第二十章 七

「恐ろしくない。お前なんか、恐いものか」

 女が己を脅威と感じていることを、宗樹は心地よく思った。生白い手足に、長いだけの髪。どこにでもいる普通の女だが、その面は妖艶の片鱗があり、これを組み敷いた時に歪ませた顔は、さぞ美しいだろうと思わせた。

 やがて、女は撫胡の城へ入り、卜師の養育を受けた。毎日、種々の悲鳴が聞こえることを、宗樹は心から楽しんだ。

 壊れろ。もっと、壊れていけ。

 苦痛を甘美と感じるようになれば、どのように扱おうと悦びと感じるようになる。この世に満ちる数々の辛苦を舐め、笑うことができるようになるだろう。そうなった時、好きに扱うことを宗樹は楽しみにしていた。床にうつぶせて、痛みにびくびくと身体を震わせている女は、まるで死に際の蝶だ。握りつぶせば面白かろう、優しくしても愉しかろう。

 だが、髪の間から覗いた目の強さに、宗樹はわずかに顎を上げた。

 声も出せぬほど心身ともに摩耗しているというのに、女の目は言っていた。

 恐ろしくない。お前なんか、恐いものか。

 その時わき上がったものは、宗樹の内側を熱く燃え立たせ、氷のように背筋を震わせる。己の身体が己の意のままにならぬ感覚に、宗樹は大きく目を見開き、あえかな息を漏らした。乾きが。飢餓が。熱く、冷たく、恐ろしく、悦ばしく。ありとあらゆる感覚が自身に宿っていく、その快感。

 目の前の女がもたらした、快楽。


 ――この女を手に入れたい。手に入れて、我が前に屈服させたい。今はまだ強く輝く瞳が、虚を見つめ、死んだところを見たい。光を隠し、希望を潰し、絶望を味わわせて、暗闇の中に閉じ込めて。

 自分だけを、見つめさせて。


 だが自分がどんなに張り巡らした闇も、神の放った光に貫かれてしまったことを、宗樹は知った。



       *



 男の横顔が微笑んだ。

「倒した相手に、そのような顔をするのは止めることだ」

 アンバーシュに向かって、苦笑するように顔を歪ませる男は、どこか兄に似ていた。憎たらしく、いとおしい、相反するものを抱えながら、嘲弄する、不器用な顔。

 傷から生まれた光に闇が食いつぶされ、消えていく。

「これが、三柱の意志か……」

 満ち足りているのとは違う、納得したわけでもない、淡々と事実を述べるような吐息のような声で言って、宗樹は目に見えぬほどの塵となった。それが、闇を具現した魔眸の最後だった。



「イチル!」

 いくら傷が治るといっても、あんな真似は心臓に悪い。早く行かねばと宙を蹴る。地に膝をついたいちるは、ふと空を見上げ、じわりと笑みを広げていった。アンバーシュは、知己たちの呼び声を聞く。

「アンバーシュ! あれを」

 神々はおののいて退き、あるいは道を譲る。距離を取り、近付かぬよう遠ざかった。

「アストラス……?」

 いつの間にか、神々に混じって、東西の大神が、少し離れたところでじっと向かい合っているのだった。

 アンバーシュの呼びかけに、西の大神はいつものように口を開かなかった。憐れむように地上を見下ろしている。その先にいるのは何だと視線を向け、目を見開いた。素早く地上へ降りようとしたところで、阻まれる。腕を掴んだのは阿多流だった。

「アタルっ!!」

[離れろアンバーシュ!]

「離せ!」

[だめだ、もう]

 苦渋の声で阿多流は言った。

[大神がお出ましになった。我らに出来ることは、もう、何もない]

 東西の大神がその身に宿る至高の力を寄り集めていく。眩くて目を開けていられない。傷ついた味方ですらも滅する強大な力が、光も闇も区別なく大神の手先となっていく。声が上がるも、誰もはっきりしたことを言えなかった。呻きや、呪詛のような低い音になっていた。アンバーシュを留める阿多流のように、絶望に近い気持ちで、降臨した二神を見つめている。

 集まった力は、小さな白い粒になった。

 二神の狭間でゆっくりと落下するものは、真珠のようにささやかに見える。だが、何が起こるのか、神々は知っていた。目を閉じ、顔を背け、苦く唇を噛む。アンバーシュは、声にならない叫び声をあげた。




 押さえた腹部から溢れるものが紅でなかった時、いちるは己の終わりをはっきりと確信した。それは泥だった。流れを塞き止めるもの、穢れを含んだ澱だった。

 まだ人の形を保っている身が、刃で傷付けられたことによって、生きているのと変わらぬ感覚を覚えさせ、発作的な吐き気が込み上げる。堪えきれず吐き出したものは、手のひらを、首周りを黒く染めた。

 黒い泥。温く、匂いもしない、重みだけが感じられる何か。

(この身に流れるものが生命の証でないのならば、妾はもう、人でも、神でも、アガルタでもない)

 首をもたげ、空を仰ぐ。

 赤と灰と黒、不穏な色の混ざり合う天空から、光の雫が落ちてくる。それはゆっくりと殻を破り、大きく震えながら、撫瑚という地を閃光に染め上げていく。

 何も見えなくなっていく。けれど、アンバーシュはそこにいるだろう。

 精一杯足掻いたつもりだ。幸福というものを得て、それを守る努力もしたと思う。何が残せたのかは分からぬが、人との関わりを嬉しくも、わずらわしくも感じた。まるで、普通のひとのように生きた、三年間。そこにあった慰めも、そこに至るまでのあらゆる苦痛も、いちるの生だった。


「神よ」黒い泥を口端から滴らせていちるは呟いた。

 どうしてこのようにつくられたのだ――その答えを、わたしはもう持っている。

 アンバーシュのために。生まれ損なった大神のために。だがそれら理由を定めるのは、我が心のみ。ゆえにわたしが生まれたのは、わたしがわたしとして生きるため。傷をつけ、欠けては癒し、抱えてきた魂は、アンバーシュを慰めた。もしまだこの世界が三柱の慈悲で続くのならば、アンバーシュは、再び誰かを愛することもあるだろう。それがきっと、いちるがこの世に残したものになる。


 己が己である痕跡を、他者に奪われることは我慢ならない。

 幕を引こう。この手で。

 この命も、身体も魂も、誰かに冒されてなるものか。


「さらばだ、アンバーシュ」


 刃を深く身に埋め、光を迎えた。






 意識を取り戻したフロゥディジェンマは、自分にまわしている手が誰のものか見て取る前に、そこから逃れようと身を乗り出した。だが、素早く抱きとめられてしまう。

[離シテ!]

[いけない! あなたも巻き込まれてしまう!]

[行カナイトイケナイノ!]

 フロゥディジェンマの目に、落下していく光が見える。花が解けるようにして、震えて広がっていくそれは、つかの間、空々しいほどに沈黙する。

 お願い、やめて。

 わたしからあのこをとりあげないで。

 伸ばした腕が短く手が小さいことにフロゥディジェンマは息を呑んだ。届かない。たった一駆けの距離が、どうしても届かない。

 一瞬にも満たない絶望が永別をもたらす。

 光が解かれ、天のみならず地を貫く。そこにあるものは皆、飲み込まれ、溶かされ、消えていく。

 大事なひとも、例外ではない。

[ア………アァ……ア……ッ……!]


 少女神の絶望の声が響き渡る。



[しゃんぐりら――――!!]




 二大神の力が世界を穿つ。

 残されたのは底知れぬ大穴であり、撫瑚という国の中心、ひいてはそこにあった城も街も失われた。誰にも聞かれぬ声で別れを告げた、アガルタの娘も等しく。


 誰かが言った。





 こんな結末のために、戦ったわけではない。

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