ひととき(間章)

 手を引かれる様を、周囲がどう珍妙なものに対する目つきで眺めているのか、いちるは努めて考えぬようにした。無意識とは恐ろしいもので、すれ違う者たちが物見高い目を向けているのを感覚でもって強く感じるのだが、それは己の神経をすり減らす行為に他ならぬ。誰がどう見ようと妾は妾である、という常に抱いている思いを高らかに掲げながら、少し逸ったように歩く男の背中に声をかけた。

「そのように急ぐと転ぶ」

「すみません。誰か追いかけてきそうで」

 ヴェルタファレンの城をほぼ正面から抜けてきたのだった。内部から門の外まではこの男の魔法の馬車だったが、それからは徒歩でこうしている。いちるは外出着には至らぬ地味な装いに外套をかけているだけであり、アンバーシュはそもそも普段着で、決して外を出歩く格好ではない。余程胸を占めているらしい事柄を、いちるは未だ聞いていなかった。ただ、男が早く早くと明るい顔で急かすのでやって来ただけだ。

 不思議な心境の変化だった。己が、他者の行動に身を委ねている。アンバーシュの手は大きく、熱く、いちるの手を包み込み、強い力で引く。引き寄せられるようにしていちるの足も速まり、結果、街中に身を躍らせて、こうしている。高い青空に白雲が薄くたなびいていた。アンバーシュは、東側の丘に向かっていく。

「アンバーシュ」

「もうすぐです」

 やわりと呼びかけた抗議はそのように封じられる。呆れた溜め息は、急ぎ足で乱れた呼吸を整えるものになった。もう少し緩やかに歩くことが出来たなら、娘たちが足を止めて覗き込んでいる香水屋を眺めることも、焼きたての香りを漂わせる菓子店も、扉を開けて風を通している古書店を覗くことも叶っただろうに。

(まあ、また来ればよい)

 アンバーシュをその気にさせる手段はいくらでも思い当たるし、その程度ならば可愛げのある願い事だ。やはり実物を見るのはいい。どれだけ視界を広げたとしても、空気を嗅ぎ、目に触れ、耳に聞く、五感全てに訴えかけられる強さには変えられぬ。

 逃亡のような誘いは、東の丘を見張らす高台で終結した。日常的に響いている風の唸り声は息を潜めており、いちるは辺りの気配を探った。静かだ。鳥の声も静まりつつある。

 やがて、それがやってきた。

 いちるは第六の感覚で捉えた。無数のざわめき、布をこすれ合わせるような音。粉が零れるかすかなきらめきの囁き。薄い、さざなみとなって走ってくるそれを、いちるは不穏なものとして感じたのだが、アンバーシュは違った。いちるの肩を抱き、間違いないというように同じ空を見遣る。

 黒い波が訪れる。

 息を止めた。鳥ではないが、小さくもない。醜いのではない、気味悪くもない。ただ、不思議と妖しく、美しい。空の青に反射する、黒と緑の螺鈿の色。

「蝶の群……」

 薄い布を閃かせ、結晶の輝きを帯びた波が空を覆った。

 見て取れるほどの大きさだが、羽ばたきの動きと輝きが美しいために気味悪さは薄れている。だがこの生き物も嫌う者も多かろうし、不吉だと言う者もいるはずだ。しかし、いちるは美しいと思った。揺れて羽ばたく翅を一枚、手にすることができたらどんなにいいだろうかと考え、手の中に収まったそれがきらめきを失って潰えていくことまでを想像した。

「緑天蝶です。人のいるところを飛ぶことは稀なんですが、アティルが向かっていると知らせてくれたので……」

 群の渡りは、ひと時だった。人々が呆気に取られている間に、都の上空を過ぎ、西の森に向かっていく。零れたはずの鱗粉は見当たらず、まるで目を閉じた間に夢を見たかのようだった。

 目を擦り、乾いたような、奇妙な感覚を拭う。

「緑天蝶。名の由来は?」

「空に緑色の光を見る者は幸福になるという言い伝えに基づいて、稀な蝶の群につけられたんです。虫神の手慰みの創造物だと聞いたことがありますが、それにしても綺麗でしたね」

 肩を抱かれたままであると気付く。

「アンバーシュ。手を」

「あなたと、二人で見ることができてよかった」

 囁かれた、かと思うと顔が迫る。思わず目を閉じると、思ったところに口づけは降らなかった。額に軽く触れられ、首を竦めた己が頑なな娘のようだと思う。恨みがましく見上げると、さて、とアンバーシュは手を絡めた。

「ここから城まで、ゆっくり帰りましょう? さっきのお菓子屋さん、とても美味しそうでしたね!」

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