第十六章 峻嶺の花石 一

 ヴェルタファレンの首都が最も巨大な都市であることは言うまでもないが、山岳と平地を併せ持つ国内には主要な発展都市がいくつか存在する。街道を南に下ったレテスタ。ティトラテス皇国へ続く大街道を抱くカリュンズ。山岳の麓にある交易都市クインティ。レテスタは南国へ下る人と荷が行き交い、東の文化が寄り集まるカリュンズは巨大で混沌とし、クインティは独自の空気と交易品が集う、それぞれ見るべきものがある大都市だった。

 アンバーシュがどれがいいですかと尋ねてきたとき、いちるは首を傾げた。それぞれの都市の特色、読みかじったものを思い浮かべ、何の問答かを考えた。

(どれが正答だ?)

「どこに行ってみたいですか? 直感で選んでください」

 そうして挙げたのが、馴染みのない山岳地帯に近いクインティだった。


 岩石が豊富な地域ゆえに、石を詰み、巡らせてある。人の拳ほどの石を地面に敷き詰め踏みならしてあり、石畳となっていた。通り過ぎる馬車ががたがたと細かく揺れる。車を引くのは馬もあったが、座高の低い驢馬や、頑健な角ある雄牛が巨大な蹄をのそりのそりと動かしていた。交易都市と呼ばれる活気よりかは、降り積もった雪のような尖った気配と、織物や毛皮の匂いがこもったような時間が流れている。雑然とし、洗練されていないが、重みがある。石畳の乾いた色も、空の青に含まれた白さも。

 街の主要な通りに並ぶ建物は小さく、冷気の侵入を許さないよう頑健に組み上げてある。窓は小さく、中が見通せないほど分厚く歪んだ硝子が嵌め込まれてあった。ただ、それぞれの屋号を示すものが派手に飾られていた。織物であれば分厚い毛織物が、瀟洒な装飾品を扱うところは壮麗な看板がかけられ、いちるが心惹かれた古書店はひっそりと、目立たぬ書がかけられてあった。どうやら代筆屋も兼ねているらしい。

「ほら、いちる」とアンバーシュが、視界の明るくないいちるの手を引く。見る物も多く、更に被り物をしているせいで、実の目が普段のように物を捉えられないのだ。

 山岳の女たちは、一族を表す布を頭から被っている。赤地に藍や生成りの糸で、いちるには読み解けぬ意匠を細やかに縫い上げていた。小花に思えるもの、植物の蔓、大木。布の垂れる部分には爪よりも大きい飾り玉が光っていたり、毛糸の房をつけていたりする。

 いちるはそれに習い、生成りの布に黒と紫と藍の糸で百合を描いた布を被り、その端を右肩にかけていた。身につけているものもドレスではなく、腰も裾も幅広に広がる貫頭衣のようなものに、頭巾と対になる派手な布を被っている。脚衣を中にしまうふくらはぎまでの革靴を履くと、足下はまったく冷えない。冬に向かうごとに着膨れしていく仕様なのだ。

「寒くないですか?」

 頷きながら、この季節に選ぶところではなかったか、とちらりと思う。秋が深まり、クインティは平地に比べて早い冬の訪れを受けようとしている。女たちが背中を丸めて歩いているように見えるのは、着ているものが多く、下半身が厚くなって見えるからだ。

 アンバーシュは軍人の着るような詰め襟の上下という外界の人間の装いだが、外套で全身を隠している。帽子もない状態で蜜色の髪を放っているが、時折珍しそうな顔を向けるのは、同じく外から来た商いの人間だ。地元の、特に日々に定位置を見出しているように座り込んでいる年寄りたちは、何を考えているか分からない顔と無垢な瞳でじっと見つめてくる。

 だが、その中に好奇の視線が一粒混じっていることに、いちるは気付いた。アンバーシュに目を配ると、男は片目をつぶってみせる。手を繋いだまま歩調を緩め、視線の持ち主を探す。いちるが先んじてそれを見つけた。

[いた]

 黒目がちの十六、七の娘。赤い頭巾をした小柄な少女。ずいぶん目がいいらしい、かなり離れた建物の影で、こちらの様子を窺っている。

「ちょっと撒いてみましょうか。行きますよ……」

 軽く地面を蹴った、と思った瞬間、突風が起こり、辺りで驚きの声が上がった。幌が揺れ、荷を包んでいた布がはためき、箱ががたがたと鳴って、道行く者たちが頭巾と裾を押さえた。

 一瞬のうちに皆の意識が風に向いたところで、少女はいちるたちの姿を見失い、飛び出してきた。慌てた様子で辺りを見回し、呟く。

「見失った……! せっかくいい感じの二人を見つけたのに……!」

「それは俺たちのことですか?」

 ひっと悲鳴を上げて飛び退る。背後に迫っていたアンバーシュに、絶叫こそしなかったものの衝撃が大きかったらしく、よろめいた。アンバーシュはそれを支えてやったが、腕の中で娘は硬直したまま、目を白黒とさせている。いちるは言った。

「いつまでそうしている」

「すみません。……立てますか? 突然声をかけて申し訳ない。どうして俺たちを見ていたか、聞かせてもらえませんか?」

 不機嫌に言った女の連れの方に、娘は背筋を正した。そして、まじまじとこちらを覗き込み、アンバーシュと並べて比較している。何かが納得いったのだろう、一つ頷くと、あの、と張り切った声を発した。

「お二人は、外の方ですか?」

「そうです」とアンバーシュが答える。

「恋人、でいらっしゃる?」

[意図が掴めぬ]いちるは念話で言ったが、アンバーシュは答えを返さなかった。

「いいえ。夫婦です」

「……!」

 娘はぱちんと手を打った。顔が歪んでいるのは、喜ばしいからか。何故に?

「お二人に、お願いがあるんです」

 いちるは嫌な顔を隠さなかったが、娘は意に介さなかった。己でもこれが厄介事だと認めていたからだろう。とりあえず我を通すことにした娘の口から放たれたのは、忍んでいる身としては面倒この上ないものだった。

「稀人方として、花嫁と花婿に祈りを捧げてほしいんです!」

 山岳の民のある一族、テギアラ族のアザリーだと名乗った。花嫁は彼女の姉であり、花婿は彼女の義兄となる者だった。彼ら一族は普段は奥地に家を持っているが、祝い事になると外界から人を招く。幸が拓けるよう、不幸が澱まぬよう、外の者の訪れで、風を揺らし、乱し、吹かせる。

 結婚式ならば、外界から招くのは夫婦がいい。そこで検分していたところ、親しそうな男女で平地の人間であったいちるたちに目を付けたらしい。秋のこの時期、避暑に訪れる者もおらず途方に暮れていたが、運がよかったと娘はほっとした笑顔で言った。

「まだ受けるとは言っていない」

「すぐ済みますから! ご馳走も出ますし!」

 どうするとアンバーシュに目で問うと、厄介を引いた責任をさほど感じておらず、優しい顔で娘に尋ねる。

「普通、領主を訪ねるものではありませんか?」

「私の直感があなた方がいいと言っていますので」

 娘の目がきらりと光る。アンバーシュは僅かに表情を引き締め、いちるは男がいつか言ったことを思い出した。山の民には能力者が多く、密やかに暮らしているという。村からこの娘が稀人を探しに出されたのならば、この娘にある程度の能力が備わっていると思った方がいい。

 やはり、面倒事を引き寄せてしまったらしい。この娘の才能に、頭が痛かった。逃げられない。

「仕方がありませんね。行きますか」

 アンバーシュの結論に、異を唱えることは難しかった。


 テギアラ族の村は、クインティから北側の街道を、山に向かっていく方角にあった。アンバーシュの馬車を使えば一飛びだが、素性は明かさなかった。アンバーシュはただいちるの身体を案じて、馬を借受け、騎乗させた。馬はいちるを気に入らない様子だったが、徐々に落ち着き、アンバーシュに手綱を取られていた。馴れない乗馬にいちるの身体は大きく揺れたが、歩くよりはましだと堪える。まったく、今日はなんという一日だろう。休日のはずだったのに。

「テギアラ族の結婚式か。招かれたことのある者なんていないんじゃないでしょうか」

 ここで人と言わなかったのは、アンバーシュが想定したのが知った神々だったからだろう。

「テギアラは、洞穴と崖を用いて家を建てる人々ですね。炎と風を尊び、石を打つ者たち」

「よくご存知ですね」

 通い馴れた道なのだろう、気軽な足取りで、息を乱さず娘は馬に並んでいる。

「テギアラの石包丁は、美しい民芸品として高い値打ちがあります。他にも、小片細工や装飾品が美しいと有名ですね」

「石の神の守護の力なんです。テギアラを守護してくださる石の神様が、テギアラの作るものにはその加護の力を与えてくださる」

 私の耳飾りも、と娘は少し頭巾を引いて耳を見せた。平たい石が丸く削り出された形で娘の耳を飾っている。表面がつるりと輝き、翡翠のような青みを帯びていた。

「いかがですか、旦那様も、奥様に是非」

「いいですね。よければ職人を紹介してください」

 軽々と言っていいものなのかと思ったが口を挟まないでおいた。この男から贈ると言われたものを、拒む理由が思い当たらない。

「お二人はご旅行ですか?」

「ちょっと遠出をしようとクインティに寄ったんです。こんな形で山の方に引っ張られるとは思いませんでしたが」

「すみません。やけに目立つ方々でらしたから、これはいけると思って」

 アザリーは溜め息をついた。

「近頃、風が騒々しいから、みんなちょっと落ち着かないんです。調停王陛下がご結婚される話が出てから、ずっと」

 鞍からずり落ちそうになった。

 アンバーシュは目を光らせる。

「それは、テギアラの呪い師としてどう見ているんですか?」

「私に感じられるのは、人の噂話程度のもの。変遷、転換の予感、騒動の前触れ、混乱を控えた人々の囁き声……かすかなざわめきです。呪い師と呼ばれるほどではないですよ」

「歓迎すべきですか」

 聞いている側がひやりとする声だったのは、いちるが当事者だったからか。含むものがあるのだと察したアザリーが、高い位置にあるアンバーシュの横顔を見上げる。風が、と言った彼女の布を、柔らかい山の大気が撫でた。

「風が、止まらないのならば。世界が動いている証ですから、間違っていないと思います」

 アンバーシュの微笑みにアザリーも笑い、その健脚で岩盤を踏みしめていく。

 そのようにして小一時間ほど山を登った頃、辺りにはうっすらと雲がかかるようになってきた。クインティが元々標高の高い土地にある街ゆえに、一時間ほど山に向かって進めば、地上は下界と呼ぶものに変わってしまう。だが、空は未だ遠く、大地からも遠い狭間という空間に、テギアラ族は村を作っている。

 岩が棚になった場所に、色彩のはためきが見えた。幕舎を作り、旗を巡らせてあるのだ。布を被り、巻き、着飾った男女がたむろしている。アザリーが手を挙げると、知った者たちがやってきた。

「連れてきたわ!」

「アザリー、一歩遅かったね」

 気の毒そうに年嵩の女はいちるたちを見た。

「さっき別の者が稀人を連れてきたよ。あんたはちょっと遅かった」

 アザリーは口を開けた。

「え、ええっ!? じゃあ、この方たちはどうすればいいの!?」

「来ていただいたんだから、結婚式に参列していただくべきなんだろうね。ただ、こっちも構ってやれないからねえ。あんたが戻って来ないからどうしようかって、みんなで話し合っていたところさ」

「今から街へ戻るには遅すぎる。送っていくにも、そいつが結婚式に出ることができん。こりゃ稀人を二組参加させるしかないな」

 仕方がないと皆頷いている。呼ばれておいてこの状況は腑に落ちないものがあった。アザリーも悪いと思ったらしい、こちらの様子を見ながら、でもと声を上げている。しかし周囲はもう決まったものだと興味を失っていた。目下、大きな式を控えているのだから、仕方のないことだと言える。下馬しながらいちるはアンバーシュに囁いた。

「何故今日は平穏に終わらぬのだろう?」

「うーん……」

 アンバーシュは山嶺を見遣った。雲を被り、夕暮れの冷気が降りつつある。東の低い山並みに向かう日は、緑と青の大地の肌を照らしている。その狭間で「呼ばれたのかも」と男が呟いた。

「誰に」

「石柱様に頼めばええ」

 不意に、老人の甲高い声が響いた。

「石柱様ならいいようにしてくれる」

 皺の間に影を重ねた、小柄な老人が言った。すると、祝い事の前に面倒を放棄したいらしい村人たちは、それがいいそれがいいと適当な同意を始めた。

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