第八章 八

 開いた扉は、自ら閉じずとも勝手に退路を断った。扉越しに聞こえる焦燥のどよめきに軽く溜め息をついて、髪を梳る。ろくに身支度もせずに来たことを少し後悔していた。戦女神が鎧を身に着けるように、いちるはコルセットを身に着けるべきだった。寝間着の上に幾重かのものを羽織っただけでは、いささか装備が心もとない。だが仕方なし、と、先ほどから閃光が走っては暗く沈む部屋を進む。

 明滅。燐光が走り中空にて消えていく。

 近付いてみてそれが羽虫の形をしていると知る。半透明の白い翅が、ほろほろと崩れて消えていく。それを生み出す男は、寝台に横たわって目を閉じているようだった。腕で顔を覆い、深く息をしている。いちるに気付いているだろうに何も言わない。よほど消耗しているらしかった。

 ふと、壁に広がる影が、牙を剥いた気がした。かぎ爪になった手足が見え、眉をひそめる。

(何かが来ている)

 呼び寄せているのは転がっているこれだろう。この様子なら、祈祷師が呼び集められたり、害意を恐れる娘たちが溢れるのも理解できた。

 寝台の側に寄り、じっと待つ。助けてくれと言うだろうか、としばし考えながら。言われた方が気分がいいものだが、それはそれで煩わしいものを背負い込むことになるのだろう。

 そも、いちるには把握していたと思っていた自身の力を、すべて知らないことに今更気付かされている。循環と浄化の能力、とは、西の神々がよく口にすることで、東島の卜師どもは気付いていた節があったが、それを強化しようとは考えなかったらしいので。

 いちるは、つと首を傾げた。今なら、これに報復することが可能だろうか。恨みつらみは山ほどあるし、思い知らせてやりたいこともある。周期的にこのような状態に陥るのなら、その機会が度々訪れてくれるということだ。やられたままは性に合わない。果敢に攻め込むことは好まぬが、先手を打って攻撃を防ぐという手は有効だと思っている。

 笑い声が聞こえたのはその時だった。

「……悪巧みをしているだろう。恐い子だ」

 音を苦しみに削がれた、掠れた声だった。笑ったというより、溜め息といった方が正しい。

「辛そうだ」

「これがさだめだから、どうということもない。月神に代わってここに留まるとこのようなことになる。東島にはいないのかな」

 いちるは眉をひそめ、首を振った。確かに、両極である東と西ならば、東にも、永遠の昼の国に太陽神に代わる神がいるはずだった。だが、聞いたことがなかった。そもそも東の果て、白極夜国は、何か特殊な形で動いている、内部の情報を開示しない国だ。

「どうでもいい話をしなければ気が紛れませんか」

「実はそうなんだ。……戻って眠ればいい。この調子だと君を構えない。それとも、寝首をかくいい機会だろうか」

 疲れた横顔に、アンバーシュの面影が重なった。いちるは舌打ちしたい気分だった。この手の顔に弱いのか、己の心が弱いのか。憔悴したアンバーシュの顔が浮かんで落ち着かない。この宮殿のどこかにいる彼も、同じような顔をしているかもしれないなどと、考えてしまう。

 睫毛に光が触れるほど近い場所で、銀の虫が崩れた。

「あなた方兄弟は、ひどくわたしを苛立たせる」

「光栄だ。それで?」

「ミザントリに自由を与えてもらいたい。彼女が望む時に外に出て、彼女が望むものを必ず用意すること。弱ってもいなければ、あなたはわたしの言葉を聞きもしないでしょう? 引き換えに、あなたを助けてやらないこともない」

 オルギュットはしばらくいちるを見ていた。ゆるりと瞬きをひとつ。

「君が解放されるまで、彼女がこの宮殿に滞在すると約するならば」

「了解した」と答えながら、なるほどそこまで弱っているのかと哀れに思った。なんでもないような顔をしているが、取引してでも苦痛を和らがせたいのだ。ミザントリの処遇はもしかしたら取るに足りぬと判断した可能性もあるが、しかし、いちるにとって今、最も足枷となっているのは彼女の存在だった。

 手折られて、なるものか。オルギュット王の所行を聞けば、おのずともそう考える。

 寝台の上に乗り、ゆっくりと目を閉ざしたオルギュットの額に手を向けてみる。ためらった後、額に手を乗せると、思わず引いてしまうほど熱を持っていた。喋るのも相当辛いのではなかろうか。いちるの手は冷たすぎるほどで、一瞬竦んだように息を止めたオルギュットは、ほっと詰まったものを吐き出した。

 汗もかかぬのに、熱を発し続けている。穢れが毒の熱になって、身体に溜まっているのだ。だが、これを引き受けてしまえばいちるは自分の呪いに拍車をかけてしまうことになる。力を循環させながら相手に返すこと。無意識にやっていることを、自身の負担にならぬよう操作して行わなければならない。

(循環させるのはオルギュットの流れだけ。妾は力の巡りの補助を行って、自身を削らぬようにせねばならない)

 乱れた髪を何とはなしに除けてやっていると、時々発光するだけの暗い部屋では、ここにいるのがアンバーシュのように思えて、少し不快だった。寝ている男が、何故アンバーシュではないのだろうと腹が立ってくるからだ。

 早く来てくれればよいのに、と思うが、この、横たわっている男の持ち得る様々なことが障害となって、色々ままならぬことになっている。ティトラテスとは違い、調停国のイバーマでは、あの時のように飛来して雷を落とすなどという暴挙には出られまい。

 それでも。

 それでも――早く来い、と、願っている。

 適当な方法が思いつかなかったので、オルギュットの額に触れ、手に触れた。男の手は優美に整えられており、思う者との違いにいささか安堵した。これは違う相手だと感じることができるからだ。

 目を伏せる。この世に起こる特別なことは、ある程度想像力によって賄うことができる。思いが思いを引き寄せ、結び合うことでさだめが回る。力と力も同じこと。そこに手心を加えればいい。


 回れ。回れ。

 渦を描き、巡れ。転じて、戻れ。

 いちるの瞼の裏には、銀光の羽虫がいる。行き場を見失い、ほどけて消える虫たち。

 おいで、妾の声を聞いてご覧。いちるは呼びかけ、見えないもう一つの手、指先でくるりと渦を描いてみた。風に乗った虫は円を描くようにして飛び、消える。感触を掴んだいちるは、今度は少しだけ弱く、それを回してみた。

 舞う羽。風を掴んだ小さな羽は、輝きを零しながらひとつの柱を作る。ゆっくりとその柱を回し続けながら、いちるは別の視界で何かを見た。それは読んだ心だった。強く焼きついたものが、視界にいくつも巡っていった。


 様々な女たち、美しく、事情があった不幸で幸福な女たちは、同じ冠をいただき、目を伏せて運命を委ねる。悲しみ。情熱。愛。恐れ。憎しみの表情。少しずつ変わっていく華麗で豪奢な装い。絢爛。堕落。けれどいつでも彼女たちが持ち得ているのは怯えだった。奴隷だった娘も、青石の首飾りの女も、皆等しく。置いていかないでと誰かが叫んで、男は答えた。

『置いていくのは、いつだって君たちだ』


『ならば、私は』


 娘の黒目は異眸に転じた。


 遠くから赤子の泣き声が聞こえ、弱弱しくなり、遠ざかる。

 ――御子は……三柱の元へ……。


 景色が弾けた。娘が消えた。いちるの目前でそれを握りつぶしたのは、オルギュットその人だった。彼の手の中から、風景が崩れて消えていく。献身の切なさと、歓喜を零して。

 知らなくていいこともある、とオルギュットはいちるの目を覆った。






 落ちたオルギュットの意識が浮上した時、部屋は粘ついた空気に満ちていた。自身がかいた汗がひどく冷たい。熱は下がったらしい。ふと首を動かせば、寝台に伏している女の姿が目に入った。

 千年姫と呼ばれている東の妖女だった。

 きつく向けられる眼差しは今は閉じられている。昏倒、とまではいかないが、ずいぶん疲弊して寝入ってしまったらしかった。気付かずにそれほど時間が経っていたらしい。

 だが、時計を見て、驚いた。まだ夜が明けていない。一夜続く朔日の苦しみが、通常の半分ほどの時間で終わっていることに驚愕した。

(千年生きる女の異名は、伊達ではないか……)

 だが、自分が倒れていては意味がないだろう。自分を嫌っているのではなかったかと、俯せてわずかに覗ける顔を見る。膝を抱えてつくづくと見て、その睫毛が孔雀のように緑や紫を帯びていることに気付く。

 綺麗な女だ。どこにでもいる、美しい女。

 そう思っていたけれど。

「面白い」

 呟きは甘い。

 伸ばした指先に噛み付かれることはない。髪を梳き、その儚く零れる感触を楽しみ、頬に触れて柔らかくきめ細やかなそれを覚えた。唇をなぞろうとして、さすがにもう一度激怒されるのは困る、と考えた。それは、オルギュット自身も不思議な心の動きだった。

 嫌われたくはない、と思ったのだった。

「君は、どのような理由でアンバーシュを恋うのだろう」

 夜は深くなる。これから、もっと。オルギュットが太陽の代わりに銀の光珠を投げかけなければ、この国の者たちは朝の訪れを空で知ることができない。そのようにしてオルギュットは君臨している。この国では空すらも己の思いのままになる。

「……どのようにすれば、君は恋うのか」

 伏した女を前に、夜の国の王は微笑で問いかける。

 口の端に、誰も見たことのない優しさを刻んで。

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