第一章 思わぬ来客

 藍が祖父仁斎からの電話を切ると、聞き耳を立てていた剣志郎が口を開いた。

「鳥取に行くのか?」

 剣志郎のあまりに単刀直入な問いかけに藍はちょっとイラッとしたが、

「私は授業があるから行かない。それにお祖父ちゃんが行くのは、分家の葬儀を執り行うのは宗家だからなのよ」

「そうなのか」

 剣志郎はホッとしたようだ。

(わかり易い奴)

 藍は呆れてしまった。実は彼女が鳥取に行かないのには別に理由がある。鳥取分家の当主であった小野令斎には息子がいる。名は明斎。歳は藍より五つ上の三十歳。令斎は十五年前に宗家に明斎を養子として欲しいと懇願して来たのである。令斎は上昇志向が強く、藍の父母が事故死し、宗家に跡継ぎとなる男子の誕生が望めなくなったのを知ると仁斎に連絡して来たのだ。しかし、既にその時、仁斎は第一分家である島根分家の小野雅を養子に迎える事を決めていたので、令斎の話は門前払いされてしまった。雅が養子になる事を知った令斎は、

「島根分家は邪法の黄泉路古神道を修得して、追放され、我が鳥取分家に吸収されたはず。ならば、我が鳥取分家より養子を出すのが筋でありましょう」

と言い、仁斎に詰め寄った。仁斎はそれに対して、

「島根分家が鳥取分家に吸収されたのは、雅を養子にすると決めた後だ。お前の言い分もわかるが、いにしえよりの習わしに従ったまで」

 令斎は仁斎にその後も食い下がったが、仁斎は彼の言い分を聞き入れなかった。

「いつか後悔しますぞ、仁斎様!」

 令斎はそう言い捨て、鳥取に帰った。以降、令斎は決して宗家を訪れる事はなかった。

(令斎さんとお祖父ちゃんの確執はともかく、明斎さんなのよね、問題は)

 藍は思わず溜息を吐いてしまった。

「どうしたんだ?」

 剣志郎が訝しそうな顔で見ているのに気づき、

「ああ、何でもないから」

 藍は慌てて教材を抱えると、社会科教員室を出て行った。

「何だよ、全く」

 ドキドキして損をしたと思う剣志郎であった。


 藍との電話を終えた仁斎はすぐに今度は京都の分家に電話を入れ、当主の丞斎と話していた。

「令斎はお前のところとは行き来があっただろう? それほど体調が悪かったのか?」

 京都小野家とは明治維新以来のわだかまりがあったので、仁斎の言い方はどうしても皮肉めいたものになってしまうし、丞斎自身もそう聞こえてしまう。しかし、後継者であった孫娘の椿をうしなって以来、丞斎は元気がなくなっていたので、仁斎とやりあう気力はなかった。

「行き来という程のものはなかったが、少なくとも山口や兵庫、広島、岡山の分家からはそのような話は聞いていなかったな」

 丞斎は素っ気なく言った。

「そうか。取越苦労かも知れんが、ちと気になってな」

 仁斎の声は神妙なものになった。丞斎はそれを感じ取り、

「黄泉路古神道を使う者がまだいると思うのか?」

「いないという確証はないからな」

 仁斎は強い調子で返す。丞斎は眉をひそめて、

「建内宿禰も滅んだのだ。何故そこまで心配する?」

「出羽の泉進から連絡があった。山陰に気の乱れがあるとな」

 仁斎の言葉に丞斎は目を見開いた。

「遠野泉進がか。それは確かに気になるな」

 丞斎は目を伏せて一瞬考え込んだが、

「いずれにしても葬儀でまた顔を合わせるのだから、詳細はその時に」

「わかった」

 仁斎は受話器を戻し、眉間に皺を寄せた。

(泉進の言葉で、ある事を思い出した。調べてみる必要があるな)

 仁斎は廊下を素早く歩き、玄関へ急いだ。


 そして、噂に上がった山伏姿の遠野泉進は自宅の縁側に腰かけて、白装束の男と話していた。

「鳥取か?」

 その男は長い前髪で顔の右半分がほとんど隠れていて、後ろは一つに束ねている。鋭い目つきで泉進を見ているが、決して敵意はない。

「そこまで限定はできんな。あの辺りというくらいしかわからん」

 泉進は男の湯飲みに朱塗りの急須でお茶をダボダボと注ぎながら応じた。

「何故鳥取だと思ったのだ?」

 泉進は自分の湯飲みを手にして尋ねた。男は一口お茶をすすり、

「気になる男がいるからだ」

「気になる男?」

 泉進は興味深そうに目を見開き、男に顔を近づけた。男は湯飲みを縁側に置き、

「少しばかり因縁がある奴だ。もう遠い昔の話だが」

「女絡みだな?」

 泉進がニヤリとして言うと、男はキッとして泉進を見た。

「おおっと。怒るな、雅。お前には女難の相が出ている気がするので、そう思っただけだ」

 泉進は苦笑いをして言い訳をした。

「邪魔したな」

 雅。かつて小野一門の第一分家であった島根分家の後継者だった小野雅はそう言い置くと立ち上がり、空間に溶け込むようにスウッと消えてしまった。泉進はそれを見て溜息を吐き、

「身を滅ぼすとわかっていながらもまだその力に頼るか、雅。いや、頼るしかないのか」

と呟いた。


 雅が使う黄泉路古神道には「根の堅州国」という異空間を通る事により、瞬時に別の場所に移動できる術がある。彼はその術を使い、出羽山中から一気に山陰へと移動した。

「この辺りか……」

 雅が現れたのは松江市東出雲町だった。古事記で黄泉比良坂よもつひらさかのこの世側の半分とされる伊賦夜坂いぶやざかがあり、「神蹟黄泉比良坂伊賦夜伝説地」の石碑が建てられている町である。

「伊賦夜坂が近いのは偶然か?」

 雅は石碑の前に歩み寄ろうとした。その時、不意に彼の背後から凄まじい殺気が迫った。

「く!」

 雅は素早くその手に漆黒の剣である黄泉剣を出し、背後からの襲撃を受け止めた。

「邪法に手を染めた外道が何をしに来た?」

 雅に受け止められた白く輝く剣を引き、彼と同年代くらいの衣冠束帯の角刈りで筋肉質の若い男が言った。身長は雅と同じくらいだが、腕力は数段上に見える。

「お前は明斎か?」

 雅は漆黒の剣をスッと消しながら男に問いかけた。

「よく覚えていたな? 負け犬の俺の事など、とうに忘れたと思っていたよ」

 明斎と呼ばれた男は右の口角を吊り上げて言い放つ。

「負け犬? どういう意味だ?」

 雅は眉をひそめ、明斎を睨んだ。明斎は白い剣をスッと消すと、

「宗家の養子の話だよ。俺は門前払いだった」

 雅はフッと笑い、

「その後俺は宗家を追放された。お前の方がましだ」

「ほざくな!」

 明斎は目を見開き、身体を震わせて怒鳴った。雅には彼がそこまで怒る理由がわからない。雅が黄泉路古神道を修得した事を怒るような性格ではないのだ。

(自分さえ良ければそれでいいと考える男が何故俺に怒りを覚える?)

 雅が探るような目で見ているのに気づいた明斎は、

「貴様は俺から昇進の道ばかりではなく、あらゆるものを奪ったんだよ!」

と怒鳴りながら詰め寄った。

「あらゆるもの、だと?」

 雅には見当がつかなかった。

(何を言っているんだ、こいつは?)

 明斎は雅の襟首を捩じ上げ、

「貴様は俺の人生設計を台無しにした。宗家との養子縁組ばかりでなく、恋愛も結婚も……」

「恋愛? 結婚?」

 雅は彼の手の指の倍くらいある明斎の指を掴んで襟から引き剥がした。

「まだわからないのか、貴様は?」

 明斎がまた掴みかかろうとしたので、雅は後ろに飛んでかわした。

「ああ、わからんな。きちんと説明しろ」

 雅も腹が立って来ていた。

(こいつ、昔から俺には敵対心があった奴だが、未だに……)

 そこまで思い出し、ある事に思い当たった。

「椿、か?」

 その名前を口にするのも辛い。しかし、それ以外考えられなかったのだ。小野椿。京都小野家の後継者にして、一門最高の巫女と言われた女性だ。彼女は吉野山中で引き起こされた事件で命を落としている。

「やっとわかったか。貴様は宗家の養子の地位だけでなく、椿の心も奪った」

 明斎はまた身体を震わせていた。

(それが本音か。なるほどな)

 雅は明斎の不器用さを哀れんだ。

「俺はお前が椿と出会う前からあいつと仲良くしていた。お前よりずっと以前から椿を女房にしようと思っていたんだ」

 明斎は目を潤ませていた。雅は溜息を吐き、

「逆恨みだ、明斎。俺は椿とは只の幼馴染。それ以上の関係ではない」

「黙れ! 奇麗事を言うな! お前がどう言い繕おうと、椿の思いはお前に向けられていた。それを知らなかったとは言わせんぞ!」

 明斎の目から涙が溢れた。雅は彼の椿に対する本気を感じた。椿の思い。それは今の雅にとって何よりも重い言葉だった。

「俺は椿に自分の思いを告げた。椿は考える事なく『私の中には雅しかいない』と応えたんだ!」

 明斎は涙を拭いながら尚も喚き続けた。雅には返す言葉がなかった。

「そして、椿はお前のせいで命を落とした。だから必ずお前にはその報いを受けさせる」

 明斎は雅を指差した。雅の額に汗が伝う。

「だが、今はまだその時ではない」

 明斎はそう言い残し、身を翻すと立ち去ってしまった。

(今はまだその時ではない? どういう意味だ?)

 雅は小さくなっていく明斎の後ろ姿を見ながら考えた。


 空が茜色に染まり始めた頃、藍はその日の仕事を終えてライダースーツに着替え、駐車場に向かっていた。

「あら?」

 駐車場の手前の通路に女子生徒が一人立っているのが見えたので思わず立ち止まってしまった。

(あれは確か、本多さん?)

 本多晴子。前年の十二月にある事件が元で藍と関わるようになった生徒だ。風が吹き抜けるところなので、晴子は手を擦り合わせて寒そうにしている。

「どうしたの、本多さん、こんなところで?」

 藍が声をかけると、晴子は嬉しそうに藍に近づいて来た。

「ご迷惑じゃなかったですか、先生?」

 突然奇妙な事を言い出されたので、藍はキョトンとした。

「ご迷惑?」

 すると晴子は苦笑いして、

「あ、いいんです。ごめんなさい。さよなら」

と言うと、駆け去ってしまった。藍はますます訳がわからなくなり、首を傾げた。

「どういう事?」

 そして、

(もしかして、剣志郎にチョコをあげた事? 私が嫉妬したと思ってるの?)

 誤解だからと言えば、また剣志郎を傷つけてしまう。

(私って本当に酷い人間だ)

 藍は大きく溜息を吐き、また歩き出した。


 バイクで神社の境内の前に着いた時、藍は薄暗くなった鳥居の脇に知った顔が二人立っているのに気づいた。

「藍姉、久しぶり!」

 嬉しそうに手を振る黒のスカートスーツを着た女性。髪は肩までのセミロングで、黒のヘアバンドで額を出している。

「藍ちゃん、今日は」

 もう一人は黒のスーツを着た男性。七三にキッチリと分けた髪型が実直なイメージを想像させる。

御幸みゆき裕貴ゆうき君」

 藍はバイクを停めてヘルメットを取ると微笑んで言った。御幸は神奈川分家の長女で、藍より三つ下の二十二歳。裕貴は茨城分家の後継者で、藍と同い年である。

「何だ何だ、二人はそういう関係?」

 藍はニヤニヤし、バイクを押して近づいた。すると裕貴も御幸も互いを指差して、

「とんでもない、こんな奴!」

と異口同音に言った。そのコンビネーションの良さに藍は思わず噴き出してしまった。

「今日はどうしたの?」

 藍は笑いを堪えながら尋ねた。すると裕貴が、

「北畠の奴が、何かが起こりそうだから東京に行って藍ちゃんと合流しろって」

「北畠さんが?」

 北畠とは、吉野の事件の時に藍のところに来た水戸の陰陽師の家系の男だ。裕貴と北畠は同級生である。

「私は、お祖父ちゃんが行けって言ったの。出羽の泉進様から連絡があったそうよ」

 御幸が言い添えた。

「本当は親父と一緒に鳥取に行くつもりだったんだけど、宗家に行けって言われたんだ」

 裕貴は不満そうだ。すると御幸がニヤリとして、

「あれあれ、裕貴君は藍姉に会えるから、嬉しかったんじゃないのお?」

 裕貴は真っ赤になって、

「バ、バカヤロウ!」

 藍はそんな二人のやり取りを微笑んで見ていたが、

「そう言えば、お祖父ちゃんはいないの?」

「ああ、仁斎様はもうお出かけになったよ、ウチの親父と御幸んとこのお祖父さんと一緒に」

 裕貴がチラッと境内を見て答えた。

「そうなんだ。取り敢えず、家に入ってよ。私を待っていてくれたんでしょ?」

 藍は鳥居から外れた細い路地からバイクを転がして境内に入った。

「まあね」

 御幸は裕貴と顔を見合わせてから藍に続いた。裕貴がそれに続く。

「関東の小野分家も、ウチと御幸のとこだけになったから、寂しくなったね」

 裕貴がボソリと言った。他の県の分家は明治以降次々になくなってしまっている。ある分家は跡継ぎができず、ある分家は幕末から明治にかけて起こった事件に恐れをなして逃げ出し、他の分家に吸収された。栃木の分家も小山舞率いる豊国一神教が東照宮を襲うまでは存在したが、その直後に当主の宮司が病死し、跡継ぎだった長男が継承を拒否したため、消滅したのだ。

「そうね」

 藍は裕貴の言葉にドキッとしていた。

(江戸時代には各藩に一つの分家があったほどだったけど、今はその半分もないのよね)

 そしてまた、その分家だけでなく、宗家も揺るがす事件が起こるとは夢にも思わない藍達であった。

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