番外編(本編読了推奨)

運命にいたる

 紗久良姫は、花の茎のような白く細い指を、一縷の前で交差してみせた。組合わさった指先の意味を、至高の花女神は笑顔とともに告げる。

「だ、め」

「……紗久良姫」

「だめ。絶対に、許しません」

 途方に暮れる一縷に、彼女は繰り返した。

「アンバーシュ殿との結婚は、認められなくってよ」


 ――銀珠殿を自身の宮として、一縷は、東島にて新しい日々を送り始めた。

 記憶を引き継いでいても、忘却していること、知らぬことは数多くあり、手足や背丈が逸るようにして時の流れを無視し始めたことにも驚き、自身の在り方が変わったことを、日々思い知ることになった。

 力の強い神は、その役目に見合った姿まで成長する。生まれ直して二年にして、十五、六の容姿を備えたということは、その姿を得る必要があったということだ。力を振るうことを意識したことはなかったが、ほんの少し思うだけで、大地の様子、空の動き、生き物たちの生死をまざまざと感じとることが可能になった。自身と大地とが、密接に繋がっている証だ。

 そのために一縷が最も気をつけねばならぬのは、自身を映す鏡でもあるこの世界に影響を与えぬよう、心を平衡にし、穏やかでなければならないということ。それこそが、一縷が与えられた座――大地を司り守護する、女神としての役割だった。

 シャングリラと名付けられた島で、新たに生き直す一縷が得たのは、姉兄という家族だった。人にかしずかれることには多少慣れていたので、仕える者たちの純粋な崇拝には新鮮味を覚えたものの、それとは別に、前世における姉と兄(そのうち、末の兄は現世の実父だ)という存在には、振り回されている、と言ってもよかった。

「紗久良姫」

「だめと言ったらだめ。一縷、あなた、自分がどのような立場にいるか分かっていて?」

 西と東の神々の諍いは大幅に解消されたものの、今や最も強い女神である一縷を守護する東神たちには、未だ西神に対して強い対抗意識がある。それは、一縷が以前抱いた東神への不審を払拭しきれず、どちらかというとしばらく交流のあった西神寄りになっているということもあるのだった。

 姉神の名を呼ぶことしかできず、一縷は小さくため息をついた。

(この女神には逆らいにくい)

 大神と呼ばれる二柱の神々がいた頃から、彼女は女神たちを取りまとめる格の高い存在だった。美しく、温和だが、やはり有無を言わせぬところがあり、上手く扱うことができず歯噛みしたことも少なくない。

 すると、紗久良姫はそよ風のような息を吐いた。

「わたくしは、意地悪で言っているわけではないのよ」

 本当だろうか、と彼女を見る一縷の目は暗い。

「あなたはまだ幼い。前世に縛られず、もう少し様子を見てもいいのではないかしら。大地の女神と婚姻するのにふさわしい者はたくさんいるわ」

 一縷は言った。

「アンバーシュでなければ、いやです」

 紗久良姫が幼子にする微笑で首を振るので、一縷は席を立った。すぐさま納得させられるだけの理由でもなければ、根気づよく訴え続けるしかないと思ったからだ。

「アンバーシュでなければ、私が生まれた意味がない」

 去り際に呟いたのは、底から掬い上げた己の本心。

 紗久良姫は呼び止めることもせず、一縷を見送った。彼女もまた、一縷が納得せぬだろうということを知っているのだった。


 難しいことは分かっていた。

 一縷が西へ行くことも、アンバーシュが東に来ることも。東西の仲違いの理由が失われていても、成したものは残っている。アンバーシュも、東の男神を取りまとめる阿多流も、双方、多くを傷つけた。悠久の果てに、考え方も在り方も違ってしまったものを、もう一度受け入れることは困難だろう。

 しかし、不可能ではないはずだ。一縷が、かつて西の島で暮らしたように。

 一年中春の盛りを繰り返す宮殿に赴いた一縷は、その庭に下りてとぼとぼと歩いた。地に散った花びらは裸足の足を彩り、風に流れる花は髪を飾る。爛漫たる景色に、あの姿があればと望んでいた。

(あのきんぴかの頭が、懐かしい)

 黒い髪と瞳の持ち主が多い東者とは違い、西の者は色素が薄い。髪の色も、鮮やかな赤や、鋼のような銀と様々だ。アンバーシュは、目が覚めるような金髪と、澄み切った空色の瞳の持ち主だった。苛烈なときは、嵐の雲間に鳴り響く稲妻。優しく残酷なときは、明るい曇天に閃く春雷のような男。

 こうして思い浮かべているのは、会いたいと焦れている証なのだろう。そのうち苛立ちに変わるのだろうが、それではいけないと心を持ち直す。世界のどこかで大嵐が起こるような事態は避けたい。

 だから何度もため息をついてしまう。知らずに肩が落ち、視線が下を向く。

 夜になり、寝所に引いてからも、一縷は眠れずに寝返りを打っていた。

 思い出されるのは懐かしい過去ばかり。見方を変えれば、確かに紗久良姫の言うように縛られているというのだろう。

 一度きりだと思っていた。手を伸ばすこと。その手を取られることも。

 力を使えば、アンバーシュの行方は知れる。何をしているかも分かる。ただそれは、違うだろう、と思うのだ。

 ――何もかもを縛りたいわけではない。

 それでも、お互いの首に手をかけているようなものだ。手を滑らせて身体を抱き寄せることも、その首を締め上げることもできる。そうして、知らずうちに離れることができなくなった。別れることは、身を裂くことと同義。

 ただ、それでも、いつでも手を放すことができるようにありたいのだ。そうすることが、きっと二度目に生きることで与えられた選択肢であると思う。

(そう、紗久良姫は正しい。わたしは、わたしたちは、前世に縛られる必要はないのだ……)

 時が、いとわしい。再び得た生は、ようやく三年になろうかというところ。三歳といえば、普通の人間なら意志を伝えることもままならない幼児だ。

(早く、大人になりたい)

 そうすれば、抱き続けた思いが本物であると、皆が理解するだろうに。

「…………?」

 ふと、何かを感じるものがあって、一縷は身を起こした。

 星月夜は明るく、戸を閉ざした寝間までその光が差し込んでくる。羽織をとって一縷は宮を出て、気になる方へと歩き出す。そういった直感が大きな意味のある何かを指し示すことは多々ある。

 果たして、一縷は、神域の片隅に辿り着いた。場を繋ぐ扉を抜け、他者の気配がないところを無意識に目指していたようだ。そこでは、どこかの花姫が適当に種を撒いたように気ままに花が咲いている。庭でもなく草原でもない、どこかの山並みの間にあるのだろう、雲が漂っている。

「んっ!?」

 不意に、後頭部を小突かれて振り返る。途端、濡れたものを押し付けられて驚いた。

「わっ、ん、お前……カスタか?」

 神の血を引く獣の末裔である黒馬が、嬉しげに鳴いた。

 カスタは双子馬のポルーと共に空を飛ぶ馬車を引く神駒だ。そして、その名が意味する通り、西島で生まれ育ち、主に従っている。

(まさか……)

 背筋が冷たくなったと同時に、頬に熱が昇る。その時だった。後ろから、暖かいものが覆い被さる。

 低い声が耳朶を打った。

「――いけない子ですね。こんな遅くに出歩いているなんて」

 獣に食べられちゃいますよ、と笑い声がかすめる。

 そんなわけあるまい。神域に、神を襲う獣など出るはずがない。

「ア――、っ!」

 振り向き様にかけた呼び声は、男の中に飲み込まれていく。

「――――」

 閉じ込められた腕の中は、熱く、自身との体格差を思い知らされる。以前なら多少なりとも抵抗できたが、十五、六の娘の身体は非力だ。抱き潰されるのではないかと思う。

「う――……」

 しかし、長い。

 息継ぎが上手くできないまま、重ね合わされる唇を受け止めている。さすがに苦しくなってきて、一縷は男の肩を叩く。動かない。激しく殴る。それでも退かない。

「ぐっ!?」

 しまいには、握った拳を男のみぞおちに叩き込んだ。腹を抑えてうずくまった男を、一縷は真っ赤になって見下ろす。

「い、今のはなかなか効きました……身長差のせいで、ちょうど急所に……」

「お前が悪いのだ――アンバーシュ!」

 空の青の瞳で、西の男神は苦笑した。

「だから言ったじゃないですか、食べられちゃいますよって」

 いつの間にかやってきたポルーが、カスタと並んでいた。二駒は、何か言いたげにちらりとアンバーシュを見たが、何も言うまいと決めた様子で、草を食み始める。こんな夜遅くに駆り出された挙げ句、こうして二人顔を合わせても馬鹿馬鹿しいやり取りをしているのだから、まったく仕方のない主だと、いつものこととして諦めたのかもしれない。

「これでもお忍びですから、静かにね」

 そう言って、アンバーシュは座るように促した。腰を下ろすと、外套をかけられる。男のぬくもりが残るそれは、娘の肩には少し重い。

「ちょうどよく出てきたからびっくりしました。運命で繋がってるんでしょうか」

「何かを感じて出てきたのだ。わたしでも気付くのだから、他にも気付いている者がいるかもしれない」

「じゃあ、あんまり時間がないですね」

 言いながら、膝に置いていた手に、アンバーシュの手が重なる。包む込む手のひらの大きさに、束の間、魅入る。

 時間がないと言いながら、男はじっとそうしている。一縷は、なんとはなしにその肩にもたれた。あんなに遠かった眠気がやってきて、ゆっくりと瞬きする。

「眠ってもいいですよ。部屋まで運びます」

「……代わりに、『食べられる』のだろう?」

「隙を見せればそうなるかもしれませんね」

 冗談めかして言うが、その気はないのだろうと思った。その辺りは、奇妙に真面目なアンバーシュだった。

「焦らなくていいと思いますよ。あなたのことだから、きっと今から戦っているんでしょうけど、あなたはまだ、生まれたばかりです」

「失うかもしれぬ」

 ぽつりと零れる。

 そう、何もかもがとこしえではないのだ。神すら変わる。世界はもっと早く。命は、さらに儚い。

 飢えるほどに希求している。幸福を。

 この男がそれをもたらすのだと信じているからこそ、早く、と思うのだ。失うことがないように、その前に、早く。

「でも、そのせいで自分を大事にしないつもりなら、俺は消えます」

 見つめた瞳は怒りに似たものが閃いて強い。

 だが一転して、その目に慈しみが浮かぶ。

「あなたが欲しいと思ったものを諦めないでほしい。生まれ落ちたものは皆、望みを抱くことを許される。そのために足掻くことをみっともないと笑える者は誰もいないんです。だから、あなたがこれまで諦めてきたものを、今世で存分に得てください。それからでも、遅くはありません」

 同意を求めて傾けられた首から、男の髪がさらりと零れる。

「あなたが俺を手に入れるのは、生まれる前から決まっているんですから」

 一縷は、唇を奮わせ、むっと引き結んで、俯いた。

 この男は、時々、こういうところがある。

「……わたしは貪欲なのだ」

「知ってます。だから来たんですよ」

 含むところを感じて目を上げると、境の海がね、とアンバーシュは言う。

「東と西の行き来が活発になって、境の海によく船が通うようになったのは知っているでしょう。その海が、最近ちょっと荒れ気味なんです」

「…………」

 その理由はもしかせずとも。

 血の気を失った一縷に、アンバーシュは困った様子で笑う。

「スズルに呼ばれてきたんですけど、正解だったみたいだな。サクラもアタルもそろそろ気付くでしょう。俺がいないと、まずいことになるって」

 笑えない。まったくもって、笑えない。

 自分の心一つで世界が滅ぶかもしれぬなど、そんな恐ろしいこと。

 だが、アンバーシュはひどく楽しげだった。その顔を見て、思い出す。この男の本性。表裏となった性質を口にしたことがあった。額に、瞼に、唇に。口づけを落として、男は笑っている。

「だから言ったでしょう。焦らなくていいって」


 ――やがて、遠からず西の雷神と東の大地女神の婚姻が成るのだが……。

 この時、自身の心の行方がこの男の手のひらにあるのは、果たして世界にとって幸いというべきなのかを、一縷は真剣に考えていた。

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