第十二章 六

 様子がおかしいことは分かっていた。人が直感と呼ぶものを、いちるは常に働かせている。目には捉えられないもの、目に捉えることによって感じる違和感を、明確な違いと察することができる。ミザントリはどこか落ち着かぬ様子で座っていたし、彼女が出た後、アンバーシュに伴ってこられたクロードの様子もおかしいことにも気付いた。ゆえに、尋ねたのだ。

「ミザントリがこちらに戻ってきてから様子が変わったと気付いていますか」

 クロードは棒立ちになり、呻くように溜め息した。

「礼を失してしまったらしく、避けられています……」

「おや、めずらしいですね、クロード。あなたが誰かと不和を起こすなんて」

 アンバーシュは言うが、しかしミザントリの様子だと怒っているわけではなかった、と思う。むしろ気落ちしているようだった。成すべきことを判然とすることができず、迷っている節があった。

「私の落ち度なので、きちんと謝罪します。ご心配をおかけして申し訳ありません」

「だが避けられている。もう何日となるはず」

 戻ってきてから半月近く経とうとしている。結婚式の準備は着々と進み、その間、ミザントリには何度も会っていたが、彼女はいちるのことばかりを口にして、胸の内を明かすことはなかった。そのつもりはないのだと放っておいたのだが、いい加減鬱陶しくなってきている。無理して顔を作っても何の意味もない。痛々しいだけだ。

「憂慮を残して晴れの日を迎える気はない。なんとかしなさい」

 指を突きつけると、アンバーシュが割って入ってきた。

「丸投げは可哀想ですよ。力を貸してあげたらどうですか」

「わたしに彼女を拘束する力はない。できるとすれば呼び出しくらいだ」

「なら確実に来て、会えるように計らえばいいでしょう。ちょうど話もしたかったし、俺の名前で呼び出しておきます。恩に着てくださいね」

 横目を投げたいちるを、アンバーシュが見返す。男に向けて渋面を作った。

「何か具合が悪いですか?」

「表現の仕方が分からないが、それでは彼女を罠にはめたように見える」

「罠ですけど」

「不快だ、と感じる」

 急に、アンバーシュがにやあっと笑った。表情に乗った感情という墨が、溶け出したようにゆっくりと広がっていく。いちるは身体を遠ざけて、乗り出してくるアンバーシュをかわそうとした。こういう時、嫌なことを考えているのはいつものことだ。

「心配しなくとも、その後は二人の気持ち次第です。そこまで操作しようとは思ってませんよ。だから、あなたが嫌われることはありません」

「嫌われることを案じてはいない。そんなものは慣れている」

 アンバーシュは何も知らぬ癖して知っているようなことを言う。いちるの、己の知らないところすら見知ったように言って、そういうものだと思い込ませようとする。捨て置いたものを拾って、後生大事に持っているようなものだ。おかげで、自身に対する考え方を改めさせられてしまう。それまで価値あったものが意味をなさなくなり、無価値なものこそ尊いと、認識を逆転させることを楽しんでいるようだ。

 嫌悪には慣れている。傷つく必要もない。好悪は二極として存在する。どちらかに絶対的に傾いている環境など、気色が悪くて仕方がない。だがアンバーシュは「好きでいてもらえる方が嬉しいものですよ」などと言うのだ。


 後のことは当人同士に任せ、アンバーシュはクロードを追い払い、給仕をしていたネイサを退出させた。新しい茶がなみなみと打っているのを前にして、辺りはあまりにも静かになった。

「改まった話があるのか」

「はい?」

 菓子に伸ばしかけていた手を止めてアンバーシュが瞬く。瞬にして己の勘違いを悟り、うっすらと染まった頬を背け、何でもないと言い置く。こういうことはあまりなくすぐさま引き当てられなかっただけで、そういうこともあるのかと思いながらも、我が身に降ったとは理解し難いのだが、どうも、この男はいちると二人で過ごしたいと考えたらしかった。

「支度は順調ですか?」

 微笑んで尋ねるが何もかも承知した上での言葉だ。内心、笑っているのだろうか。唇をつんとさせたまま「わたしは」と頷いた。儀式儀礼の作法は覚えつつあったが、いちるの作法習得よりも、絶対に仕事を疎かにできぬ他の者たちの方を案じるべきだった。彼らの失態は連帯する。いちるの場合、自らの失敗は自らの醜聞として負うだけだ。他国の賓客への粗相や行き届かなかった出迎えは、ヴェルタファレンの咎になるが、いちるは最終的に力に物を言わせれば周囲を黙らせる自信があったので、無用な重圧を感じていない。

「朝から神山に拝礼の儀式、神殿に戻って婚姻式、王妃戴冠式。その後、街を馬車で走るのだったか」

「その日の夕方には宴です。こういう時、神様って楽ですね。普通の王侯貴族ならそういう場では踊らなくちゃならないんですが、半神だから人とは違うという理由で同じようにしなくてもいいんですから」

「下手なのか」嫌がらせのつもりで訊く。

「一通り覚えてますけど、もうずいぶん踊ってません。誰かと踊ると、王妃候補と目されてややこしいことになるので。かと言って、博愛的にいろんな人と踊りたいわけじゃありませんでしたし。東の人は踊るんですか?」

[『舞』というものはあるが、こちらでの『円舞』とは違う、と思う]

『舞』に相当する言葉は繰ったことのある字引においては『踊る』だが、それではどうも大衆的な意味合いを感じる。差異を伝えるために念話を使ったが、伝わったかどうか。

「わたしも舞は覚えさせられたが、師について教わったのはずいぶん昔で、近頃はまったく舞っていない」

 知ると知らぬでは違うと、貴人の教養はある程度身につけたが、いちるの役目はそこにはなく、離れた場所で世のことを俯瞰する占術師となった。ただ、物を見て、状況を組み立て、人がまだ知らぬことを知り、伝え、動かすだけだ。じっとそこに座っていれば知りたいことは見聞きできる。己の身体を動かすことは空しく、心を慰めることはなかった。

「もう舞えないな。必要がないのですっかり忘れてしまった」

「気が向いたら何かしてみるのもいいでしょうね。音楽をやったり、庭を作ってみたり、針を持ってみたり」

「退屈を潰すのは得意だが、そういうわけにはいくまい」

 アンバーシュはちょっと首を傾げた。本当に、何も分かっていない。

「国主の妻としての役目がある。政の実務に口を出すわけにはいかぬが、外遊やら見舞いやらがあるだろう。だが、出て行かねばならぬ時はわたしには分からない。お前がよしなに差配するのに任せる」

 机の上に出していた手に、アンバーシュが己のそれを重ねて握った。

「心強いです。よろしくお願いします」

 ただ重なっていただけの手、指を滑るようにして組み合わせて、握ると、男の手のひらの熱さが感じられた。何故か今更それに胸が高鳴り、わずかに顔を背けて頷く。アンバーシュの手は、いちるのものよりも一回り以上に大きかった。いちるが手を振りほどかないことをいいことに浮かれた様子で笑って言った。

「あなたが自分の昔のことを話してくれたのは初めてだ。嬉しい。もっと聞かせてください」

「おおよそ知っているだろう」

「何も知らないんです」

 アンバーシュは両手でいちるの手を取った。

 どうやってナデシコという国の占者になったのか。それまではどのように暮らしていたのか。両親のこと。友人はいたのか。何が好きで、何が嫌いか。食べ物。着る物。花や菓子のこと。アンバーシュは問いかけの数々を怒濤のように並べていき、呆気にとられる。

「それを知って……どうするつもりだ」

「何もかも知っていたいんです。[……溶け合うみたいに]」

 音と念で伝わったそれは、奇妙な熱を孕んでいた。靄のように濃く、手で触れられぬことはないが今にも肌に染み渡っていきそうなもので、指先から背筋にまでぞくりと震える軽い衝撃となって走った。実際、アンバーシュの両手はいちるの右手を包み込んでいる。左手で支えながら、右手を動かして撫でさすっている。薄い皮に包まれた手の甲を親指の腹でなぞられると、むずがゆい。

 しかし心地が悪いわけではなく、振り払えない。

 アンバーシュは、雷神だ。だが時々、不思議な魔力を用いていちるを絡める。

「教えてください。あなたのこと」

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