ヒメミコ伝完結編 黄泉津大神

神村律子

プロローグ 杉野森学園高等部にて

 漆黒の闇。その言葉が似合う場所で蝋燭の火を灯してニヤリと笑う男がいた。

「遂に見つけた。これで日本は滅びる。我が願いが叶う。待った甲斐があった」

 男は低く笑い、蝋燭の火を吹き消した。


 二月中旬。寒さもようやくやわらいで来た。

 日本中で多くの学生達が学舎まなびやを巣立つ準備を始める時期である。

 辰野神教という東北地方に古くから存在する宗派の一党が起こした事件で、東京都にある私立の名門である杉野森学園高等部はその校舎を失った。それでも、理事長の安本浩一や事務長の原田裕二達の尽力で仮校舎が建設され、何とか受験シーズンまでには落ち着きを取り戻した。

 そんな慌ただしかった杉野森学園にも卒業式が近づいて来た。

「もうこれ以上何か起こる事はないよな」

 原田事務長は窓の外に見えるまだ蕾も付けていない桜の木を眺めた。卒業生の多くはそのまま学園の大学に進学するが、他の大学を受験する者も少なからずいる。原田はその生徒達の事を心配しているのだ。

「申し訳ありません、事務長。私がいるせいで……」

 その原田の背後に立ち、高等部の日本史の教師である小野藍は頭を下げた。ショートカットの髪がそれに応じて動き、切れ長の目が固く閉じられた。

「あ、いや、小野先生、あ、その……」

 原田はまさか藍が聞いているとは思わなかったので、酷く慌てていた。校舎が消えた一因は自分にあると藍は思っていたので、原田の言葉に反応してしまったのだ。

「そういうつもりで言ったんじゃないんだ。気を悪くしないで」

 原田はバツが悪そうに頭を掻いて藍を宥めるように肩を軽く叩いた。

「でも……」

 藍はゆっくりと顔を上げ、原田を上目遣いに見る。

「そんな目で見るのは竜神先生だけにしなさい、小野先生」

 藍は教師達の中でもとりわけ美人だ。その藍に上目遣いに見つめられると親子ほども年が違う原田でもドキッとしてしまう。もちろん、藍にはそのような感情は全くないのだが。

「え?」

 藍は原田にそう言われてビクンとした。

「武光先生はもう辞めてしまったのだから、誰にも気兼ねは要らないと思うがね」

 原田は顔が火照っているのを誤魔化すために背を向け、スタスタと歩き始めた。

「事務長、私と剣、いえ、竜神先生はそういう関係では……」

 藍は慌てて言い繕おうとした。すると原田は背を向けたままで、

「その台詞、竜神先生の前でも言えるのかな?」

「え?」

 藍はまたビクッとしてしまう。

(私は……)

 同僚の日本史の教師である竜神剣志郎とは、杉野森学園高等部の同級生であり、大学の先輩後輩でもある。長い腐れ縁なのだ。その腐れ縁の剣志郎に前年の暮れ、初めてシラフで告白された。しかし藍は返事を保留し、未だに剣志郎を待たせたままだ。

 剣志郎は彼の事を大学生の時から慕っていた英語の教師の武光麻弥に告白され、彼の意思とは関係なく、付き合った。それは本当に形だけの付き合いで、麻弥はそれを悟ったのか、それとも心変わりしたのか、年末に突然高等部を辞めてしまった。剣志郎も藍も麻弥の唐突過ぎる退職に驚いてしまった。剣志郎は、自分の煮え切らない態度に失望した麻弥が嫌気が差して学園を去ったと考え、藍は自分の態度が麻弥を誤解させて傷つけてしまったと感じている。

「……」

 気がつくと、原田はすでに事務長室に消えていた。藍は溜息を吐き、俯いたままで社会科教員室に向かった。その藍を廊下の角から三人の女生徒が見ていた。

「小野先生、また悩み事かしら?」

 藍が顧問をしている歴史研究部の部員である二年生の水野祐子が呟く。ちょっと太目のおかっぱ頭の女子だ。

「藍先生、本多先輩の事件があってから、ずっと塞ぎこんでるよね」

 同じく歴史研究部の部員である祐子のクラスメートの古田由加が言った。お下げ髪に白いヘアバンドがよく似合う。本多先輩とは、三年生の本多晴子の事だ。彼女は前年の十二月に起こった陰陽師の事件に巻き込まれた。事件は藍達の力で解決したが、晴子は精神的に大きなダメージを負ってしまったのである。藍は晴子を気遣い、公私にわたって力になっていた。晴子自身はすっかり復調したようなのだが、藍の方が疲れを見せていた。

「あれえ、そうだっけ? 違うんじゃない?」

 そう言ったのは、ヒョロヒョロとした長身でお下げ髪の江上波子。大きな丸眼鏡が愛らしい子である。三人の中では由加が一番美形だが、男子の人気者なのは話が面白い波子だ。

「え、どういう事?」

 由加は波子が自分を見てニヤニヤしているのに気づいて尋ねた。

「誰かさんが、竜神先生にバレンタインのチョコをあげたせいかもよ」

 波子のその言葉に由加はカアッと顔を朱に染め、

「な、何言ってるのよ! あれはそういうんじゃないってあの時も言ったでしょ!」

と怒鳴った。周囲にいた生徒達が一斉に彼女に注目したので、由加はハッとして声を低くし、

「家庭学習期間に入っちゃうからって、本多先輩に頼まれて渡しただけよ。私は関係ないわ」

 それでも波子と祐子はニヤついたままだ。

「その話、どうもマユツバなのよねえ」

 祐子が嬉しそうに言う。由加はキッとして祐子を睨み、

「何でよ!?」

「だってさあ、歴研で去年の六月に九州に行く話が出た時、由加は竜神先生を『私の魅力で落とす』って言ってたしねえ」

 祐子に指摘されて、由加は封印したい「黒歴史」を思い出したようだ。顔の筋肉がヒクヒクした。

「あれだって、私が竜神先生を好きだとかじゃないでしょ! 利用しようと思っただけじゃないの!」

 恥ずかしい事を思い出したので、由加はますます顔が赤くなっていく。

「だったらどうしてそんなにお顔が赤いのかなあ?」

 波子が追い討ちをかける。

「違うんだったら!」

 由加が更に反撃しようとした時、試合終了のゴングのように始業のチャイムが鳴った。

「もう、いい加減にしてよね」

 由加はプイッと顔を背けると、祐子と波子から離れて教室に戻った。

「由加って面白いよねえ」

 祐子がプッと噴き出した。波子は肩を竦めて、

「こっちの予想以上にリアクションしてくれるから、余計かまいたくなるんだよね」

 二人は顔を見合わせて笑い、教室に戻った。


 噂の竜神剣志郎は社会科教員室で悩んでいた。彼の机の上には由加が渡したチョコがある。真っ赤な包装紙で包まれ、ピンクのリボンが付けられた本格的なハート型のものだ。剣志郎も最初は由加からだと思い、ギョッとした。

(あいつからのチョコなら、絶対に食えない)

 そんな事を思ってしまうほど、剣志郎は頻繁にいたずらを仕掛ける由加達を警戒しているのだ。しかし、よくよく聞いてみると、それは三年の本多晴子から預かったものだという。剣志郎は更に首を傾げた。

(本多とは、あの陰陽師の事件の時言葉をかわしたくらいで、それ以降全然話してもいないぞ)

 チョコをもらう理由がない。剣志郎はそう思っていた。

「誰からもらったの?」

 いつの間にか彼の真後ろに来ていた藍が尋ねた。

「うわっ!」

 剣志郎は慌ててチョコを机の引き出しに放り込んだ。藍は剣志郎の告白にまだ答えてくれていないが、普段は何事もなかったかのように話しかけて来る。

(女って怖い)

 つくづくそう思った剣志郎である。

「そんなに慌てて隠さなくても、剣志郎が女子にチョコをもらったのはもう有名よ」

 藍は苦笑いして言った。剣志郎は高鳴る鼓動を感じながら、

「そ、そうなのか?」

「ええ。で、誰にもらったの?」

 藍は興味津々の目で更に尋ねた。剣志郎は藍のその目をまともに見られずに俯くと、

「古田だよ」

「ええ!?」

 藍は仰天した。驚きのあまり、ポカンと口を開き、しばらく瞬きも忘れたほどだ。

「ふ、古田さんに?」

 藍は何とか再起動し、確認の意味でもう一度尋ねる。剣志郎は、

「あ、いや、チョコをよこしたのは古田だけど、あいつは持って来ただけで、依頼人は三年の本多だよ」

「何ですって!?」

 藍は由加の名前を聞いた時より驚いた。本多晴子は確かに十二月に起きた事件で剣志郎と関わりを持ったが、チョコをあげるような親密な仲ではないのは藍が一番よく知っている。

「そんなに驚く事なのか?」

 剣志郎は藍の大袈裟とも思える反応に少しだけ傷ついていた。藍は照れ隠しに頭を掻いて、

「だって、本多さんとはあの時に少しだけ会話しただけで、その後全く顔も合わせていないでしょ?」

「そうなんだよ。だから、どうにも腑に落ちなくてさ」

 剣志郎は腕組みをして首を傾げた。

「そうよね」

 藍も釣られて腕組みをし、首を傾げた。その時、藍の机の上の電話の内線が鳴った。

「はい、小野です」

 藍は素早く受話器を取って応じた。

「小野先生、お祖父様からお電話です」

 事務の女性の声が応えた。藍は剣志郎と顔を見合わせた。

「祖父から? わかりました」

 彼女は点滅している回線のボタンを押した。

「藍です。どうしたの、お祖父ちゃん?」

 藍の祖父である仁斎は、邪馬台国の昔から続く姫巫女流古神道の正統である小野神社の宮司である。滅多な事で学園に連絡して来ない仁斎が電話をして来たので、藍は緊張して尋ねた。

「鳥取分家の令斎れいさいが亡くなった。明日葬儀だそうだ」

 仁斎の声は低くて暗かった。

「ええ!?」

 藍は今日何度目かわからないほど驚かされていた。

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