死量を超えている事に気づいた。

「明斎、お前はやはり、開けてしまったのか、あれを?」

 雅は今度は哀れんだ目を明斎に向けた。仁斎と丞斎がギョッとして明斎を見た。

「ああ、開けたさ。開けなければ我が望みは叶わないからな」

 明斎は引きつったような顔でけたたましく笑った。

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