第五章 三

 水が流れているのを聞くようなかすかさ。目が覚める前から、そんな人の気配を感じていた。目を開けて、光を絶えさせていく灯り火を見てから、自分はラフディアの館に泊まっていたのを認識し直す。感覚では夜が明けてすぐだろうか。高い位置に巡らせてある窓から、黄色に眩しい朝日が差し込んでくる。

 寝台から降りて軽く身支度をし、気配を辿る。気配の残滓は外へ続いていた。

 大河の流れる音、そして盛んに鳴き交わす大小様々な鳥の声が溢れている。射られるほど激しく輝きを放つラフディアの水面。川の上を水鳥が渡っていく。目を覚まさせる心地よい風が生まれていくのをアンバーシュは見た。眷属たちが整えた邸の周りからやってきたその風は、アンバーシュともう一人に手を伸ばして去っていく。

 いったい何を見ているのか。別部屋で休んでいたはずのいちるは、この時間なのにもう起き出して、日の昇った世界を見ている。

「おはよう。早いですね」

 振り向いたが、川の水の光が反射するのが眩しくて、アンバーシュは顔をしかめた。

[お前の顔、白光りして眩しゅうてかなわぬ]

 光でこちらの顔も白く照り輝いているらしい。不機嫌そうに言うと、ぞろ長い衣装の裾を引いて移動してきた。まだ眩しいのか少し寝不足なのか、いちるのしかめ面が直らない。

「夜が明けたばかりです。まだ休んでいていいですよ」

[妾はいつもこの時間には起きている。他の者たちが遅すぎるのじゃ]

 それは言えている。城に仕える者たちはともかく、特に仕事を持たない貴族たちは昼になってから起き出すこともめずらしくない。だがそれはその日の明け方まで催される会に出席しているためだ。彼らにとってそれが仕事なのだと説明してもよかったが、分かって言っているのだろうと判断した。

「うん、早起きなのはいいことです。これからもそうだといいんですけれどね」

[そうであるとも。勤めがあろうとなんだろうと、習慣は曲げぬ]

 つんと逸らした横顔がやけに少女めいていて愛おしかった。笑うアンバーシュに[何じゃ]といちるが片眉を上げる。

「うん。それが可愛いなあって思いましてね。ほら、中へ入りましょう。朝はまだ冷える。女性は身体を冷やしちゃだめですよ。早めに食事をしたらさっさと城に戻りましょうか。人があまりいない時間帯に戻る方がわずらわしくなくていいでしょう?」

[朝帰りのお定まりか]

「朝帰りというにはほど遠い夜でしたけどねえ」



 簡単な食事、といっても備蓄しているのは酒やその肴なので、自然と味の濃いものが揃う。しかしそれらも昨晩かなり腹の中に収まったので、残りは少なくなってしまっている。水につけて戻した魚の干物をほぐしているいちるの顔色は、いつもと変わらない。

「あれだけ呑んだのに普段通りですねえ」

[上等の酒は酔わないものだ]と言うが、アンバーシュは彼女が酒豪であったことにかなり驚いたのだ。普通、女性は小さな杯に薄いものを一、二杯たしなむという程度なのだが。

「琥珀酒を空けられてそう言われると、立つ瀬がないです」

[あの酒を嗜むなら東の清酒を呑んでみるといい。濃厚だが後味が涼しい酒だ。あれくらいが呑みやすくてちょうどよい。冷えるとなお良い。琥珀酒は少々強かったからな]

「また用意しておきましょう」

 相手の目がきらりと光った。

[物では釣られまいぞ]

「分かってますから。そんなつもりで言ってません」

 どうだか、といちるは鼻を鳴らす。


 食事を終え、館のことを眷属に任せて、馬車に乗り込んで主都へ向かう。夜遅くまでの酒盛りのせいでやはり太陽が眩しい。空気が白く感じられる。あくびをしながら手綱を握っていたが、頭上から鳥の声が降ってきて顔を上げた。

[どうした]

「知り合いが来たみたいです。ギタキロルシュ!」

 影が急降下してくる。神山を住処とする大鳥は、翼で生み出した突風を収めて馬車に並走すると、黒い瞳でアンバーシュを睨んだ。

[呑気に散歩とはいいご身分だな]

[嫌味を言いにきたんじゃないでしょう? 何かありましたか]

[東神が呼び戻されて領地に戻った。だが、また別の神の訪問で、城は大わらわだぞそれからナゼロフォビナがそちらへ向かったようだ]

[ナゼロが?]

[東神とは?]

 いちるがわずかに身を乗り出し、尋ねる。

[そなたに会いにきたようだ。急なことだったが、様子が見たかったらしい]

 すると、何故かギタキロルシュは優しくなった。豹変ぶりにいったい何がどうなったとアンバーシュは目を瞬かせる。

[その様子では元気そうだな。鳥を使って東神に知らせをやっておこう。そなたも、自分を差し出した神々に容易には会いたくなかろうから]

[お気遣い、ありがとうございます]

 それだけだと言って、ギタキロルシュは再び風に乗って舞い上がる。

 見送るいちるの顔が晴れやかに輝いていて、不審に思って尋ねてみた。

「いつ知り合ったんでしたっけ」

[知り合いとは呼べぬ。今日まで言葉を交わしたことはなかったから。だが最初にお目通りしている。お前が、アストラスの陣に妾をさらってきた時]

 そういえばギタキロルシュが「お前本当にやったのか」とため息をついていたような気がする。停戦時ならば戦える西神がおおよそ揃っていたから、彼がいてもおかしくない。「こうなってはまとまる話もまとまらなくなる」と嫌味を言ったのを段々思い出してきた。

[妙にお優しかったな。妾の何がお気に召したのだろうか]

 さあ、と返事をしかけて、アンバーシュはそのまま口を閉じた。


 風の中に波打つ黒髪。

 白い額が乳白の石のように滑らかで眩しい。わずか上の空を見上げる目元は和んで優しい。化粧気のない透明感のある顔は無垢で美しく、緩みかけた蕾に似た薄紅の唇は口づけたらさぞかし柔らかかろう。水彩で描いた美女に、金と銀の粉を散らしたような。

 美しいことは知っていた。いちる自身もそれを強調していた。しかしどちらかというと力あるものの迫力と威力のある言葉が、彼女を強く、凛々しく雄々しく見せていた。

 あの一晩の何が彼女を濯いだのだろう。

 この身も、感情も、自分勝手なアンバーシュの何もかもを聞いて、怒り、それでもなおここにいる彼女。その希有さを、美しさを、染み渡るまで実感したように思う。

 いちるはどこにも行かない。

 傍らに立つ女を、アンバーシュは生まれたての女神のようだと思った。


[何じゃ。その阿呆面は]

 アンバーシュは瞬きをする。

 神性が消えてしまった。こちらを向いた途端、隣にいるのは清楚だが中身が伴わない女になってしまう。それはそれで不満はないのだが、先ほどまでなんだか夢見心地だったのでまじまじといちるを見た。

[言いたいことがあるならはっきりお言い]

「ええと……うん」

 黒髪、つるりとした白い顔、薄墨のような淡さ、そこに生まれる煌めきと光。いちるはやはり、美しい。

[アンバーシュ]

「あー……そうですね、まとめると、あなたが綺麗なのが理由だと思います」

 いちるの頭の疑問符が浮かぶ。

[それは理由にはならぬ。美しいのが基本のお前たちの目から見れば、妾は醜女とは言わずとも十人並みじゃ]

「そんなことはないです、あなたはとても綺麗だ。あなたを平凡と呼べるのは美の女神たちだけ……って、ええ? 待ってください、イチル、あなた、俺が『綺麗だ』って言っていたのを本気にしていなかったんですか?」

[本気にとってどうする。相手の容姿を褒めるのは籠絡の定石。それに今しがた言ったではないか。妾は醜女ではない、ゆえに美しいと言われうるのだ。本物の醜女ならば美しいという賛美は出せぬだろうよ]

 しばし、言葉を見失う。何も間違っていないと確信を持って腕を組んでいるいちる。もしここに娘たちがいたら、こぞって彼女を批難しただろう。この見た目、その力、その身体。恵まれたそれらを持って、何を言い出すのか。

「……あなたを口説くのは、千年かけないとやっぱり難しそうだなあ」

[何を今更]

 しかしそれがひどく楽しそうに思える。

 いちるはおかしいのか、くつくつ笑っている。

(そうか。千年か)

 おそらくはそれ以上。

 アンバーシュはいちると暮らしていく。いちるは何者にも損なわれはしないし、損なわれさせない。そのしなやかすぎるほどの強さで、我を失わずに立ち続けるのだ。

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