第十六章 水の少女 二

「結局、何をさせたいって?」

 宮廷管理官たちの誰かがぽつりと口にした。資料館にこもることにしたらしい総長についてだと判断できたのは、聞いていた者全員がその人物を思い浮かべていたからだ。

「総長って何だ」

「名誉職でしょ。長官はロレリア様がいらっしゃるではないの」

「はー……陛下も困った方だ。あの方は恋人に権威を与えるような方じゃないって思ってたのに」

「しかしマシェリのエリアシクルを鎮められた」

 最後の呟きに全員が顔を上げた。小一時間は潰れるであろう分厚い束から書類を取り上げ、無表情に目を通しているエシ管理長補佐がいる。普段はせかせか、俯きがちで怯えているように見えるが、何の害意ももたらさない単なる文字に対すると、彼は無表情になって年相応以上の威厳になる。今も「誰だこれを書いたのは。言葉が成っていない」と舌打ちする勢いだ。

 だが、顔を上げ、三人の宮廷管理官に向けた目は、途端、宙をさまよった。

「お前たち……あまり噂すると、聞かれるぞ……?」

「千里眼でしたっけ。あと、読心? そのせいか、俺たちを前にしてもしれっとなさってましたね、妃陛下」何となく歓迎されてないことくらいは分かるんだろうなあ、と赤毛のクゥイル。

「普通でも分かるでしょ。でも、あれはそういう空気でも気にしないっていうただの性格だと思うわ。そうでもなければ半神の妻になろうなんて考えない。ジェファン。あなたのお友達って騎士だったでしょう。そういう噂話はしないの?」金髪を一つに縛ったエルネが首を振り、黒髪のジェファンに尋ねた。

「ヘンディはああいう性格だから、人を悪し様に言わない。だが……」

 ジェファンは思い出しながらゆっくりと言った。

「ひどく好意を持ったようだった。楽しいと言っていたから。イレスティン侯爵令嬢との間に入って、今も令嬢との仲が良好のようだし」

「無関心そうに見えたけど、結構おせっかいなのかな?」

「だからお前たち……噂話はそのくらいにしないと、突然現れて何を言い出すか、」

「エシ」と鋭く響いた声に管理長補佐は飛び上がった。だが、姿を見せたのはロレリアだった。三人も軽く会釈し、おしゃべりを止め、代わりに聞き耳を立てた。

「ちょ、長官、何か……もしかして何か問題が!?」

 ロレリアは笑った。

「いいえ。心配することは何も。今日、ベラは出仕予定でしたね?」

「は……ええと、そうですね、王宮文庫の方に寄って来ると聞いていますが、そろそろ来るはずです」

「来たら資料館へ行くように伝えておいてください。今日は一日、妃陛下の側につくように。仕事の代替は、エシ、あなたが差配してください」

「かしこまりました。その……妃陛下のご様子はいかがでしたか?」

 長官は大変満足げに頷いた。

「勉強熱心で大変助かります。そう、皆にも伝えておかねばなりませんね。わたくしと総長の裁量領域について」



     *



 叱られた。けど、今度のことはタリアの失敗だ。でも、故意に落としたわけじゃない。たまたま風が吹いて、たまたま一番上に乗っていた布が、井戸に落ちたのだ。何度も滑車で引き上げようとしたけれど、沈んでしまったのか上がってこない。後ろ髪引かれながら洗濯を終え、戻ってきたが、結局タリアはアディにそのことを報告しなければならなかった。

 どうして無精をしたのか、何故もっと注意を払わなかったのか。お前が落ちていればよかったのにと言わんばかりにアディが、どんどん苛立っていくのが分かった。こんこんと諭している内容は至極もっともだったけれど、誰のせいかと言えばアディのせいだ。アディが、思い込みだけでタリアを叱り、動かしたせいだ。

 タリアはとぼとぼと遅れて洗い場に入り、城中の大きな布物、敷布や緞帳などの洗いを始めた。悔しくて、たまらなかった。

 休み時間になって、女中たちが溜まる休憩室ではなく、外を選んだ。表の人々に見えないところなら自由に行き来できるので、タリアは一人になれた。

 そうして、風の神を恨んだ。風神ではなくとも、その眷属を恨んだ。どうして、一日に何度もアディの機嫌を損ねるような仕打ちを私に降り掛からせるのですか。気まぐれとしか言い様のない偶然を、タリアは憎たらしく思った。幸福は、いっぺんにこないのに、どうして不幸だけ。

 タリアは井戸に向かい、空を見上げてから、暗い水の底に向かってささやいた。

「風神にはお願いできそうもないから、あなたにお願いするわ。水の神様。誰でもいいの。私が落とした布を返してください。でなければ私のお給金が少なくなって、アディはもっと怒って、また私が叱られるの。だからどうか、返してください」

 おん、と地の底に反響した声は消えて、水の揺らめくちゃぷんという音がかすかに聞こえてきた。返事とも、素っ気ないあしらいとも思える音に、タリアは自分の冗談に苦笑いする。神様が人と関わるなんて、それこそいちどきに幸福が降ってくる以上の確率の低さだ。

 タリアは井戸を離れた。いつまでも、めそめそしていては別の女たちが陰口を叩くだろう。これ見よがしに卑屈になっていると鬱陶しいと言われるのだ。本当に悲しいときは、自分の部屋や絶対誰にも聞かれない場所で泣くべきなのだった。悲しいと訴えることは、大勢で仕事をしている中では恥ずかしいことだという風潮だった。

 ちょうど、休憩を終えた他の女中たちが戻ってくる。一人はタリアに気付き、しかし、驚いたように目を丸くした。

「タリア。その子、誰だい?」

「え?」

 後ろに、少女がいたのだ。

 青みを帯びた銀色の髪。真っ青の瞳。三歳か四歳か、けれど地面につくほど長い髪をして、とんでもなく愛らしい子だった。目が彼女の手のひらほど大きく、睫毛が綺麗に縁取って、小さな鼻と可愛い唇をしている。白い顔に表情らしいものはあまりないが、それがまた小さい頃可愛がっていた人形を思い出させた。

 でも、どこの子だろう。着ているものは下町の子が夏に着るような白い一枚だけ。手足は?き出しで、けれどほとんど汚れていない。目を合わせるためにしゃがみ込んで、ふと何かが香った。

(……水? 花? なんだか甘い……森の中みたいな)

 そうして、少女が後ろ手に何か持っていることに気付いた。タリアの視線に気付き、少女はそれを差し出した。見覚えがあるような、ないような。

「……あっ!? これ、私が落とした」

 少女はにっこりした。そして、ぱっと身を翻して駆けていく。

「ちょ、ねえ、これどうして……」

「タリア、それ、さっき言ってた、落とした洗い物?」

「よく持ってきたねえ、あの子。厨房の誰かの子どもかね?」

 彼女を追う前に、仕事仲間たちに囲まれてしまう。タリアはつかの間呆然として、落としたはずのそれが綺麗に乾いていること、汚れも落ちて、まるで紡いだばかりのような一枚になっていることを不思議に思った。

(……まさかね?)






「どうかなさいました?」

 いや、と首を振りながら、意識はそこに残したが、特に問題はないようなので手元に意識を戻す。

 二十年分の資料。ロレリアの判が押してある。彼女は二十年前から長官だったようだ。

「何か分からないところがあったら仰ってください。僭越ながら解説させていただきますので!」

 異質なほど短い髪に見られるように、低い声をし明るい調子で言うベラ司書官は、三十歳ほどの女だった。左薬指に輪があり、いちるに対する心づもりは、目上というよりも新米官吏の指導という雰囲気がある。見た目のせいだろう。いちるは、意識せねば十七、八の小娘だ。常ならば言動で捉えられる老成も、資料の読み解きや質問という教えを請うている状態では、ベラも教師として側についている気持ちがするらしい。いちるに考えさせるような返答をすることもしばしばだった。

 一度答えを得ると、後は応用すればいいので、次第に言葉数は少なくなってくる。ベラもそうなることを分かっているらしく、集中するのを邪魔することはなかった。

(神授騎士叛乱問題。神授の剣を賜った騎士が逃亡した事件。一ヶ月後に捕縛。騎士は戦女神カレンミーアと戦ったことを告白。カレンミーアに被害はなく、その他被害者はなし。審議の結果、騎士の位を剥奪し、放免。剣を清め、神殿預かりとする)

 また別の報告書にはこんなことも書いてある。

(ナゼロフォビナの来臨……なんだこれは。夕食の内容と酒の種類?)

 何を供したかということも報告されているらしく、特にナゼロフォビナの名前が散見される。アンバーシュの最も親しい友だからか。

 そして、最も新しいのはアンバーシュといちるの結婚式についての報告書だった。空白になっている部分には補記が入るのだろう。数日経ったとはいえ、まだ滞在している神がいるはず。もし何かが起こればここに記さねばならない。

 これら報告書が、神殿の求めに応じて送られ、関係者の証言などと整合した後、神々それぞれが記される神話書が編まれる。そこでふと思った。

(宮廷管理、とは、アンバーシュが今代の王だからか?)

 宮廷管理官は、結晶宮にいる神を世話する者だと、以前説明を受けた覚えがある。それにしてもそぐわぬ職名だと思っていたのだが、アンバーシュが半神の身ゆえに、棲み分けのつもりで名を与えたのかもしれぬ。神々の領域に関わる者と政府の役人を分けるため、神々に関する役職に名を与えたのだ。特別な力を有していても、彼らは宰相や大臣のように政府に深く根ざすことはできない。その特権がない。三百年前、神官が力を有していた、宗教王とネイゼルヘイシェ夫人の時代と同じ轍を踏まぬための措置だ。

 しかし、名を付けるなら宮廷守護や、外交などの言葉を使えばよかろうものを、と考えたいちるは、ふと、思いつきに顔を綻ばせた。

(この考えは、いつか使えるやもしれぬ)

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