第十八章 十

 肩に感じる肌寒さは夜の星がもたらすもの。月は夜の半ばを過ぎて、明るくなる世界に輝きを潜めて傾きつつある。遠い空の向こうに感じる夜明けの気配で目が覚めたのだろう。こちらに来てからというもの、生活を花媛たちに合わせるようにしていたが、どうやらアンバーシュの登場で元通りに戻ってしまったようだ。

 起き上がった途端、身体から滑り落ちた布団を追っていくと、ぐっすり寝入っているアンバーシュが目に入る。いちるが起き上がったのに、まだ眠っているようだ。

(仕方がないか)

 いちるが東島にいるという知らせをやってから、ヴェルタファレンの国事をまとめ、機能するようにして後、他の神々の引き止めに合わぬよう飛んできたのだ。眠る暇もなかったはずだった。ついに精魂尽き果てたのだろう。疲れが目の回りに細かな皺になっているのは、西の者の肌と顔の特徴だ。その皺を丁寧になぞりたい欲求を堪え、寝具から抜け出し、衣をまとった。過ごしやすいこの地では、下々の者と同じ格好をしていても凍えることはない。だが念のために羽織ものをして、誰にも声をかけずに銀珠殿を出た。

 神気に満たされた場所は、静まり返ると、より強くそれを感じられる。吸い込めば肺を満たし、腹の内側にあるものが焦げ付くわずかな重さを感じた。

 いちるに根ざした呪詛は、不思議なことにその進度を少しだけ遅くしている。もしかすれば東島に戻ってきたことや、神域の気が関係しているのかもしれない。どちらにしろ、命数が伸びたことは喜ばしい。アンバーシュが来たこともだ。

 唇が弧を描いているのを指先でなぞり、息を吐いて笑った。素直に思いを口にすれば事は簡単なのだと、この歳になって気付くとは。

(それはそれは嬉しそうな顔をしていた。そういえば、妾から伝えたことはあまりなかったか……)

 これからはなるべく言うようにしてみるといいかもしれない。姫神たちに聞き咎められれば、また小さな騒ぎになるので密やかに行うことにしよう。それから、その時場所を考えなければ、我が身が危ないことをしっかりと自覚せねばなるまい。話を切り上げて床に入ったことをしっかりと自覚せねば。

 なんとはなしに、四季殿に向かった。日中、ここを住処にしている者がいない様子を覚えていたため、このような格好で歩き回っていても咎められることはないだろうと思ったのだ。どの季節もいずれかの宮殿で永遠の盛りを迎えているが、ここは季節に即した秋殿へ向かうことにした。

 冬よりは暖かく、夏よりはからりとした冷たさが漂ってくる。最初に目に入ったのは、星影でも分かる紅葉の木々だ。熾き火のような色に目を留めて進む。冬殿と同じ造りの場所なので、庭に出られるようになっている。履物がないことを思い出したが、空気の匂いに、湿った柔らかい土が感じられることにそそられて、はしたないと知りつつも裸足で降り立つ。天候も異なるのか、雨が作った小さな水たまりが足音を作る。

 ふっと、何かを感じて目を上げると、木立の向こうに光るものが揺れていた。影から影へ、光を撒いて動き回る。蝶だった。

 夏から秋にかけて飛ぶ蝶はいる。だが、それは夏が残る暖かい時期のことだ。雨が降り、夜が更けたこの冷えた秋殿に、そのように飛ぶものがいるのは少々奇妙に感じられた。

 慎重に後を追う。小枝や石で傷を作らぬよう苦労した。羽織ものの裾を大きくさばいて、木々の手に囚われることのないよう行く。やがて、橋の上の扉を見つけた。

 間違いなく、異界へ通じる門だ。蝶は、片側が開かれたそこへ姿を消した。

 不用意に近付くのは危険だと判断し、見なかったことにしようと反転した。足下に、不器用に羽ばたく蝶を見つけなれば、今頃は穏やかな眠りに戻っていただろう。

 しばしそれを観察していると、どうやら翅を痛めたらしく、高く長く飛ぶことができなくなったらしい。それでも必死に門へ向かおうとする様子を察してしまったいちるは、自嘲の息を吐いた後、額に手を当てた。

(我ながら人が良いが、危険は感じぬし、まあ、構わぬだろう)

 身を屈めて手を伸べてみる。息も絶え絶えに羽ばたく蝶は、己の力で前進を試みていたが、いちるの存在に気付いたらしい。つかの間地表で考え込む素振りを見せる。ゆっくり翅を動かしていたが、低く身体を持ち上げ、いちるの指先に止まった。

 風を起こさぬよう、身体を起こし、扉をくぐる。

 白く潰された視界の向こうは、背の低い木々に囲まれた森の中。

 不思議なことに明るい。木々についた緑の葉が、どうやら灯りの代わりをしているようだ。星のように小さいが、無数に輝くそれは、緑、赤、黄色と様々な色光を投げかけている。複雑に組み合わさった枝葉。迷わせる木立の道。万華鏡の内側にいるかのようだ。

 後ろから蝶が追い越していった。あれを追えば間違いなかろうと足を進めていく。侵入者の存在に、異変が起こる様子もない。誰の領分なのだろうと考えて、足を止めた。黄金色の衣が見えたのだ。

 息をひそめて立つ。楓の木の向こうに、燐姫がいる。彼女が己を預けているのは、よく似た顔の青年。二人の顔が離れていく様子を、いちるは淡々と見つめていた。満津野姫の言葉を思い出し、よく似ていながら反転した二神の完全なる世界について想像を巡らせる。

 多鹿津がこちらに気付いた。

「燐」

 燐姫がはっと身体を離し、いちるの姿を認めて顔を白く強ばらせる。いちるの指先から蝶が落ち、もがいた。拾い上げようと手を出したものの、翅を摘んでいいものか逡巡した時、白く小さな手が蝶を包み込む。

「ああ……傷ついてしまったのね。ありがとう、いちる殿。燐の大事な眷属を、ここまで連れてきてくれて」

 燐姫は両手を放った。途端、煙のように光が散り、消えた。

 驚きを持って見つめる。あなたは、と呟きが漏れた。

「あなたが、東の地における、死の門の番人なのですか」

 木々の間で虫たちが奏でる羽ばたきが、耳の奥まで響いて聞こえた。燐姫の、黒い実のような瞳が不安になる光を帯び、瞬きをする。そうしてかの姫神が浮かべたのは微笑みだった。困ったような、詫びるような顔だ。

「オルギュット殿と知り合い、なのね。そうだよね。アンバーシュ殿は、オルギュット殿の弟君だものね。でも、あの方のほうが、ずっと立派に勤めを果たしていると思う。燐は、本当は、こんな役割なんてどうでもいいって、思っているもの」

 死者の魂の汚れを浄化し、大地神の元へと送る、門前の番人。その働きがなければ、この世界には闇が満ちよう。

 いちるは無言を通した。しかし、言いたいことは伝わってしまった。

「不健全だと、思う? 多鹿津しかいらない、なんて」

 燐姫は心細そうながらも、己の意志を曲げぬ強さで告げた。

「太陽と月と大地の神々でさえ、三柱で世界を支えた。アマノミヤの父上様も、アストラス大神様も、その代わりを果たすことができなくて、不完全な世界をなんとか守っている……」

 その部分だけ、燐姫は不敬だと感じた様子で青ざめて話し、一息ついた。

「けれど、燐と多鹿津は、二人でひとつ。お互いがいれば、他には何も必要がない……。燐と多鹿津は、みんなの言うことは本当にどうでもいいことなの。燐には多鹿津が、多鹿津には燐がいればいい。アガルタも、世界の崩壊も、燐たちには関係のないことだから……」

「それで消えるものらのことを顧みないと仰る」

 びくりとして燐姫は項垂れた。目だけが光る白くなった顔でいちるを見つめ、俯く。

「あなたがご存知のことを話していただきたい。あなた方がお二人の世界を作るなら、わたくしにはわたくしの世界を守らねばならない信念がございます」

「信念……?」

「我が背の君を失意に落とし、自暴に貶めぬこと」

 姫神は唇を結び、拳を握った。怯えて竦んでいるのを見て取り、いちるは覆い被さるように、だから教えろ、と慇懃な物言いに揺さぶりを隠し、求めた。使えるものは何でも使おう。姫神を恐れで泣かせても、その分まで生き長らえてやろう。

「燐」という多鹿津の声が聞こえた時、いちるは勝利を確信した。泣き出す前の顔で片割れに縋った燐姫は、小さく首を振る。面と向かって拒絶する力はないのに、多鹿津がいれば拒もうとする気力が沸くようだった。女神の細い方を抱いて、多鹿津はいちるを見据える。半身を傷つけられる寸前だったというのに、彼の瞳は凪いでいた。

「約束すれば、いいか」

 多鹿津はそう言った。

「あなたの敵にはならない。味方にもならない。中立の立場を貫く。燐を傷つけぬ、守ると約束してくれれば、そう誓ってもいい」

 いちるはじっと見つめた。姉兄たちに反抗する力があるのかという疑惑に、多鹿津は答えた。

「この場所がある。ここは燐の領域だ。姉上たちも、理の循環に関わる場所に立ち入ることは容易ではない。不用意に触れれば、それぞれに災いがあると知っているからだ。大地の在り方を乱すのは、あの方々の信念に反する」

 オルギュットの領域での混乱が、地上に影響を及ぼすのと同じこと。ここは対になる東のその場所にあたる。いちるは頷いた。

「では、なるべく知り得た情報をわたくしに譲っていただきたいのです。あなた方が立場を悪くしない程度で構いません。そうすれば、燐姫を守るとお約束しましょう」

「分かった」

 頷いた多鹿津は、燐を後ろに庇い、励ますように手を握った。けれどそれは、己をも奮い立たせるための行動だったのかもしれない。父と、姉と兄たちとは決別する可能性を考えないわけがなかったからだった。

「……僕たちの知ることは、少ない」

 そう口火を切った。

「父上様がアガルタを手に入れた。けれど、アガルタは死んだ。魂ごと消滅し、燐が門の向こうへ送ることもなかった。父上様はそれ以降、今も時折、紫の原にお出ましになる。あそこはアガルタの庭だった」

 紫の原。あの雲に覆われた紫の花の丘だ。

「それ以外は何も知らない。父上様が、何故未だにアガルタを望まれるのかもだ」

「考えたことがおありでしょう。あなたの考えを聞かせていただきたい」

 多鹿津はつかの間迷ったようだった。

「……想像でしかない」

「それが聞きたいのです」

「失われたものを求めているのだという気がする」

 いちるは息を吸い込んだ。

「……大神が大罪を犯したのではないか、と?」

「僕には分からない。あの方はご自分のことを語らない。姉上や兄上が知っているかどうかすらも知らない。どうでもいい。ただ、大神の不完全さは理解する。それは、僕らと似ているからだ」

 多鹿津は勇敢な神だった。己の思いを、恐ることなく語る。

「今のままでは、大神は不完全だ。大神は、何故二人なのだろう? 創造の三柱でさえ三人だったのに、どうしてその子たる二神で世界が回せるというのか。だから、力の均衡が不自然だと感じる。二神は、それを埋めるために、アガルタを欲するのではないだろうか」

 世界の在り方について話しているのか、と己の言葉を反芻している多鹿津を眺めやった。神々の役割に不自然なものを感じているのはいちるも同じだった。

「死の神がいないことを仰っている?」

「そう。僕は、本来は『三』神ではないのかと思う……」

 思ってもみない言葉に眉を寄せる。だが、口にして多鹿津は首を振った。

「……だがそれでは治めるべき土地がない。妄言だ。忘れてほしい」

「アガルタについて何かご存知か?」

 心に留め置きながらも素早く問いを重ねる。

「すべてがあるという土地だ。そこに住まう者たちは我々の起源になっているという。父上が手に入れたアガルタについては、知らない。僕たちは異界から向こう側のことを伺い知ることができるが、当時も今も、知ろうとは思っていない。けれど、すべてを知っているとすれば、紗久良姉上だろう」

 やはりそこに行き着く。あの女神から情報を引き出すとすれば、対価となるものが必要だろう。すべてを持っている至高の女神に何を差し出せるというのか、考えなければならない。

 多鹿津の傍らにいる燐姫に、いちるは微笑みかける。女神は怯えた瞳で、恐る恐る問いかけた。

「あなたがそこまでして望むものはなあに……?」

「わたくしが選び、わたくしを選んだ者に、最後まで報いたいのです」


 忘れられない。暗闇に指した一条の光。

 伸ばされた手を取ったこと。あの時微笑めればよかったのに、呆然として抱えていられることしかできなかった己。その時からきっと、いちるは少しずつ見出しているものがある。それを相手に返したいと思うだけなのだった。


「わたしたちが、けして不幸で終わらぬように」

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