便りのカケラ

樹杏サチ

第1話


 ぼくは、ついに頭がおかしくなってしまったのかもしれない。

 お母さんの作ったぼくの大嫌いなグリンピース入りの野菜コロッケを残して、「シチューが食べたかったのに!」なんてわがままを言ったから、お母さんがいつも口うるさく言うようにバチが当たったのかもしれない。

 だってそうでしょう。

 こんなこと、日常に起こり得ない。

 ぼくの前の座席に腰掛けている紫色の派手なドレスを着た貴婦人は、上半身が透けて向こう側の背もたれが見えている。「わたくし、この前死んだばかりなのよ」と話す婦人は、汽車がガタガタ揺れるたびに、車酔いなのかハンカチを口元にあてて呻いた。

 天井からぶらさがった糸の先には、ぼくの手のひらくらいの大きさの蜘蛛がいる。陽気に歌をうたいながら、列車の揺れに乗じて体をゆらゆら揺らしていた。ときおり窓にぶつかって、貴婦人の目の前で止まると、「やめて!」とヒステリックな叫び声をあげさせていた。

 ぼくの頭くらいの大きさしかない(多分)人間や、喋る猫。ごつごつした岩の体が大きくて、頭が汽車の天井を突き破ってしまっている巨人。今にも子供が生まれそうだと喚くニワトリ。そんなニワトリから産み落とされた卵を見て、「夜が明けましたら、スクランブルエッグを用意させましょうか、ご主人様」と、クワガタに向かって話しかける老人。

 なんとも現実味に欠ける光景だ。

 夢を見ているのかもしれない。現実と夢がわからなくなるくらいリアルな夢だって、おかしくはない。

 けれど、ぼくのそんな気持ちを笑い飛ばすかのように、隣に座っていたうさぎが喋りかけてきた。

「ねえ、もったいぶらないで、そろそろ君の名前を聞かせてよ」

 町の配達屋のような恰好だ。大きな鞄を大切そうに抱え、真っ白な耳をふよふよ動かせている。大きな黒目がぼくをじいっと見つめた。


『あの子、私のことが嫌いなのよ』

 ――嫌いじゃない。

『なぜそう思うんだ?』

『賢い子よ。きっと気づいているのよ、私のこと。まだ十歳なのに……。恐ろしいのよ』

 ――知っているよ。でも、嫌いじゃない。あのことは、お母さんのせいじゃない。

『もう十歳、だよ。それに君の気のせいだろう』

『今日だって、私の作ったコロッケを床に落としたのよ。食べたくないと言って』

 ――違う。違うのに。わざと落としたんじゃない。

『もしそうだとしても、今(、)の(、)あの子の母親は君なんだ』

『わかってるわよ!』

 ――今夜の出来事。ぼくが二階の部屋に上がった後の出来事。

 ――その後は、どうしたっけ。

 ――水の音。息苦しくなるほどの水の音が耳の奥で聞こえる。これは、なんだろう。



「……テト」

 ぼくが名前を告げると、配達屋の恰好をしたうさぎは嬉しそうに目を細め、長く立派な髭をぴん、と伸ばした。

「わあ! いい名前だね。僕はブラウニーっていうんだ、よろしくね」

 それで、とブラウニーが続ける。

「テトはこれからどこに行くんだい?」

 どこに、向かっているのだろう。

 そもそも、ぼくはいつこの列車に乗り込んだのかも覚えていない。行き先もわからず座っているが、本当は早く降りてしまって家に帰ったほうがいいのかもしれない。けれど、腰が座席にくっついてしまったかのように動かない。心のどこかで家に帰りたくないと思っているのだろうか――。

 そんなぼくの思惑を読んだかのように、大きく頷いて、

「僕はね、これから手紙を届けに行くんだ。たくさんの手紙だよ。伝えられなかった言葉がね、僕のもとにたくさん届くんだ。よかったら手伝って欲しいんだ。それはもう、いっぱいあるからね。

 ……それとも、テトはその手紙を直接渡したい人がいるのかい?」

 白いふさふさの指がぼくの手元を指す。

 いつのまにか、ぼくは手紙を握りしめていた。水に濡れたような跡がある、皺くちゃな手紙。

 ――水。

 なんだろう、水を見ると、とても不安な気持ちになる。

「……テトはね、溺れたんだよ。夜、家を飛び出して、足元をすべらせてそのまま川に落ちたんだ。

 きっと、今頃みんなが必死でテトを探しているよ」

 ブラウニーは列車の中を視線だけで見渡して、

「ここにいる人たちは、みんな僕に手紙を渡しに来た人。手紙を自分で出せずに迷って、ここに辿りついた」困っちゃうよね、とブラウニーは呟く。

 大きな鞄を大切そうに抱えこみ、「だからこんなにいっぱいになっちゃった」と笑ったように見えた。

「――ぼく、帰らなくちゃ」

 でも、生きてるのかな。

 溺れてこんな場所に迷い込んでしまったということは、本当のぼくは今頃死んでしまっているのではないだろうか。戻ったとしても、自分の死体を見るだけに戻るなんて、そんなのは嫌だ。

 ちゃんと、お母さんに伝えなくちゃいけないこと、あるのに。

 野菜コロッケも、本当は好きだって。

「大丈夫。このまま終点まで行けば、テトは帰れるよ。でもそうだなぁ。それまで、僕やみんなの話し相手くらいにはなってくれるよね?」



 一年前、お母さんが病死した。

 悲しみの真っただ中に、お父さんが次のお母さんを連れてきた。

 はじめまして、と笑顔であいさつをするその人のことを、ぼくは知っている。

 綺麗なひと。

 お父さんの部屋でみつけた写真に写っていた、綺麗なひと。

 最初のお母さんも、新しいお母さんも、ぼくは好き。

 だけど、なんとなく、最初のお母さんを裏切ったような気がして、素直になれなかったんだ。

 何品も並んだ料理はどれも美味しいのに、「美味しくない」って言ってしまったり、ぼくの好きなアニメのハンカチを探して買ってきてくれたのに、本当はとても嬉しくてはしゃぎまわりたいくらいだったのに――「好きじゃない」って言ってしまったり。

 いつも、ごめんなさい、って謝りたかったんだ。



 強い日差しをまぶたに感じて、ぼくは目覚めた。

 つん、と刺すような薬の臭い。知らない場所で、綺麗だけど薄いシーツの中に、ぼくはいた。

 顔を動かし、部屋の中を見渡すと、ぼくの左側にはお母さんが椅子に座ったまま眠っていた。

 毎日きっちり綺麗に化粧をして、それからじゃないと外出しないお母さんが、髪もぼさぼさで、真っ赤な口紅もいまはしておらず、服も昨夜着ていた部屋着そのままの格好だった。袖口に、赤い染みがついている。昨夜のコロッケに添えられていたトマトケチャップだ。

 それを見て、胸がぎゅっと縮んだような痛みを感じた。

 お母さんの膝から落ちてしまったタオルケットを拾おうと、ぼくはベッドから下り音をたてないよう静かに手を伸ばした。

「……テトくん?」

 眠っていると思っていたお母さんの声が間近で聞こえ、思わず拾い上げたタオルケットを落としてしまった。慌てて顔をあげると、困ったような、悲しんでいるような、そんなお母さんの目と合う。

 いつもの癖で、パッと視線をそらす。

 ――しまった、と思った瞬間、お母さんの手がぼくの頬に触れた。

「良かった。なんともない? 苦しくない? どこか痛いところはない?」

 触れられている頬が温かい。

「……お母さん、ごめんなさい」

「なんで、あんな夜中に出かけたの?」ぼくの謝罪には答えず、お母さんは訊く。

「……コロッケを落としちゃったから。おまじない、しようと思って」

「おまじない?」お母さんが首をひねる。なんのこと? と、今にも言いたそうな顔だ。

「うん、おまじない。流れ星だった星がね、夜の川に落ちてることがあるんだ。それを見つけられたら、幸せになれるんだよ。――お母さんにあげようと思ったんだ」

「私に?」

 本当に驚いたとき、人ってこういう風になるんだ、とぼくは思った。

 目をまんまるにして、まばたきも忘れてじいっとぼくを見つめるお母さんは、信じていいのか、疑っていいのか、どちらともいえない感情と闘っているように見えた。やがて、ふふっと笑い声を漏らして俯いた。声が震えている。

「そっか。じゃあ、テトくんはそのお星さまを見つけてくれたんだね」

「え?」今度はぼくが目をまるくする番だった。顔を上げたお母さんは、肩を震わせながら涙を目にいっぱい溜めていた。

「だって、私いまとっても幸せだもの。テトくんのおかげ」

「……ねえ、またあのコロッケ作ってくれる?」

「もちろん」

「でもグリンピースは嫌いだから入れないでね」ぼくの言葉にお母さんはいたずらっぽい笑みを浮かべて「テトがいい子にしていたら」と囁くように言った。



 あの場所(、、、、)で、確かに握っていたはずの手紙がないことに気づいたのは、ぼくが退院した後だった。

 こっそり病院を訪れて、ぼくが入院していた頃よく話しかけてくれていた看護婦さんに訊いてみたけれど、手紙の忘れ物はなかったという。もちろんポケットの中にも、帰ったあと自分の部屋をぐちゃぐちゃにしながら探したけど、結局見つからなかった。

 書いた覚えはないけれど、なんとなく内容はわかっている。

 だって、ブラウニーが言っていた。

 伝えられなかった言葉が、手紙として届くんだって。きっと、だからぼくもあの場所に行けたんだろう。夢だと思うには、あまりにもブラウニーの手は温かかった。

 ……また会いたいな。

 今度は夢の中で十分。

 もしかしたら、今夜あたり、見られるかもしれない。そのためには、夜更かしなんてしないで、早くベッドに入らなくちゃ。

 その前に、お母さんが作った夕食を食べなくちゃ。

 今日は、野菜コロッケとクリームスープ。

 もちろん、グリンピースは入っていない。

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便りのカケラ 樹杏サチ @juansachi

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