第五章 七

 アンバーシュは馬車を駆り、空に浮かび上がった。見送りの者たちがみるみる遠くなり、結晶宮よりも高く上がると、いちるの耳に巨鳥の一声が聞こえてきた。鳥の神ギタキロルシュだ。

[ごきげんよう、ギタキロルシュ神]

[やあ、姫。アンバーシュ、道案内に来たぞ。風神の道を使うつもりなのだろう?]

 いちるの挨拶に目を細めた神の問いかけに、アンバーシュが頷いた。

 ヴェルタファレンからティトラテスの国へ入るのは、さほど時間がかからない。だが人に安易に姿を見られることを、ティトラテス政府がよしとしなかったらしく、なるべく素早く入国すべしと通達されていた。アンバーシュの事前の説明によると、風の神とその眷属が使う特別な道があるらしく、そこを通れば時間をかけずプロプレシア女神のいるリリル川の近くに出られるという。

[先導してやる。ついてこい]

 天駆ける馬たちを大翼が導く。風の流れが変わり、急に空気が白い光を帯び始めた。

 心地よい、雪の香り。

 ギタキロルシュの翼と風が生んでいるのだ。氷の結晶を見送っていると、目前に光の渦が現れた。ギタキロルシュの声で渦が開き、馬車はその中心へ滑り込んでいく。

「イチル。今から道を抜けるまで、なるべく話しかけないでください。ちょっと危ないので、身を乗り出して落ちたりしないように」

 渦の扉を抜けると、そこは流線の走る道で、周りには何も見当たらない。耳の側を甲高い音が走り抜けていくが、鳥の神以外に他のものは視認できなかった。

 手綱を握るアンバーシュは、慎重に前を見据えている。話しかけるなと言った通り馬車を操ることに注意を傾けているらしく、心なしかいつもより真剣な表情だった。いちるは、じいっとアンバーシュの顔をわざとらしく覗き込む。アンバーシュがちらりと視線で笑おうとするが、ギタキロルシュの注意の声に前を向いてしまう。

 つまらない、と思う。

 秀でた額に滑らかな顎と尖った鼻の筋。ちょっとつついてやればすぐに嬉しそうな顔をするのが分かっているが、普段はこういう、真正面から美丈夫、という顔をわざと崩している様子がある。隠すとは姑息なり。むくりと悪戯心が沸き起こすが、異界の道を使っている危険性を思い出して前に向き直る。

 ギタキロルシュが抜けることを知らせてきた。

 空気が一変し、峻険なヴェルタファレンの景色は、平地が広がる緑野の国土ティトラテスへ変わっていた。天高い水のにおいは消え、青い緑の香りがする。日だまりに微睡む春の泥と芽がささめく、広大な国。

[それでは、私はここまでだ。蛇神と私は相性が悪いのでな、私の分もプロプレシアに言祝ぎしておいてくれ]

[ありがとうございました、ロルシュ。アストラスによろしく]

 太い笑うような鳴き声で別れを告げると、いちるに優しい目を投げかけて上昇する。羽ばたいた翼が大地に影を作り、そのまま、あっという間に見えなくなった。

 見上げた空の太陽が、思ったよりも明るい。山の雪の照り返しがないせいで、黄色っぽく、あたたかい。

「っ!」

 その額を、ぴんと弾かれた。

「こーら。危ないって注意したのになんです、あなたは。あんな風に覗き込んで子どもですか。あそこで事故を起こしたら出てこられなくなってしまうんですよ」

 ひりつく一点を押さえて睨んだ。

[痛いではないか]

「もし傷がついたら口づけて直してあげます。あなたも、俺たちと同じで触れ合うことで力の循環が働くから。まあ、そのせいで先日のあの心読だったわけですけど」

 相性が良すぎる、とアンバーシュは苦い顔をしている。

 いちるがアンバーシュの心に触れて、読み取りを行ったのは、その思いが強く心に刻まれたせいだけではないらしい。確かにあれほどはっきり思考が口をつく形を取るとは思わなかったが、アンバーシュは呟くように指摘する。

「覗き見は感心しません。戻ってこられなくなりますから」

[訓練はしている。自制できる]

「あなたは必要だと感じれば力を使うことをためらわない。それがあなたの武器で、強さだとは思うんですが、すごくすごく心配です」

 心配、という言葉を聞いて、いちるは思い出していた。今回の外出に際して、同行できなかったレイチェルがくれぐれも気をつけてください、アンバーシュ様のご指示に従った方がよろしいかと僭越ながら、と言葉を添えていたのを

 心のうちが読めぬ女官だが、そういえばいちるは、彼女とこの男が結託しているのではと疑ったことがあるのだった。

 地上に投げかけられた馬車の影は、大河の側を並走している。水底と水と波の色が混じり合って、光が黒と鈍と青緑を代わる代わる照らす。

[レイチェルがお前に指示に従えと言っていた。言い含めたのはお前か?]

「レイチェル? 俺に従うようにと言ったんですか。あなたに?」

[お前が寄越した監視役だろう。その管理もできぬか]

 呆れに返されたのは、きょとんとした顔と苦笑い混じりの大笑だ。すぐにまずいと思ったのか、声をこらして他所を向く。しかし失礼なことに、肩が震え、時々声が漏れてくる。

[おい]

「笑わせないでください! 疑り深い人ですねえ。確かに王宮の官は全員俺の管轄下にありますが、レイチェルたちは報告の必要性を感じなければあなたの私生活を俺に報告するようなことはありませんよ?」

[だが妾の行動に目を光らせている]

「あなたが怪我するような危険なことばかりするからです」

 アンバーシュは断言する。

「よかったですね。心配されるということは、少なくとも嫌われていないということだ」

 いちるは眉をしかめた。

[妾の責任である行動にあれらが心を痛める必要があるか?]

「他人が傷つくのは嫌な気分になります。それが自分の仕える主ならなおさらです……ってこういう言い方はあなたは多分理解できないと思うので、そうですね、あなたは彼女たちの主人なんです。主人が問題のある人物なのは喜ばしくないでしょう?」

 むっとする。

[理解できぬと決めつけるでない]

「実際分かっていないじゃないですか。人の痛みや傷は、誰かの目に触れればその人を傷つけることだってあるんですよ。俺が読心を感心しないというのはそういう意味でもある」

 薄い雲がかかって辺りが淡く影に染まる。風に払われて再び光が満ちていく。

「他人の傷を抱えてはいけません」

 いちるは目を逸らした。

 痛んだのは、読み取ったアンバーシュの過去がまだ離れなかったせいだ。激しく疼く思い出は、癒されることなく男を苛んでいる。哀れなほどに盲目にする。だからこその言葉。

『最後はあなたがいい』――……あいしてもいないのにだ。

 アンバーシュは口調をがらりと変えた。

「レイチェルがあなたに注意したんなら、それは彼女自身の責任における、彼女自身の正直な言葉です。疑っては可哀想ですよ。俺の言葉が信用できないなら、正直に聞いてごらんなさい。教えてくれると思いますよ」

 分かっていないくせに、といちるは言う。

[聞いていないふりをされる]

「それはあなたが悪い。理解されないだろうと思ってかかっているんです。そんなに気になるんなら読心してみたらどうですか。でも今までそれをしてこなかったっていうことは、あなたはレイチェルを信頼に足る人物だと思っている証拠だと思うんですけれど?]

[分かったような口を利くでないわ]

「それはすみません。……ああ、ほら、リリルの川です。扉をくぐりますよ。今度も身を乗り出さないようにしてくださいね」

 手綱をふるったアンバーシュが、細い川に添う。少女の髪のように緩く繊細に蛇行する川は、深緑をしている。前方の水面に光の帯が見えると、馬車はその上に乗って、ゆっくりと底へ沈み始めた。

 水の冷たい衝撃はなかった。ただ密度の違う層の中に入り込んだ感覚があり、辺りの景色はうっすらと闇がかって何も見えない。やがて目が慣れ始めると、それは深い青緑色をした世界だった。水が揺らぐように空気が震え、見上げると太陽らしき白い輝きが揺れているのが見えた。水の中だが別の異界、という狭間に入り込んでいるのだ。

 馬車は遠くに見えている橙の光を目指す。

 神々の多くは異界に住まう。ヒムニュスなどは流浪の性を持っているであろうから定住を持たぬが、この世の万物の中に彼らは存在する。東神の住まいは霊峰であると聞いていただけに、西の神の居城には目を見張ってしまった。

 近付いて見たそれは、ひとつの宮殿だ。ヴェルタファレンにある結晶宮のような形をしているが、透明な結晶ではなく不透明の青い石が、剣のように鋭く突き出ている。建物はそれだけで、中央部分に穴があり、そこへ馬車は滑り込み、停まった。

 アンバーシュはひらりと飛び降り、いちるに手を差し出した。もう慣れて、いちるもこの挙動に裏を読むことはない。手を置いて馬車を降りると、それをそのままにして歩き出した。

 入り口である空間を抜けると、向こうから歩いてくるナゼロフォビナが大声で「よく来たな!」と言った。

「思ったよりも早かったな」

「ロルシュが案内をしてくれたので、風神の道を通ってきました。プレシアは?」

「居間にいる。来い」

 ナゼロフォビナを先頭に歩き出す。

 内部は、青の透明な石でできていた。恐らく外から見えた不透明な青石だろう。内部に入ると外を透明になって外の水の中を映している。川魚、に見えるがかなり巨大な魚影がゆらゆらと頭上を遊泳している。庭代わりなのか、植物は藻や水草で、不思議なことに花が咲いて、白い光で水底を照らしている。

「リリルの花です。プロプレシアと親しかったリリルという少女のために、プレシアが創った花ですよ」

 いちるの視線に気付いてアンバーシュが小さな声で教えた。

「リリルの望みで生まれたのがプロプレシアだからな」とナゼロフォビナも歩調を緩やかにし半ば振り返って説明を添える。遅れかけていたのを追いつくまで待って、ナゼロフォビナはようやくいちるの歩調に合わせて足を進める。

「友達のいなかった少女が、ビナー大河の女神ビノンクシュトに友達が欲しいと祈った。女神は娘を生んで、その娘がリリルの住む村の側の川を守護することになった。プレシアはリリルから人間のことを学んだ。二人は友達になって、プレシアはリリルの結婚式のために彼女を飾るための花を贈った。プレシアが花の名をリリルとしたので、その花の咲く川をリリル川と呼ぶようになった――『ティトラテス守護神話』ビノンクシュトとシッチロクタの章にありますね」

 ナゼロフォビナは足を止めてまじまじといちるの顔を見た。アンバーシュは悪戯が成功した時のような堪えた顔をしている。

 この旅の準備としていちるが行ったのは、ヴェルタファレン城の図書室でティトラテスの国と神々の歴史を調べたことくらいだ。それしかすることがなかったとも言える。

「まさか……全部覚えてんのか?」

「とんでもない。わたくしはそこまでの能力を持ち合わせていません」

 見誤られては困る、とため息をつき首を振ると、ナゼロフォビナの複雑な顔はアンバーシュに向けられた。

「こっちに来てまだひと月、なのにこのぺらっぺら喋ってんのは一体どういうことだ? アンバーシュ、お前なんかしたのか」

「あちらにいる時に辞書を読んでいたそうですよ。でも念話を使うのは正確に機微が伝わるからだそうです」

「まあ、この態度でその喋り方は、猫被りすぎだろって感じだがな……」

「わたくしの礼儀がなっていないなら、そう言ってもらえますか?」

「目ぇつり上げて言うんじゃねえよ」

 笑いながら言ったナゼロフォビナは、伸ばした手でいちるの頭をぽすんとやると、にっと笑って再び歩き出した。人の頭を気軽に触ってくれるのは西神の特質なのだろうか、と考えながら、隣に立つアンバーシュの半歩後ろに続く。

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