第十一章 十四

 ――薄い帳は、さやかな朝の海のようだった。白く、薄い、霧を帯びた乳白の大海。何枚にも重なって広がれば、光の波に似たものとなって、打ち寄せる。夢の名残に瞬きをして息を吐き、寝台に顔を埋めていたが、他人の香りがして、いつもより覚醒が早く訪れた。

 目を開け、顔を上げ、身体を起こす。隣にいたはずの男の姿がない。まさかまたなのかと愕然としたときだった。「あれ?」と間の抜けた声が帳の向こうから響く。

「起きましたか。おはようございます。よく眠っていましたね」

 ちょうど露台の柱の影にいたらしかった。帳を分けて、アンバーシュが姿を現した。ずいぶん早く目が覚めていたのか、髪は梳かし、すでに白い開襟と深紅の脚衣を身につけている。いちるは、寝台に腰掛けたアンバーシュの視線が下に向けられたのを知って思いきり手のひらを押し付けた。

「ぶ」

「馬鹿。明るいのに見るな」

「だったら何か着てください。見ちゃうじゃないですか」

「……昨夜思う存分見ただろう」

「まだ二回ですよ? まだまだ見足りない」

 ぐいぐいと手で押すと、笑いながらアンバーシュは反転した。床に落ちていた部屋着を拾い上げて寄越す。

(見足りないだと? それはこちらも同じことじゃ)

 鼻の頭に皺を寄せて思う。どいつもこいつも、人の唇を奪ったり、寝台に押さえつけてみたり、肌身を想像して唇を歪めたり、内蔵どころが魂に手を突っ込んで切り落とすような真似をする馬鹿ばかりだ。我が身ばかり弄ばれる。

 肌がまだ妙に熱い気がして、部屋着をまとった後、小机にあった水差しから水を注いだ。水は十分に澄んで、内側を冷やしていく。そういえば、記憶がない時にはあまり気にしたことがなかったのだが、ここもまたアンバーシュの住処なのだ。館の手入れも、訪れ人の世話も、彼の眷属が行っているのだろう。

 館には左右にそれぞれ山側と海側の部屋があり、アンバーシュの部屋は左側の海側に、いちるの部屋は右側の山側にある。極力遠い位置を選ぶとこういうことになるらしい。だというのに誰かに任せて出て行かなかったのだから、この男も素直でない。

 いちるがそうしているのを、アンバーシュは露台の背を預けて眺めている。目を細めてみせると、笑う。山から谷へ抜ける風で、黄金の髪は海へと向けて波打つ。

「何ですか?」

[男どもは、もう少し辱めを受けるがいい]

 きょと、とアンバーシュが瞬きをする。

[女というだけで一方的に弄ばれるのは性に合わぬ。男も羞恥を覚えるべきじゃ]

「……割と恥ずかしいものなんですけれど。男も」

 信じられぬ、という顔をしたらしい。顔を近付け、内密のことを話すように小さく言った。

「翻弄してしまうのは余裕がないからですよ。本当に余力があるなら、充分優しく接して心を解かすことができる。ただ、自分の欲求が早く早くと急くから、つい実力行使に出てしまうんです。余裕があるように見せているだけですよ。欲望に忠実になると、目も当てられない自分がいることを男は全員知っています」

「余裕そうな笑顔だが?」

「分かってないみたいですけど、色々考えてますよ? このまま寝台に放り投げて逃がさないようにしたいなーとか」

 いちるは真っ赤になった。

「この家には他にも滞在者がいるから、だったら別の隠れ家に行って一ヶ月くらい閉じ込めてみようかなーとか」

「大馬鹿! うつけ!」

 怒声を轟かせて身を引く。はははと笑うアンバーシュが底知れぬほど恐ろしいものに変容する。耳障りのいいはずの明るい声は、舌なめずりする獣だった。この男の本質はそれなのだと気付いてきたはずなのに、いちるはぞわりと背を震わせる。自分は、これから悪しき者に身を任そうとしているのではあるまいか。

「逃げると追いますよ?」

 露台から寝台へ、寝台から机の後ろへ退いていたいちるは、その一言に直立不動となった。男の声音の本気を嗅ぎ取ったからだ。宣言通り、不動となったいちるを追ってきはしなかったが、笑顔のまま椅子を引いて手を招く。罠だろうか。手を取った瞬間に、牢獄か何かに投げ入れられる予感がする。

「俺は今、座っているでしょう? 逃げ場はあんまりないですよ。だからそんなに警戒しないで」

 この男が信用に値しない時があることを、いちるはすでに染みて知っている。すると、アンバーシュは少し語気を強めた。

「来てください。話があります」

 渋々寄っていったいちるは、アンバーシュに両手を取られた。頭を垂れるようにして握られる。重なった手の異なりを思う。指の形も、骨の大きさも、手のひらもすべて異なる。こうしてみれば、いちるの手は手荒れを知らぬ高貴な手だ。アンバーシュは思ったよりも指先が荒れている。乾いて、指紋の渦が感じ取れる。そうして、いちるはぎょっとした。次にアンバーシュは、その場に片膝をついたのだ。

「アンバーシュ」

「古式に則るべきだと思いまして」

 何事かと訝しんだが、表に出さぬべきだと判断した。背筋を伸ばし、誠意を捧ぐ姿勢の男の言葉を待つ。いちるの佇まいで空の青の瞳が緩み、献身の柔らかみを帯びた。

「今も昔も、あなたが欲しいです。これからもあなたを求めます。……あなたを我が妃に、という言葉も考えたんですが、今では立場が変わってしまいましたからね。この場合、心から本音を言うべきだと思いました」

 胸が打つ。まるで、己が天上の者になったかのようだ。

「――あなたのすべてを貰いたい」

 息が出来なくなった。

「あなたを妻に望みます」

 は、と短く息を零したいちるの握った手を、アンバーシュが軽く揺らす。

「許すと言って。でなければ、このままさらって、いいと言うまで逃がさないから」

 一生その檻に投げ込むつもりなのに、そんなことを言うのだ。なんとひどい男だろう。許しても許さなくても、いちるは牢獄にいる。柔らかく甘美な、贅沢な檻だ。だがアンバーシュは、自分でいちるを投獄せずに、扉を開けて招いているだけ。いちるが自ら足を踏み入れるのを待っている。

 幸福な結末が待ち受けているとは思えない。どちらとも悟っているからこそ、アンバーシュのこの台詞。

 祝福も呪いもすべてと、男は言っている。

 そこには生があって死がある。蜜月があって結末が存在する。始めたものは終わらねばならない。内包されるありとあらゆるものを受け止める覚悟があるのだろうか。いちる自身でさえも、何が訪れるか分からずに途方に暮れているというのに。

 恋という甘い毒の海に、それとは知らず、溺れている。愚かで傲慢なわたしの神。

[我が身を得れば、やがて毒を食もう。疼きは欠壊へと変わる。――損なわれる者を見たくないと、懸念する妾の素心が分かろうか?]

「もう遅い」アンバーシュは息を零した。それは、春の蕾がほころぶような、星が落ちた刹那のような、溶けて消え行く、愁いの中のあたたかみだった。

「俺をあげたでしょう?」

 いちるは息を呑み、膝を折った。俯いたいちるに唇を寄せて、アンバーシュが笑い声を零しながら髪の間に息と口づけを挟んでいく。満たされていくものがいちるの防壁を弱くする。表情が出てしまう。だが、笑いたいのか泣きたいのか、判然としないまま、顔を見られなくないと手を入れる。

「イチル」

 迫力を感じる呼び声だった。びくりとし、諦めて手を下ろす。

[……あまり、見るな。どんな顔をしているか、分からぬゆえ]

「可愛いですよ」

 少年のように軽やかに、アンバーシュが言うのだ。

「あなたはいつでも、とっても可愛くなくて、これ以上なくすごく可愛い」

 それはお前だと言ってしまう己が愛想がないと知っていたから、いちるは反撃の言葉を失った。こういう時、どんな言葉で返せば対等になれるのだろう。

「顔見せて」

「…………」

 唇を結び、アンバーシュを見上げる。途端、何を考えていたか忘れてしまった。

 こんな、目。

 海の、飲み込むような紺碧を知っている。闇の深さも馴染んでいる。しかし、アンバーシュの目は銀を帯びた薄い青で、一見明るく澄んで見えるのに、その光はあっという間に思考も言葉も飲み込んでいくのだ。高みもまた、底知れぬ場所と同じく、どこまでも果てがないものなのだと知る。その目を、いちるは夜の中で見せつけられていた。教え込まれたかのように、抵抗する力を失っていく。目を奪われて、言葉を、息を奪われる。かすかな呼吸を飲み込むようにして、もう何度目か数えることもできなくなった口づけを受ける。

 感覚が痺れるようで鈍くなる。口の中がぬるい。その温かさが、甘い。

「俺のイチル」

 合間に告げられる専有の言葉に、震える。

 いちるに返せるのは一言だけだった。

[妾の……]

 かみさま……――。

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